甘い香り



 放課後、伊武が部室の扉を開けると、近くにいた石田と目が合う。
「よお」
「よ……」
 簡単な挨拶を交わした後、石田は困った顔になった。
「どうした?」
「んー……」
 言葉を濁らせた彼は、奥にいる桜井を見る。桜井の様子を見て、伊武は理解した。
 虫の居所が悪い。ピリピリした雰囲気になっている。
「もうすぐ、バレンタインだろう?」
 石田が声を潜めて言う。
「そうだったね」
 無表情で伊武が頷くと桜井が歩み寄り、会話に加わってきた。
「どこもかしこもチョコだらけだよ」
「どうかした?」
「クラスのアイツなんて、あんこよりチョコが良いって言いやがって、皆賛同するし」
 桜井の機嫌の悪い理由が次第にわかってきた伊武は“ああ”と声を上げる。
「桜井は和菓子好きだもんね」
「今は耐え忍ぶ時期って事」
「桜井もチョコ貰えば、コロッと考え変えるんだろ?」
「それはない」
 石田の茶々をさらりと交わす桜井。
「チョコ美味しいと思うけど。桜井も好きになれば良いのに」
 不意に伊武は色を含んだ笑みで桜井を見る。
 二人だけが知る信号に、彼の頬は赤みを差し、避けるように視線を逸らした。


 その後、続々とメンバーがやってきて練習が始まる。
 練習の合間に、意外にも橘がバレンタインの話題を出してきた。なんでも妹の杏がチョコレート作りに台所を占領してしまい、趣味の料理が出来ないという。やれやれと憂いの気分になる橘に、後輩たちは苦笑を浮かべるが、穏やかな日常に胸は温かい。
 練習を終えると、着替えて仲間と共に部室を出ようとする桜井を、伊武が呼び止めた。
「桜井」
 桜井が立ち止まり、振り向くと、仲間はそのまま通り過ぎて扉が閉まる。部室には二人きり、おまけに鍵当番は伊武に渡ったばかり。
 脳裏に練習前の伊武の笑みが過ぎり、何かあるのだろうと構える桜井は緊張に胸が高鳴った。幾分、期待も入っているだろう。
「今日、チョコ持ってきているんだ」
「へえ」
 とりあえず、適当に相槌を打った。
「桜井も、チョコ食べよう?」
 歩み寄らず、距離を保ったまま彼は続ける。
「だから俺は」
「石田の言っていた事、もっともだと思った。桜井はチョコを貰えばコロッと態度変えそう」
 伊武はおもむろに、自分の鞄から店で良く見かけるチョコレートの箱を取り出す。
「変える相手は、俺が良いって」
「そんな事だろうと思ったよ」
 肩を上げてみせる桜井。
「変えてあげる、桜井」
 手招きをして、呼び寄せようとした。
「随分と自信たっぷりな。でも、駄目だからな」
 忘れたのか?桜井は顔をしかめる。


「部室じゃしないって決めたろ?」
 先日、二人は部室では淫らな行為をしないと決めたばかりであった。
「なに?桜井、変な事考えてたの?」
「違うのかよ」
「やらしいなぁ」
 からかうように、伊武は喉で笑う。
 これでは一人だけいやらしい行為を考えたようにされてしまい、桜井は熱くなってはいけないと心で制御しようとするも、頬を上気させた。
「約束は覚えているって」
 伊武は箱を開き、一粒チョコレートを摘まんで口の中へ入れる。
 厚紙の擦れる音、口を開いた時の僅かな息。二人きりの部屋では、耳が音を逃さない。
 口内で唾液の絡んだチョコレートが転がされる音も良く聞こえた。口の端に指の腹をあて、なぞるように軽く拭う。
 無言で彼は桜井の元へ歩み寄り、息がかかる程までに顔を近づける。
 鼻孔はチョコレートの香りを吸い込み、くすぐられた。甘い、独特な匂い。
 瞳は交差し、身体が硬直した。開かれて、彼を映し出しだまま、姿がぼやける。


「ん」
 唇に柔らかい人肌が触れ、次に甘さが流れ込んだ。
 溶けてかろうじて固形を残すチョコレートが口から口へ移される。
 桜井は抵抗せず、彼の行為を受け止めた。
「…………………………」
 唇を離すと伊武はわざとらしく囁く。
「美味しい?」
「約束じゃなかったのか?」
 ぼそりと呟き、言い返す。
「キスは、入らないよ」
「入るに決まってるだろ」
「決めてない」
 押し付けるように瞼へ口付けした。
 先ほどからずっと香ったままのチョコレートの匂いが、桜井の頭の中をぼんやりとさせる。
 いけないと我に返ろうと瞬きさせるが、またもや伊武の唇が触れてきた。
「俺の事、からかってるだろ」
「からかってない。愛してる」
 う、と桜井の喉が何かを言い出しそうになったらしい、詰まった音を立てた。
「面白い」
 くすりと、伊武の喉も音を立てる。
「ほら」
 その後に続く桜井の口を塞いだ。


 甘い香りは鼻孔を通って、脳の中へぐるぐると巡る。
 甘く甘く心へ染み込み、理性を溶かした。







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