「おはよう」
「おはよう、不二」
こうして声をかけるのに、半年近くかかったのではないかと思う。
忘れ物
部室に入って来た裕太は木製の長椅子に腰をかけて一息吐く。窓の外から鳥が朝を告げる。
「金田、当番だったっけ」
「部長に頼まれたんだよ」
苦笑する金田は鍵を観月のパソコン前に置いた。
2人きりの部室は静かで、広い感じがする。
「あ、あのよ…」
テーブルの木目を凝視して、裕太は金田に話しかけた。
「ん?」
「昨日さ。昨日なんだけど」
「うん」
「ほら、アレ………助かったよ。どうしようかホント困ってて」
「どういたしまして」
金田はにっこりと笑う。彼には裕太が何を言いたいのかがわかったようだ。
「こ、これさ」
横に置いた鞄の中から教科書を取り出して、手渡した。
「うん。いきなり俺の所へ来るからビックリしたよ」
「ごめん」
「怒ってないよ」
返してもらった教科書を鞄にしまっている金田に、再び裕太は話しかけた。
「あ、あのよ…」
「ん?」
「初めてだったんだ」
「何が?」
「中学に入ってから、人に物を借りるの」
裕太のぼそっとした声が、部室に響く。
青春学園に入ってから兄と比べられ、近付く人間も、自分ではなく兄に近付きたいが為に寄って来る人間も少なくは無かった。全てがそんな人達では無い事はわかっていたが、信用をするのが下手になり、次第に頼る事が苦手になっていった。貸し借りも得意ではなくなり、貸す事はあっても借りる事は無かった。
ルドルフへ転校してから、人間不信は解消されていったものの、貸し借りの苦手さは引き摺ったままであった。
先日、絶体絶命のピンチに見舞われた。何の事は無い、ただ教科書を忘れただけであったが、裕太には一大事であった。他所のクラスの知り合いはテニス部の仲間達ぐらいしかおらず、勇気を振り絞って金田に助けを求めたのだ。
金田は特に詮索もせずに、快く貸してくれた。
周りにはしっかりしているように見えるかもしれない。
しかし、本当は失敗に怯えているだけであった。
「そうなんだ」
金田は柔らかい笑みを浮かべる。
「ひょっとして不二、そういうの苦手?」
見透かすように、問いかける。
「ああ」
「また、忘れたら、俺の所へおいでよ」
にこにこと、変わらぬ笑みを見せていた。
「ああ」
裕太も微笑んだ。
彼の笑顔を見て思い出す。こうして笑い合える誰かに出会いたいと、中学へ入る前に思っていた事を。仲間達といる兄を見ていて、憧れていた事を。
「俺さ、お前の事好きだよ」
ふいに言って見せる。
「ええ?」
クスクスと金田は喉を震わせて笑う。
「笑うなよ」
「笑ってないよ」
「笑ってんじゃん」
「嬉しいんだよ」
「あ…………」
裕太はぽかんと口を開けて頬を染め、
「…………うん」
幸せを噛み締めながら小さく頷いた。
こうして笑い合える誰かに出会いたい。
俺は、お前を探していたんだ。
裕太はルドルフへ来る前、とても傷ついたんだと思う。人間不信で誰も信じられなくて、頼る事も苦手だと思う。不器用な子だと思う。金田といる事で、少しずつ救われたら良いと思う。
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