「橘さん、橘さん、橘さん」
 嬉しそうに後輩たちが駆けてくる。
「どうした、そんなに走って」
 それに笑顔で橘は受け止めた。
「あのですね、あのですね」
 切らした息よりも、伝えたい気持ちがまさって、むせながら言葉を紡ごうとする。
「焦るなよ、俺はどこにもいかないぞ」
 そう言葉をかけると、照れ臭そうに後輩たちは笑った。


 橘はいつも笑顔に囲まれていた。ここは東京で見つけた橘の居場所であった。
 ふと輪の外を見ると、距離を置いた場所から桜井がこちらを見つめていた。
 まっすぐに見つめるその瞳は、まっすぐにこの目の中に入ってきて、心の中を見透かされてしまいそうな感覚に襲われる。笑顔の奥までも見透かされてしまいそうで、そっと視線を逸らした。



温かな手



 ある部活を終えた放課後。制服に着替えている2年生達の中で、1人ジャージ姿で部誌を書いていた橘が顔を上げる。
「今日はお前たち、もう帰って良いぞ」
「え?まだコートの点検が……」
 開口一番に神尾は言う。
「明日は2年生、テストなんだろう?」
「なんで知ってるんスか?」
「神尾、お前が自分で橘さんに話していたじゃん………」
 伊武がぼそりと呟く。
「こういう事は俺たち全員でやろうって決めたじゃないですか」
 着替え終わった石田が意見する。
「こないだ俺がテストの時はお前たちに任せたからな。お互い様だよ」
 後輩の生真面目ぶりに橘は苦笑した。
「じゃあお言葉に甘えさせていただいて、俺失礼します」
 帽子を取って頭を下げて、内村が部室を出て行く。
「じゃあ俺も!おつかれさんです!」
「内村と神尾も帰っちゃうの?お、俺も」
 神尾と森も退場をする。続いて石田、伊武、桜井の順番に出て行った。


 しん、と静まり返り、誰もいなくなると、橘は姿勢を崩して楽な格好で部誌を書き続ける。筆を走らせながら窓を見ると、どんよりと曇ってきた事に気がつき書くのを途中で止め、外に出てコートへ向かった。


 ぽっ。


 手の甲に冷たいモノがついて、反対の手で擦る。地面を見ると、水の点が所々に付いていた。
「降ってきたか…………」
 1人呟くが、フードも被らずにそのままコートの点検を始める。少量の雨だったら、濡れるのも良いだろうと思ったからだ。フェンスの角に、回収していなかったテニスボールが一つ転がっていた。身を屈めて拾おうと手を伸ばす。


 ぽっ。


 首の後ろに雨が入り、服の中の素肌の中を通った。気持ちの悪い感触に、顔をしかめた。
 しばらくは小雨だと思っていた雨はしだいに粒が大きくなり、傘を持たない橘の体にボタボタと降り注いだ。濡れてまだら模様になった利き腕を左手で叩いて滴を落とした。
 防ぐ手段のないまま、冷たい水を浴び続けていると、九州にいた頃の記憶がぼんやりと頭の中に浮かび、古い傷のように染みていく。




 あれは、長い雨だったように感じる。
 傘を奪われ、たった一人ぼっちで濡れる体を抱き締めて、ただじっと雨が止むのを耐えていた。
 笑顔のままで、この土地に来た訳ではなかった。




「ん?」
 突然視界が暗くなり、橘は何が起きたのかと顔を上げる。
「風邪ひきますよ」
 苦笑いを浮かべた桜井が橘の後ろに立って、彼を傘の中に入れていた。
 無意識にあの頃と同じ瞳で、睨むように後ろを振り返ってしまう。
「っと」
 違う色を含んだ橘の瞳に驚いて、桜井は一歩退さる。
「桜井か。どうしたんだ」
 いつもの笑みを浮かべると、桜井は安心したように肩を下げた。


「今日、橘さん傘を持っていなかったじゃないですか。俺、部室に置き傘あったのを思い出して……」
「その為にわざわざ戻ってきたのか?」
「はい」
「そうか…………」
 当然のように返事をする桜井に、橘は自嘲気味に笑う。
 見透かされているように感じていたのはただの思い過ごしで、桜井も自分を慕ってくれる後輩の1人であった。視線を逸らし続けた事に罪悪感がする。
「俺もな、置き傘をしているんだ」
「え?…………な、なんだぁ」
「すまなかったな。でも礼を言わせてくれ」
 橘はよっ、という声を出して身を起こす。


「橘さん、そんなに濡れて大丈夫ですか?」
 桜井が心配そうに濡れた橘の体を見た。
「これぐらい、濡れても寒くはないさ」
「そんな訳ないじゃないですか、濡れたら誰だって寒いですよ。ほら………」
 桜井は橘の手を取って、そっと握る。
「こんなに冷たいじゃないですか………」
「……………」
 呆気に取られた橘は握られた手から眼を離せなかった。




 長い雨の中。
 傘を奪われたのは自業自得だった。
 けれど、降り注ぐ雨は体温を奪っていき、凍えるように寒かった。
 寂しくて、悲しくて、体は震えるばかりであった。
 声を出すことは許されなかった。助けを呼ぶことは許されなかった。
 そんな時にふいに差し出された手。見上げれば温かな笑顔があった。
 雨なのか、涙なのか、鼻水なのか、濡れたままの顔を拭おうとはせず、
「寒かった」
 と鼻声で言った。


 両手を丸ごと包んでくれた手は、燃えるように熱かった。
 今、包んでくれている桜井の手と同じように。




「温かいな」
 感触をもっと確かめるように、静かに目を閉じた。
「橘さん?」
「このままで部室に行ってくれるか?」
 開いた瞳で、桜井の瞳をじっと覗き込んだ。
「はぁ………」
 桜井は小首を傾げて、手を繋いだままで2人は部室へと歩き出す。
「帰りにスーパーでも寄ろうかな」
「はぁ………」
 きょとんとした顔で、桜井は相槌を打つしかなかった。
「家族孝行が、急にしたくなってな。腕を振るって何か作ろうと思うんだ」
「珍しいですね。橘さんが俺にそんな事話すなんて」
「そうか?」
 橘は無邪気に笑う。
桜井の手から伝わる温度が、今ある幸せが暖かな愛の上にある事を、改めて気付かさせてくれる。
 見透かされるように感じた彼の瞳は、理屈なく惹かれる引力に寄るものだったと気付かされるのは、もう少し後の事であった。







橘さんにヘビーな過去があると知って書きたくなった橘×桜井。捏造も加えてみたので冒険的な話かもしれないです。
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