「お前、やる気あんのかよ!」
 穏やかではない弟の声に、不二は振り返った。



亀裂



 今日の練習メニューはダブルスで、リーダーの不二と河村、裕太と金田で組んでいた。すると裕太達の方から争う声が聞こえてきたのだ。不二は慌てて駆け寄り、仲裁に入る。彼の後を河村も付いていく。
 裕太も金田も温厚な部類に入るはずなのに、一体何があったのだろうか。
 内心、混乱はしているが、落ち着いた口調で声をかける。
「喧嘩?どうしたの」
 にこにこと、顔は笑顔であった。
 裕太と金田は振り返る。苛立っている雰囲気をピリピリと感じた。
「どうもこうもしない!」
 声を荒げ、裕太は金田を指差す。
「コイツが………っ、金田が」
 コイツ。口から出た言葉に、不二は驚く。
 知った限りでは、裕太が金田をコイツ呼ばわりした覚えが無い。金田も驚いて目を丸くしていた。裕太も慌てて言い換えたようで、やはり初めて金田に向けて口にしたのだろう。
「不二だって…!」
 金田も言い返そうとするが、言葉を飲み込んだ。それが裕太には気に入らなかったようで、感情をさらに高ぶらせる。
「言いたい事があったら言えよ!」
「なんだよ!」
「ちょっと待って」
 不二が割り込み、2人をなだめようとした。
 けれどこんな事は初めてで、本当はどうしたら良いのかわからない。
 河村の視線を感じる。恐らく心配してくれているのだろう。手を貸して欲しいが、今はリーダーが耐える時だとこらえた。




 練習内容を変えようとしたが、既に日は落ちかけており、このまま解散する事にした。着替えを終え、金田は自宅へ、裕太は寮へ帰ろうとしている。何とかしなければ。不二は短い間の中で懸命に頭を回転させる。
 せっかく兄弟でチームを組めたのに。
 楽しくなるはずだったのに。
 僕だけが1人浮かれていたのだろうか。
「裕太っ」
 不二は裕太を呼び止めた。身内の方が話は進めやすいと思ったのだ。
「今日、うちに来ないかい?」
 笑顔が硬くなり、張り付いたものになっているのは自覚している。けれども彼をそのまま帰す事は出来ない。必死であった。
「いや、いい」
 当然、裕太は断ってくる。怒りを抱えたままで、久しぶりの自宅には帰りたくないだろう。
「でも…………」
 食い下がろうとする不二の言葉を遮って裕太は首を横に振り、もっと明確な拒否を示した。不二の気持ちはわかっていた。だがわかっていても、胸のわだかまりは拭う事が出来ない。意地を張っている。頭では理解していても、心がついていかないのだ。


「………………………」
 不二は立ち尽くし、2人の背を目で追うしか出来なかった。気付かぬ間に横にいてくれた河村が"帰ろう"と声をかけてくれた。
 帰路を会話も交わさずにとぼとぼと歩く。足取りは重く、すっかり消沈してしまっている。沈黙を破ったのは河村であった。
「不二、抱え込んじゃ駄目だよ」
「うん」
 相槌を打つものの、どこか頼りない。期待が大きかった分、傷は深い。
「今日はゆっくり休んで、明日どうするか考えよう」
「タ…………」
 言いかけた時、前を通る人物に気付いて言葉を止めた。見知った姿、目を凝らせば観月ではないか。足を止め、呟くように名を呼ぶ。
「観月?」
「ああ、やはりここを通っていましたか」
 観月は歩み寄り、んふっと笑う。気色が悪いと思ったが、今は黙っておく方が得策であった。
 彼の微笑みが失せ、話を続ける。
「先ほど、裕太くんと通りすがりましてね」
 裕太の名前が出て、浮上しようとしていた気分がまた落ち込み、不二と河村は顔を曇らせた。
「随分と機嫌が悪そうでしたけど、何かあったんですか?いくらチーム別の対抗戦と言えども、困るんですよね。うちの部員に………」
 べらべらと喋りだす観月を遮り、不二は事の原因を話す。


「裕太と金田くんが、喧嘩しちゃってね…」
「は!?」
 観月は身を乗り出す勢いで聞き返した。
「ご冗談を」
「本当だよ」
 不二の様子からして、嘘を言っているとは思えない。観月の表情が神妙になる。
「喧嘩ってどんな?」
「口論」
「口論と言っても………。今まで裕太くんと金田くんが喧嘩をする所など、一度も見た事がありません。それは言い過ぎかもしれませんが、些細なものはあったにせよ、あそこまで腹を立てている姿は。仲の良い2人ですよ。素直な、良い子たちです…」
 終わりの方は消え去りそうな声であった。心配なのだろう。
「わかっているよ…」
 不二の声も、消え去りそうであった。
「喧嘩の理由はなんなのですか?」
「聞ける状況じゃ無かったよ」
「そうですか。では直接聞いてみます」
 髪を指先でいじり、踵を返す。
「どうするつもり?」
 開眼して、不二は問う。
「信用できません?」
「………………………」
 返事は返ってこない。返すに値しないとでも言うかのような、無言の圧力を背中で感じた。
「僕はマネージャーとしての義務を果たすだけですよ。では」
 ひらりと手を振り、観月は行ってしまった。


「………………………」
 裕太たちの背を眺めたように、不二はまた立ち尽くすしかなかった。観月の姿はゆっくりと小さくなっていく。
 今まで裕太と金田は喧嘩をした事が無かった。彼の言葉が離れない。
 僕がいけないのだろうか。自分を責めてしまう。
「不二」
 河村が名を呼び、我に返る。
「抱え込まないで。リーダーは不二だけど、チームは不二だけじゃない。俺もいるから。頼りないかもしれないけれど」
 その声は優しすぎて、愛おしすぎて、不二の胸の奥へと染み込んでいく。鼻の奥がツンとした。
「僕は、心強いと思っているよ」
 不二は歩き出す。不安はあるものの、心の重石は軽くなった。一緒に持ってくれる人がいるのだと、わかったからだ。




 ルドルフの寮。裕太は戻り、自室へ入ると荷物を放り出してベッドへ入り込んだ。制服を着たままなので、完全に休まる感じはしないが潜り込んでいたかった。
 どうしてこんな事になってしまったのだろう。心は後悔に支配されていた。
 あの時、あんな事を言わなければ、こんな言葉で言い返さなければ。今更どうにもならない行動の数々が思い出される。
 そのまま眠り込んでしまったようで、壁掛け時計を見ると時間が経っていた。ぼやけた意識の中で、扉を叩く音が聞こえる。
「裕太くん、います?」
 観月の声であった。
 人に会いたくはない気分ではあるが、相手が観月ならば通さない訳にもいかない。
「今、開けます」
 眠気と気だるさの残る身体を起こし、扉の鍵をはずした。僅かに扉を開け、観月と目が合うと彼は細かく瞬きをした。寝起きだというのを悟ったのだろう。考えてみれば、服も皺になっている。
「話がしたいと思ったのですが、お邪魔でしたか」
「いえ、大丈夫です」
 苦笑を浮かべて招き入れる。部屋を見渡せば、ベッドの布団はくしゃくしゃであった。観月は勉強机の椅子に座り、裕太はベッドに腰をかけた。
「聞きましたよ」
 率直に言ってくる観月に、何をと裕太はきょとんとする。
「金田くんと喧嘩したんですって?」
 さすがだ…。尊敬なのか何なのか、彼の前では誤魔化しは通じないと感じたのか、裕太は正直に認めた。
「はい」
「何があったんです?」
 僅かに視線を逸らし、呟くように理由を言う。
「ダブルスの練習をしていて、金田は俺の動きに不満があるみたいなのに言おうとしないで、段々とイライラしてきてしまって…」
「喧嘩になったと」
「はい。確かに俺が怒り出したのが発端ですけど」
「原因を作ったのは金田くんだと」
「………………………」
 裕太が無言で頷いた。観月は裕太の言いたい事、言い辛い事を予想して話を繋げていく。
「金田くんは元からそういう子でしょう?」
「わかってますよ」
「いつか、起こる争いだったんでしょうね。はっきり言ったらどうです?そうしないと、また同じ事で喧嘩になるかもしれませんよ」
「………………………」
「ま、それが出来たら苦労しませんね」
 苦笑して見せ、裕太の気持ちを楽にさせようとした。
「金田くんだって、言えなかったんでしょう。どうして、君たちは言わないんだと思います?その理由が同じだとしたら」
「………………………」
 裕太は口をつぐんだままだった。頭の向きは徐々に傾き、俯きに変わる。
「だから………そういう事です」
 軽く手を叩く観月。話の締めを意味していた。椅子を軋ませて立ち上がり、反射的に裕太は顔を上げる。
「君たちが仲違いすると、おちおち引退も出来ません。では」
 そう言い残して部屋を出た。扉を閉じた後、指先で髪をいじる。
「少々、金田くんの名前を出しすぎましたか」
 首を横に振り、自室へ戻って行った。
 観月が去った後も、裕太はベッドに座ったまま動こうとはしない。


 言えなかったのは、嫌われたくなかったから。
 嫌われたくないのは、一緒にいたかったから。
 一緒にいたかったのは。


「はー…」
 長い息を吐く。
 理由はわかっている。
 一緒にいたかったのは、好きだから。
 たった2文字なのに、心に描くだけで胸が高鳴る。それがただの2文字ではない事を理解しているから。ただの好きではないから。
 もう抑え切れないのだろうか。もう抱えきれないのだろうか。今のままで居続ける事は出来ないのだろうか。
「はー…」
 溜め息が尽きない。それが出来たら、苦労はしないのだ。
 何から何まで観月の言う通りで、図星をさされている。だが彼はどうするべきかを教えてはくれなかった。意地の悪さを感じるが、文句をつける資格も無い。








 翌日、練習場のコート。裕太は金田の姿を見つけるが、視線を合わせ辛い。逸らしたままでいると、金田が声をかけてきた。
「不二」
「…………金田」
 返すのに間が空く。
「………………………」
 金田の方も名を呼ぶだけで、後が続かない。
 そのまま何も伝えられずに練習は始められた。メニューは先日と同じ、ダブルスであった。そして同じように裕太と金田は組む事となった。
 どんな言葉ならば揉めないで済むのか。当たり障りの無い内容だけで交わされる言葉。一向にはかどらない。先日の事さえ、どう触れれば良いのかわからず避けていた。
 このままではいけない、このままではいけない、そう何度も自分に言い聞かせてやっと出てきたのはぶっきらぼうな言葉。
「何か言いたい事があるなら、言ってくれよ」
 低い上に聞き取り辛い、裕太の声。
「別に………」
 金田は視線を逸らし、手を止めた。
「別にじゃないだろ、あるんだろ」
 つい、声が大きくなってしまう。感情が高ぶり、カーッと熱くなる。我ながら短気とは自覚しても、直せるものではない。


「2人とも」
 落ち着いた声で不二が止めに入る。隣には河村がいた。
「また喧嘩?」
 横目で河村を見て、彼は意を決する。
「よく話し合おう。皆で話せば、どうすれば良いのか見つかるよ」
「………………………」
 裕太と金田は互いの顔を見合わせた後、小さく頷いた。
 練習をやめて、ミーティング室で遅くなるまで4人で話し合った。話し合うだけでその日は終わってしまったが、裕太と金田の間に入った亀裂は修復する事が出来た。次の練習からダブルス経験の長い金田が裕太の動きを的確に指摘して、コンビネーションを深めて行く。
 その様子を少し離れた場所から、満足気に眺める不二。不向きだと思っていたリーダーの役目だが、チームに手応えを感じていた。そんな彼に、河村は何かのノートを持って歩み寄る。
「不二」
「ん?」
「明日の練習試合の相手」
 そう言って、ノートを手渡す。開くと目に付いた名前に眉を潜めた。
「観月、か」
 対戦相手のリーダーは観月と記してある。
「ひょっとして、こないだのは偵察だったのかな」
「そうかも」
「負けられないね」
「ああ」
 不二と河村は視線を交差させた。その瞳の中には勝利への意志がこめられている。
 育て上げた力を試す時。試合が楽しみであった。







観月の意図が読めませんが、ご自由にご想像下さい(えー)。
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