ともだちの唄



 放課後、神尾は1人帰路を歩いていた。今日は部活が無く、早く帰れる分何をしようかなどと考えていた。いつも一緒に帰っている伊武は日直があるらしく、先に帰って良いと言われた。待っていると言ったが、何時終わるかわからないと、断られた。


「あ」


 神尾は立ち止まり、スポーツバックに手を入れる。
 はぁ。
 短い溜め息を吐いて、道を戻る。


 部室に今日洗濯するはずだったリストバンドを忘れてしまった。


 そんなの明日にすれば良いかもしれないが、神尾は綺麗好きであった。








 学校へ戻り、部室のドアのノブを掴もうと伸ばした手が止まる。
 中に人の気配がする。


 昔、自分たちを苛めていた先輩達が、彼女を部室に連れ込んで淫らな行為をしていた記憶が脳裏を過ぎる。橘が部長になった後は、そんな事は無くなったのに。テニス部員が少ないのを良い事に、誰かが密会の場所に選んだかもしれない。


 どうしよう………
 俺は部員だし、堂々と入る資格はあるのだけれど………


 躊躇う神尾に手を差し伸べるように、立て付けの悪いドアが自然と開き、僅かな隙間を空けた。
 そうっと、中を覗き見して、入るチャンスを伺う。




「………………っ………」


 全身の血が引く感じがした。




 部室の中には2人の人間がいた。
 抱き締めあうように、2人は口付けをする。


 深く、長い、口付け。
 ディープキスという奴だろう。


 息の漏れる音。
 濡れた音。


 それはリアルで、エロティックだった。


 これが見知らぬ男女の行為だったのなら、好奇心へと変わって行ったかもしれない。


 もう頭の中がグラグラで。
 眩暈がして。
 心臓の鼓動が激しくて。
 感覚が無くなりそうで。
 どうにかなってしまいそうで。


 だが耳は、容赦なく現実を伝える。




「んっ……………伊武………苦しい……」
「桜井、顔真っ赤だよ?」


 今、はっきりと名前を呼んだ。


 伊武。
 桜井。


 神尾の部活仲間で、友達で。
 伊武は一番の親友で。


 その2人が、キスをしていた。


 あんな、音のするキスを。


 こんな、ありえない現実。
 早く、早く、夢なら醒めて欲しい。




「あ」
 伊武が桜井の首筋から鎖骨へ、線を描くように唇を落としていく。
 ふと、桜井の視線がドアの方へ向いた。


 視線が交差する。


 桜井の視線の先には、呆然と立ち尽くす神尾の姿。
 僅かな隙間しか空いていないが、彼だと一目でわかる。


 神尾の顔が強張る。
 驚いたら良いのか、怒ったら良いのか、泣いたら良いのか、笑えば良いのか、
 もう全てがわからない。
 無表情のまま、神尾は逃げるように部室を離れた。全速力で家へと帰った。


 早めに蒲団へ入り、眠ってしまおうと思った。
 目を瞑るのと浮かんでくるのは、伊武との思い出で。
 色々な事があったが、それは結果的幸せなはずなのに、
 胸の辺りがギュッと締まって、嫌な気分になる。


 ただ頭は混乱するばかりで、こんなにも“考える”という事が嫌になった日は無かった。








 次の日の朝、通学路の途中で伊武に出会った。
「おはよう」
 いつものように、挨拶される。いつもの声、いつもの顔、いつもの伊武だった。
 一瞬、昨日の事は夢だったかもしれないと思ったが。
「昨日、日直終わってすぐ家へ帰ったらさ……………」




 さらりと、嘘を吐かれた。
 伊武はすぐに家へは帰っていない。


 ぞっとした。




 昨日の一件を知ることが無かったら、彼の嘘を鵜呑みにしていただろう。
 そうやっていつも、俺に嘘を吐いていたのか?


 俺は、深司の事を友達だと、親友だと思っていたのに。
 お前は違うのかよ。


 学校へ続く道を一歩ずつ進むたびに、神尾は心が削ぎ取られていくような気分だった。




 校門をくぐって、部室へと入る。神尾達が最後だったようで、いつもの仲間達がそこにいた。
 神尾は今、桜井が自分を見た気がして、ビクリと肩を動かした。いや、隣にいる伊武かもしれないと思い直す。意識をしすぎて、神経が過敏になっていた。
 つい先日までは、肩を叩いたりし合えたのに、触れることすら出来ない。目を合わす事すら出来ない。存在を感じる度に、ズキズキと心が痛む。


 練習が始まり、一区切りついてベンチで休んでいた時、隣に誰もいないと気付いた時には遅かった。桜井が見計らったように神尾の隣に腰をかける。
「…………………」
 桜井は手を前で組んで、しばらく黙り込んだ後、口を開いた。


「神尾」


「あれ、やっぱ神尾か?」


 部室のドアの隙間から、覗いていたのは?


「…………………」
 神尾は答えない。
 もしも、あれが神尾で無かったのなら“何の事だ?”と聞き返していただろう。


「あの、神尾…っ」
 桜井は神尾の方を向く。反射的に神尾は視線を逸らす。


「聞きたく、無い」


「え?」


「聞きたく、ねぇよ」
 神尾の声は落ち着いているが、押さえ切れない怒りがこもっていた。


「…………お前の趣味は、とやかく聞くつもりはねぇけど……………どうして………深司なんだよ。
 深司は、俺の…………親友…………なんだぞ…………」


「………………そ、そうだよな…………い……」


 ガッ。
 神尾は桜井の胸倉を掴んだ。


「その名前を俺の前で呼ぶんじゃねえよ…………」
 泣き出しそうな顔で、必死にこの場で殴り飛ばしたい気持ちを押し込めた。


 桜井に、深司の名前を呼んで欲しくない。
 男に、深司に、恋愛感情を持つ奴などに、呼んで欲しくない。


 汚らわしい…!


「2人とも、どうした?」
 橘が怪訝そうな表情で2人に近付いてくる。


「何やってんの?」
 いつのまにか神尾の背後に立っていた伊武が、桜井の胸倉を掴んでいた手を引き剥がす。


「ああ、俺が悪いんだ。ごめんな、神尾」
 桜井がぎこちない笑みを浮かべる。


「そう?」
 素っ気無い素振りで首を傾げた後、伊武は神尾を気遣うように“コートへ行こう”と彼の背中を軽く叩いて声をかける。


 神尾を優先させた行動のようだが、本当は違う。
 伊武は、桜井を庇った。
 一瞬の出来事だったが、神尾の手を掴んだ伊武の手は、乱暴でかなりの力がこめられていた。


 俺の桜井に何をしている、と言わんばかりに。


 ひどいよ…………深司………………。
 俺はお前が大切なだけなのに………………。
 神尾は汗を拭う振りをして、涙を拭った。








 昼休み、神尾は1人屋上で寝転んでいた。
 普段、昼食は伊武と、たまに部活の仲間達と食べていたが、今日は、今の気持ちでは、伊武の前で平生にいられる自信が無い。


 なんだか、世界でたった一人ぼっちになってしまったような気分で。
 体の真ん中が、ぽっかり空いてしまったような感じがして。
 ひょっとしたら、このまま死んでしまうのかもしれない……なんて事をぼんやりと考えていた。


「かーみおくんっ!」
 大好きな声が、頭の上の方で聞こえる。
 いつもなら、その声一つで飛び起きれるはずなのに。
 それを耳で聞いて、感じ取れる心が、今は無い。


「神尾く〜〜ん?」
 声の主、神尾の大好きな女の子………橘杏が、顔を覗き込んで来て、目がバッチリと合う。
「起きているなら返事ぐらいしてよ」
 神尾の額を指で突付く。


「ごめん」
 きょろりと瞳を動かして、杏の横にある遠く高い空をぼんやりと眺める。


「神尾くんも食休み?」
 神尾が視線を逸らしたのもお構いなしに、杏は彼に笑いかける。
「まだ食ってない」
「ええ?お昼休み半分過ぎてるわよ」
「食欲無くって」
「そうなんだ。そんな日もあるわよね」


 よいしょと声を漏らして、杏は神尾の隣に座る。


「今日の神尾くん、元気無いねえ。お節介かもしれないけど、私で良ければ話を聞くよ?」


 神尾と同じように、空を見上げる。


「心配だもん」


 杏ちゃん………
 そっと神尾は杏の横顔を見つめた。


 そっか。
 俺は1人じゃなかった。


 心の中がいっぱいで、こんなにも近くで自分の事を思ってくれる存在すら見失っていた。


「杏ちゃん、実はさ」
 ゆっくりと、語りだす。


「…………深司が……………とっても大切な事を俺に話して無くて…………ずっと嘘を吐かれていて…………すっげーショックで……………。
 ………俺はずっと深司の事を大切な友達だと思っていたんだけど……………深司はそうは思ってはくれて無かったみたいで………………俺達の今までって何だったんだろう……なんて………」
 泣きたい気持ちが喉の奥から込み上げて来るが、なんとかこらえた。


 少し肌寒い風が、頬を撫でる。


「伊武くんは神尾くんの事、友達じゃないみたいな事言ったの?」


「直接は…………言われて無いけど……………」


「そう思っちゃったんだ」


「…………うん」


 杏は座り直して、一息置いた。


「嘘ってさ、何も考え無しに吐くもんじゃないと思うよ。言えない理由だってあったんじゃないかな。
 大切に思っているからこそ言える事と、大切に思っているからこそ言えない事ってあると思うよ?」


 杏の言葉は、神尾の胸の中にスーッと染み込んでいく。


「…………そうかな?」


「そうかもよ?だって伊武くんは大切な友達なんでしょう?」


「…………うん、友達だ」


 神尾は上半身を起こし、伸びをする。


「さんきゅ、杏ちゃん」
「面と向かって言われると照れるよ」
 杏はほんのり頬を染めて、照れ笑いを浮かべた。そんな彼女の反応に、神尾の顔に熱が集まる。


 杏ちゃん、やっぱり君は最高だ。
 神尾には、彼女の言葉は絶大だった。








 放課後の、部室が始まる前の僅かな時間に、神尾は桜井を図書館へ連れて行った。HRが終わってすぐなので、まだ人が集まって来ていない。
「朝は悪ぃ、俺も混乱していて…………やっぱ、話を聞きたいと思った」
 神尾は椅子には腰掛けず、棚に寄りかかる。
「いや………………謝るなよ………………」
 浅く椅子に座って、桜井は首を横に振る。


「…………俺と伊武、付き合ってんだ」
 小さいが、はっきりとした声で言う。
「そ、そう」
 実際言葉にされると覚悟は決めてきたが、やはりショックを受ける。
「…………2ヶ月…………ぐらいになるかな……。こんな、放課後の時間に、伊武から……」
「ざけんな!深司の方からなんてあるか!」
 神尾は思わず背中を棚から離す。
「お、俺だって……………そりゃビックリしたよ………。俺の事そんな風に見てたのかよって、ショックだったし」
 桜井は当時の事を思い出すように、髪をいじる。


「もちろん女の方が好きだし…………。でも、伊武がとても真剣だったから…………
 俺、あんまりアイツと話した事無かったけれど…………気持ちは伝わってきたから…………
 これが伊武じゃなかったら、仲間じゃなかったら、適当な事言って断ってた……………
 ただそんな趣味は無いって理由だけで、断ることが出来なかったんだ……………。
 試しにっていうのは悪い表現だけど、付き合ってみる事にしたんだ。伊武にも、男同士で恋愛なんて良くわからないって、ちゃんと言った」
 僅かではあるが、桜井の表情が明るくなって来た。


「付き合うって言っても、道を2人で歩いてみたり、空いた時間にゆっくり話してみたりとか、大した事して無かったけれど…………伊武が、俺の事を好きでいてくれるって気持ちが、伝わって来て……それがあまりにも心地良くて…………俺もその気持ちに応えたいって思うようになって………気がついたら、俺も伊武が掛け替えの無い存在になってた。
 今も女の方が好きだし、男と恋なんて考えられないけれど、伊武なら良いって思えるようになったんだ」
「…………………………」
 神尾は先ほどの怒りは、すっかりと治まっていた。
 2人が付き合う前から、伊武は桜井の事が好きだったらしい。彼の話からして、相当伊武は思い悩んでいたのではないか?そう考えると、友達友達と口にし、思い込んでいた自分がちっぽけに見えた。


「神尾」
 桜井は神尾の顔を見上げる。
「実は昨日、神尾に見られたって伊武には言ってない」
「え?」
「恋人らしくなって来た頃、俺はこの関係を隠さなくても、せめてテニス部の仲間にだけは打ち明けても良いんじゃないかって伊武に話したんだ。でも伊武は、頑なに神尾には話したくないって言ってた」
「………………」
「怖かったんじゃないかな……いや、俺だって怖いけど。特に神尾は話をあまり聞かないし、突っ走るし、思い込み激しいし、好き嫌いはっきりしすぎだし、潔癖っぽいし……………あ、いや、ごめん………」
 神尾から不穏なオーラを感じ、慌てて桜井は手をパタパタと振る。
「神尾はほら、橘さんの妹…………女の子が好きじゃないか。
 伊武、言ってたよ。友達って呼べる友達が出来たのは、中学に入ってからだって。神尾が、一番の友達だって。何をしてでも、嫌われたくなかったんじゃないか?」
「………………」


 酷いのは、俺の方だ。
 深司は俺のこと、本当に思っていてくれていたのに。
 俺はたった一つの事を隠していたというだけで何も見えなくなって、疑って、被害者妄想に浸って。
 わかろうとしなかった。


 神尾はぐすぐすと滲み出る涙を手の甲で拭う。


「神尾、自分を責めんなよ。伊武だってお前のそういう所、ひっくるめて友達でいるんだから」
 桜井は立ち上がって、神尾の髪をクシャクシャと撫でる。
「…………羨ましいな」
 彼の呟きに、神尾は顔を上げた。
「まだ俺は伊武と付き合って日も浅いから、気持ちが通じない事とかたくさんあるし、お互い知らない事だらけだし、不安ばっかりなんだ。ときどき…………神尾みたいに伊武とツーカーで通じ合えたら良いのに、なんて思うんだぜ」
 神尾の目に映るのは、自嘲的に笑う同級生の桜井の姿。
 伊武と付き合っていると知り、別次元の存在に見えた彼だったが、何の事は無い。神尾の知っているいつもの桜井だった。恋の行く末に不安になったりもするし、ヤキモチも妬いたりする。男同士という点だけで、他は普通の恋愛と変わりは無い。今まで抱いていた嫌悪感は、ただの偏見であった。


「神尾が伊武を名前で呼ぶ度に、良いなぁとかさ」
「え?深司って?」
 きょとんとして問う神尾に、桜井はこくりと頷く。
「呼べば良いのに」
「いや………………その…………」
「ほら、深司ってさ」
「…………………………だ、駄目」
 桜井は俯いて、桜色に頬を染めた。




「い、今ときめいちまったじゃねえかよ!!俺は杏ちゃんが好きだってのに!」
 神尾は心臓を押さえて桜井から離れる。
 不覚にも、彼を可愛いと思ってしまった。
「神尾があんな事言うからだろ!」
 照れて怒り出す仕草が、また可愛いと思ってしまう。
「あーもーヤバイ!部活もそろそろ始まるし、俺行くわ」
 神尾は逃げるように図書館を出て行く。何かを言いながら、桜井も後を追う。




 すっかり日の暮れた暗い通学路を、部活を終えた神尾と伊武は2人並んで歩く。
 桜井の言った通り、伊武は昨日の件を全く知らないようで、何食わぬ顔で神尾に嘘を交えて雑談をする。にこにこして耳を傾けていた神尾だったが、不意に意を決したように真剣な表情に変わった。
「なぁ深司」
「ん?何さ」








「お前さ、桜井と付き合ってんだろ?」







かなり前から話を練り込んでいたんですが、どうにもこうにも纏まらない上、色々なパターンがありまして…こんな形の神尾が伊武と桜井の関係を知る話となりました。
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