関東大会の表彰式が終わった時であった。
「この後、打ち上げしねえか?」
 神尾が皆の注目を集めるようと、手を振りながら言う。
 全国へ行けるようになり、意気込む為にも、外ではなく落ち着いた場所で、喜びを分かち合いたかった。
「そうね。良いわね」
「俺もやりたい」
 杏と森が賛同し、他のメンバーも次々と参加を希望する。
 場所はどこにしようかと盛り上がる中で、桜井は隣に立つ石田の腕を軽く引っ張り、爪先立ちで身長を近付けて話しかけた。
「俺はどこでも大丈夫だからって言っておいて。ちょっと離れるわ」
「え?ああ」
 石田が返事をすると、桜井は鞄を預け、まだ生徒達が残っている大会の会場の中へと、小走りで駆けて行った。






 不動峰の仲間達から見えなくなるまで離れると、何かを探すように辺りを見回し、門の方へと向かう。
 はっ、はっ。吐かれる息の音が大きくなっていく。走ったので、頬は少し上気した。夏の暑さもあって額には汗が浮かぶ。
「はー…………」
 門の前に辿り着くと、落胆したように、中腰になって大きく息を吐いた。地面のアスファルトの熱が、靴底を伝って、じんじんと熱くさせる。気を取り直して顔を上げ、会場から出た。歩きに変えたが、その目はまだ、何かを探すように忙しなく動いた。
「何やってんだ……」
 道の真ん中で歩みを止め、自嘲気味に呟く。前には進まず、横に寄り、石の壁に背をつけた。
 探していたものは見つからなかった。見つかりそうに無いので、探すのをやめた。


「……………ん……」
 心の中で呼んだ言葉の最後が、無意識に口から漏れる。


 柳生さん。


 もう一度、心の中で呼んで、何かが込み上げたのか、目の間を指で摘んだ。
 桜井は、立海の柳生を探していた。
 立海は式の時に前に出なかった事だけあり、終わると早々に会場を立ち去ってしまった。走れば間に合うと思っていたが、考えは甘かったようで、立海生徒の姿は何人か見かけたものの、レギュラーの姿は見えない。もう今頃はバスか何かに乗って、遠くの方にいるのだろう。


 深呼吸し、息を整えて、もう一度思い直してみる。
 自分は柳生に出会って、どうするつもりだったのかを。
 さよならと、別れを告げたのは誰だったのか。
 彼との思い出を無かった事にしようと考えていたのは、誰だったのか。


 全て、俺だった。
 桜井は頬を押すように、叩いてみせる。しっくり来ない音がした。


 どうするかなど、考えてはいなかったかもしれない。
 理屈では無かった。ただ会って、何か一言でも、挨拶一つでも、言えたら良いと思っていた。
 それだけだった。ただそれだけの為に、体は動き、走っていた。
「何やってんだ……」
 もう一度、自分に言い聞かせるように呟く。
 頭の中は、戻ったら何を言おうと、言い訳の言葉を浮かべていた。伊武にどう謝ろうか。伊武は何も知らないのに、謝る事を考えていた。謝る、と言う事は、悪い事をしているという自覚の表れかもしれない。自分は彼の愚かな恋人なのだと、申し訳ない気持ちになった。






 会場に戻ろうと、壁から背を離し、門の方へ向くはずだった首は、何かに惹かれるように、ふいに反対方向へ曲がる。その視線の先に移ったのは、見知った人影。一度しか見た事は無いが、時間もそう経っていない事もあり、はっきりと誰だかわかる。
 その人物もこちらの方を向いた。目が合うと、大股で歩いてくる。ある程度まで近付くと立ち止まり、口を開いた。


「よう」
 思っていたより高い声が、桜井の耳に届く。


「………千歳…さん、でしたよね?」
 恐る恐る、名を呼んだ。
「おう、正解」
 千歳がニッと笑った。
「よう知っとるね。桔平から聞いたと?」
 また一歩、大股で近付いて見せる。もう一歩近付けば、桜井の鼻は彼の胸にぶつかってしまうだろう。高い身長は影となって、桜井の顔に当たっていた太陽の光を塞ぐ。
「君は不動峰の子」
 額に向けて人差し指を差した。
「正解?」
「はい」
 桜井は頷いた。


「1人?もう解散?」
 腕を組んで、見下ろすように千歳は聞いてくる。
「いえ…………その………」
 柳生を探しに、一人離れているとは言えるはずもなく、桜井は言葉を濁す。
「無理せんで俺に話さなくても良かよ」
 そういう義理も無いと、声を殺して喉で笑った。
 笑顔のままで身を屈めて、視線の高さを合わせる。柔和な表情とは裏腹に、その中にある瞳は鋭く、恐怖さえも感じる程、尖った刃物のようだった。大きな手を桜井の頭に乗せ、撫でるように髪をくしゃくしゃとさせた。
「よう見ると、可愛い顔しとるね」
 ニッと笑いかけられるが、桜井はどんな顔をしたら良いのかわからず、戸惑ってしまう。
「一人一人はよう見とらんけど、不動峰の子は、皆可愛いんじゃろう」
「…………………」
「桔平も、可愛くて仕方ないんじゃろう」
 何かを懐かしむように、瞳はとろんと半眼になり、鋭さを失っていた。


「のう。桔平が好きか?」
 撫でるのをやめ、千歳は桜井に問う。答えは決まっていた。


「好きですよ」


「おう、俺はもっと好き」
 表情を変えずに、そのまま言い放つ。


「よっと」
 膝に手を置き、千歳は身を起こした。
「じゃ、桔平をよろしく……」
 片手を挙げて背を向け、千歳は下駄を鳴らして人の群れの中へ消えていく。桜井は眉をひそめて千歳の背を横目で見た後、会場へ戻って行った。






 桜井と別れた千歳は、おもむろに携帯を取り出し、電話をする。
「ああ、桔平。俺」
 スピーカーの部分から、橘の声と共に同じぐらいの音量の雑音が聞こえた。側で数人の人間が話し合いでもしているのか、ごちゃごちゃとしていて耳障りであった。
「お腹空いた」
 そうか。橘のあっさりとした返事が返って来る。
「めちゃめちゃ空いた。ほら、鳴ったばい」
 鳴ってもいない腹を軽く叩いた。本当に鳴ったとしても、橘には聞こえるはずも無いが。
「美味しい物、食べたか〜」
 甘えたような声を出すが“そうか”と、またあっさりとした返事をされる。
「俺、右も左もわからんよ。桔平、連れてって」
 返事は返ってこない。それもそのはず、橘は後輩たちと打ち上げの話し合いをしている真っ最中なのだから。少し間を空けて“すまない”と一言詫びて、頼みを断った。
「…………大会、終わったんじゃなかと?」
 はいそうですかと諦めはせず、食い下がる。しかし胸には、動揺の苦味が広がっていた。
「桔平、冷たくなったばい。俺、桔平に会う為に東京来たとよ?俺、東京で1人ぼっちじゃ。酷か…桔平、酷か…」
 ぐすっ。鼻を啜って不幸の演出をする。


 わかった。


 低くて良く聞き取れなかったが、確かに橘はそう答えた。
 千歳の顔が今、本当に明るくなった。輝くように、パッと変わる。
「おう!杏も呼べるなら、一緒に来…………そうか。呼べるなら……と思っただけじゃ。うん、で……」
 橘と待ち合わせ場所を話し合う千歳のズボンのポケットには、小さく畳まれた東京のガイドブックが突っ込まれていた。






 その頃、不動峰の仲間達の所へ戻って来た桜井が初めに聞いたのは、橘が打ち上げには参加しない事であった。
「え………なんで………?」
 口を薄く開いたまま、石田に理由を聞く。
「用事が出来たんだって」
「ふうん……」
「橘さんいないと寂しいけど、しょうがないよな」
 桜井の横で、神尾が言う。


 千歳と別れてから、頭の中で彼の声が重りのように、どっしりと存在して退こうとしなかった。橘の用事というのは、千歳の事かもしれない、それは思い過ごしだと思いたいが、彼の声が頭から離れない。
 今日ほど、橘との距離を感じずにはいられなかった。決して遠すぎてはいない、近いはずなのに、そう特別でもない。他人なのだから、仕方の無い事。けれど、それだけで済ますには、あまりにも寂しいものがあった。


「桜井?」
 きょとんとした顔で、伊武が名を呼ぶ。
「さっきどうしたの?何かあった?」
「うん、ちょっと」
「そう」
 伊武はじっと桜井を見つめ続ける。
「元気ないね、大丈夫?」
「うん」
「ずっと元気ないよ、大丈夫?」
「うん」
「打ち上げ、ラーメン屋になった。とんこつラーメン、あると良いね」
「うん……」
 伊武の気遣いに、桜井は罪の重さを感じずにはいられなかった。
 彼の側を離れてまで、何をしようとしていたのだろう。
 あの人の背に追いついた後で、何を求めるつもりだったのだろう。


 答えは内に求めても見えず、外に求める訳にもいかない。
 逃れられない、無限回廊のようであった。







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