コート裏の木の下で、寄り掛かって眠る桜井の顔に水が注がれた。
目覚め
「うわっ」
桜井は飛び起き、拭わずに辺りを見回す。足が見えて、見上げれば知った顔がある。
「さぼり?」
知った顔――伊武の手にはペットボトル。中身は空で、口に僅かの水が残り、滴となって地面に零れていた。
「たまたま眠っただけ」
息を吐くと、かけられた水が濡れていく様子が肌へと伝わる。髪に染みこみ、頬を流れた水は顎、首を伝ってシャツの中へと染みこみ、張り付いた。
「もう練習始まった?」
「まだ」
「そう」
伊武はのろのろと桜井の隣に座り、幹に寄り掛かる。
今日は休日だが、大会を控えているので練習を行う予定であった。しかし鍵当番である橘が遅刻してしまい、先に来ていたメンバーは部室前で待ちぼうけになってしまった。しばらく来る気配が見えないので、桜井はコート裏で転がって待っていた訳なのだ。
夏の太陽は、僅かでも顔を見せれば気温を汗ばむ陽気にしてしまう。眠気から目覚め、意識がはっきりとしてくると汗がじわりと浮かんでくる。この調子だと、昼には相当暑くなるだろう。
「珍しいよな、橘さんが遅刻だなんて」
桜井が言うと、横で伊武が無言で頷く。
「なにも水をかける事は無かったんじゃないか」
間を空けて、水をかけられた事をたしなめる。
「かけたくなる寝顔をしてたよ」
「なんだそりゃ」
口を尖らせた後、笑みを浮かべた。
「ま、良いや。助かったよ」
「?」
桜井の方を向き、伊武は目をパチクリとさせる。
「嫌な夢を見ていたんだ」
視線から逃げるように肌に張り付いたシャツを剥がし、パタパタと空気を送った。
「ふうん」
興味の無さそうに相槌を打つ伊武だが、彼の横顔を凝視する。
「夢っていうか、思い出」
「ふうん」
相槌を打って伊武は座り直し、葉の間から見える空を見上げた。
嫌な思い出。このキーワードでだいたいの内容は予想できた。去年、橘が助けてくれる前の事だろう。今は今で楽しいが、やはり思い返そうとすれば胸が痛んだ。
桜井も伊武と同じように空を眺め、呟くように口を開く。
「全国、行けるかなぁ」
横目で彼を見る。
「夢じゃ、無いよな」
彼は頷き、ぼそりと言う。
「…………夢じゃない」
手の上に手が重ねられ、強く握られた。
「試しにさ、今日は何日が言ってみなよ」
「今日?7月1日?」
「それだけ?」
握られた手が緩められた。
「俺の誕生日か」
「寝ぼけるのも、ほどほどに。……おめでとう」
「ありがとう。俺、相当寝ぼけていたな」
桜井は気恥ずかしさもあり、声を上げて笑う。その中で伊武は1人勝手に喋りだす。
「………苦しくても、楽しくても、これからも……一緒に……共有したい………。皆と」
笑い声は止まり、伊武は声を潜めて桜井だけに聞こえる音で囁く。
「桜井には、言っておく」
桜井は手を組み直し、伊武の手を握った。肩と肩が触れて、暑くなるのも気にせずに身を寄せる。
口を閉ざし、沈黙の中で2人共にいた。虫の鳴き声が聞こえ、こめかみを汗が伝う。木漏れ日が白い肌とシャツを照らし、ズボンにまだら模様を作る。互いの息遣いは近すぎて、逆に遠いように感じた。握られた手は汗が滲み、気持ちが悪い。けれども、離そうとは思わなかった。
桜井に再び眠気が襲ってくる。伊武も瞼を重そうにしている。その中で、空腹感を覚え始めた。そうして次に眼が向けられるのは隣にいる存在。べとつく汗が、果汁のようにも見えてきた。
空いた手で桜井は、伊武の頬に張り付いた長い髪を避けて、表情を覗こうとする。伊武の瞳が、きょろりと動いて桜井を捉えた。交差する瞳は言葉を交わさずとも、ものを言う。伊武の乾いた唇が僅かに動き、中から滑りのある赤い舌が姿を現し、唇を濡らした。そして声を発さずに言葉の数だけ形を作る。
どうする?と。
桜井は俯き、考えるように一番上のボタンをいじった。
腕が引っ張られて握られ方を変えたかと思うと、伊武が乗りかかってくる。目を丸くして伊武の顔を見る下で、布越しに彼の手が自身を捉えるのを感じた。次の行動へ移る前に、何かが2人を止めさせる。
遠くから聞こえる人の声。遠くからでもわかる、仲間の声がした。恐らく、橘が来たのだろう。
伊武は桜井から降りて、2人は立ち上がる。向き合い顔を合わせる中で、切り替えの早さにおかしさが込み上げた。手は自然と離れる。
「行こう」
「ああ」
小走りで、部室前へと急いだ。
部室前へ着くと、橘を仲間たちが囲んでいた。伊武たちに気付くと、橘は笑いかける。
「橘さん、今日はどうしたんスか?」
きょとんとして、内村が問う。
「あー、すまんすまん。本当に悪かった。ついこだわり過ぎてな」
橘は苦笑を浮かべ、鞄とは別の包みを見る。
「今日は桜井の誕生日だろう?ケーキを作ったんだよ。お前たちの分もあるぞ」
ケーキ。その単語に和やかな雰囲気は、一瞬固まる。
数ヶ月前、森の誕生日にも橘はケーキを用意してきたのだが、何とも言い難い味であった。不味くはない、しかし上手くもない。ただ口と胃の中に残るような、後味の悪さがあった。誰も不満の声は出さなかったが、雰囲気で不評だと橘も自覚をしている。だからこそ、この日の為にリベンジをしたのだ。遅刻は失態だが、それを覆せるほどの自信とプライドが彼にはあった。
「今回は滑らかさを出そうとクリームを多めにした。安心しろ」
クリーム多め。聞いただけでも腹に溜まる感じがした。
「橘さん、有難うございます」
やや硬さのある笑顔で桜井は礼を言う。
ケーキはまた苦しそうだが伊武の言葉を思い返せば、それも良いのだと考える事が出来そうであった。
橘さんの料理の腕は劇場版設定と言う事で。
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