学校の屋上。昼休みが終わるまでの数分。フェンスにもたれて伊武と桜井は並んでいた。
目に見える空の色も、肌で感じる風も、ずっと見てきて感じてきた。
大会の終わりと共に、季節は急速に秋へと変わっていく。
それでもこうして並ぶ姿は変わらないはずだった。胸に抱く想いも、変わらないはずだった。
いつもの声で
桜井
そう呼んでくれる伊武の声も、感じる心も、変わらないはずだった。
日常が壊れる瞬間など、ちっとも気付かなかったのだ。
止まる時
「桜井」
涼しさをもった風が、伊武の長い髪を揺らす。
「距離、置きたいんだ」
いつもの声でいつもとは異なる言葉を、彼は吐いた。
「…………えっ?」
桜井はフェンスから背を離し、目を丸くさせて伊武を見据える。
何かが頭の上から爪先へ通り過ぎたような感覚。暑いのか、寒いのか、動揺が身体を駆け巡る。
「もう橘さんには頼れないし。俺たちだけで、これからをやっていかなきゃいけないだろ?自分のテニスを見つめ直したいんだ」
淡々とした、落ち着いた口調。彼なりに考えて決めた事なのだというのが伝わった。ちょっとやそっとでは曲がらない意志だという事も。
伊武は横を向いて桜井を見る。交差する視線。逸らさずに続けた。
「付き合ってて、部活だって勉強だって障害に思った事は無いよ。今も、桜井が好きだ。でも、俺は。俺は桜井といると」
伊武の瞳に悲しみが含まれ、細められる。瞼を瞑り、開いて言う。
「駄目になる。甘えて………………傷、付ける」
「俺は大丈夫だから。伊武……」
桜井の訴えに、伊武は首を横に振った。
「自分でも一方的、勝手だってわかってる。辛いんだよ。好きなだけじゃ、それだけじゃ」
伊武は前を向き、フェンスから背を離す。
桜井は動けない。何を言えば、どう動けば良いのか、わからない。
「ごめん」
掠れた声で、詫びた。そうして大股で入り口へ行ってドアを開く。
金属音が重々しく響き、バタンと閉まった。
音と同時に、桜井の膝が崩れる。力なく、その場へ座り込んだ。
「………………………………」
呆然だった。頭の中が真っ白であった。
この関係は未来が見えないのも自覚していた。恋人が別れるだなんて、学校の噂やテレビや映画、漫画だってやっている有り触れた事だと思っていた。付き合うなら、誰だってある事。そう思っていた。いつか経験するかもしれない。そう思っていた。
だがどうだ。実際、直面したこの心は。夢なら覚めて欲しかった。これは現実。紛れもない事実であった。
伊武を引き止められなかった。
伊武を引き止める資格が無かったからだ。
たとえ偶然の重なりでも柳生に心が揺れてしまった事。伊武を裏切ってしまった事。愚かな恋人であった。
伊武が好きだった。大好きだった。しかしそれだけでは、駄目だった。
先ほどの彼の言葉の通り。
しかし。
心がとても追い付かない。絶望なまでの虚無感。身体の中が、空洞になってしまったようだった。叩いたら、陶器のような音が鳴るのかもしれない。
伊武が好きだった。自覚していた分よりも、それは遥かに大きかった。
なぜ、気付かなかったのだろう。なぜ、伝えようとしなかったのだろう。
今更気付いた所で遅い。全くもって、愚かであった。
「………………………………」
目の奥が急に染みて、涙が溢れ出て頬を伝う。
ただ零れるだけの生温い水。指で拭っても、また零れる。鼻の奥がツンとした。
まだ何も掴みきれていない頭の中で、昼休みの終わりが近いのを悟る。
立ち上がろうとすると腰は重く、支えようとする腕の関節と指先は震えていた。
入り口まで歩く足はどこかしっくりせずに、違和感があった。取っ手を掴む感触さえも、階段を下りる感覚さえも。雲の中のような、現実味を感じない。感じないようにしているだけなのか。
いつこの感覚が無くなるのかを、ぼんやりと考えていた。
誰もいなくなった屋上に、昼休み終了のチャイムが鳴る。
午後の授業、伊武のクラスは教室で教師の話に耳を傾けていた。
シャープペンシルを握り、芯をノートへ触れさせて、頭の中は屋上で桜井に放った言葉を思い返している。とうとう、言ってしまった。
実質上、別れた事になる。二人は恋人から、ただの部活仲間に戻るのだ。
関係は誰にも知られていないはず。知らない内に始まり、知らない内に終わっただけ。ただ、それだけの事。
桜井なら、きっと普通に戻ってくれるだろう。
桜井なら、誰とでも上手くやれそうだから。
微かな音を立てて、芯が折れる。払って捨て、ペンをノックして新しい芯を出した。
桜井なら、誰とでも上手くやれそう。だが俺はどうだろうか。伊武は思う。
胸の奥が締め付けられるのを感じた。
そう。この感覚が嫌で、怖くなって、自ら身を引いてしまった。ぐらぐらに揺れて壊れそうで、耐え切れず、潰れそうだった。自分というものを保てそうに無かった。
昼休みの終了間際に言ったのも、その場を抜け出しやすい口実作りの他ならない。反応から目を背けたくて、言うだけ言って逃げ出すように去ってしまった。
どこまで彼に甘え、傷付ければ良いのだろうか。しかしそれも、もう終わる。
もう、桜井には甘えない。
手も繋がない、口付けだってしない、身体も重ねない。愛も囁かない。もう、しない。
「………………………………」
片目から、一筋の涙が零れて頬を伝う。
あまりにも自然で、静かに流れたものだから、誰にも気付かれない。涙を流す伊武の周りの生徒は、黙々とノートを取っていた。教師も何ら変わらず黒板を書いている。
顎に溜まった滴がノートへ落ちた。文字が滲み、汚れる。
眠気を覚ますような目の間を摘まむ振りをして、涙を拭う。
女々しいだろう、こんな俺は。情けないだろう、こんな俺は。嫌いになるだろう、こんな俺は。
だから、愛がこれ以上流れてしまう前に、蓋をしてしまった。
離れても続くよイブサクは。
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