前へ。思うがままに。
青い空に浮かぶ雲が流れていくのは、色が変わっていく曇りの方へ。
見上げていた柳生は口を押さえて生あくびをする。
「眠そうじゃの。寝不足か」
傍にいた仁王が声をかけてきた。
柳生は仁王を見て苦笑いを浮かべる。
「ええ、まあ。眠ったつもりなのに、眠れなかった気分です」
走れ
昼休み。柳生と仁王は昼食を終えて、屋上で適当に時間を潰していた。
先日の雨は晴れたが、やや風が強い。
「俺も寝不足ナリ」
柳生の目の前で大あくびをする仁王。
「あの、仁王くん。昨日は酷い事を言って悪かったです。すみません」
「昨日?何かあったか?忘れた」
肩を上げて薄く笑い、とぼけてみせる。
「君の勘は鋭い。君の言う通りでした」
表情が、僅かに一瞬固まった。まさか――――動揺せずにはいられない。
「君にだけ言います。昨日、彼が来ました。一晩泊めてくれって頼まれて、打ち明けられました」
「…………………………………」
「私は何も知らなくて、君に」
「……………………………貸せ」
「はい?」
どすの利いた低い声に、柳生は聞き返す。
「携帯、貸せ。あいつの番号知ってるんじゃろ」
「知りませんよ」
「じゃあ帰りに不動峰に行くぜよ。一発でも二発でも殴らなきゃ気が済まん」
仁王の目つきが変わっていた。彼が怒り心頭する姿は滅多に見られない。
「な、何言い出すんですっ」
「柳生が怒らんからだ!もう勘弁ならん。いけすかん思ったら、ほんにいけすかん奴じゃった」
「やめてください」
きっぱりと言い放つ柳生に、仁王は落ち着かざるをえない。
「怒るより前に、彼が悲しんでいる方が私には辛かった」
「お前は正真正銘の阿呆じゃの」
「彼は気持ちの整理がついたら、どんな結果でも知らせてくれるよう約束をしました。ひとまず、私は待つ事にします」
「阿呆じゃ……阿呆すぎる……」
やれやれと、仁王は首を振った。どこまでも友人は友人であり、怒りを通り越して呆れるものの憎めない。
「君の言う通り、私は愚か者です。でも、そういうものではないですか。人が人を想う気持ちは」
「さあな。俺にはわからん。お前にとってはそうかもしれんがな」
柳生は息を吐き、口を綻ばせて笑ってみせる。
そうして背を向けてフェンスに指を絡めて空を見上げた。
「柳生、覚えとるか。駄目じゃったら合コンな」
「覚えてますよ。ひょっとして仁王くん、メンツ集めに困ってません?」
「ピヨッ」
呟きは、風に流れる。
真上へ輝く太陽は、徐々に傾いて町を紅に染め上げる。
不動峰中では放課後のチャイムが鳴り終えると、神尾と伊武は並んでコートへ通じる校舎横の並木道を歩んだ。
「わ、わわっ」
突如、神尾は立ち止まり、しきりに頭の上を叩きだす。
「どうした?」
「頭に何かついた」
何がついたか足元を見回す神尾。
「きっと、これじゃない」
伊武は背を屈め、神尾の足元に落ちた葉を拾う。
葉は茶色に色を染めて水気を失い、軽かった。
「枯れてる。もうこんな季節か」
神尾は木々を見上げた。
木は所々、色を染めている。秋から冬への移り変わりを予感させていた。
「神尾、去年も落ち葉が頭について払ってなかった?」
「そうだったっけ」
伊武の言葉に、神尾は彼の方を見て瞬きをしてみせる。
「もう、一年近く経つのか。橘さんと部を新設して」
「そうだなあ」
足は動き出さぬまま、二人は語りだす。
去年は、随分と昔に感じると同時に、つい昨日の事のように思える不思議な感覚であった。
「ねえ。皆と誓った全国へ行くっていうの、あの頃は信じられた?」
伊武は拾った落ち葉の茎を指で転がして問う。
「どうだろうな。そう改めて聞かれると、やる気はぐわーって来たけれど現実味は無かったかも。だって全国だぞ」
「俺もそう」
「やっぱり?」
互いを指差し、くすくす笑った。
「俺たちは全国へ行けたけれど、どう思った?」
「どう…………だったんだろう」
神尾は手をポケットに突っ込み、足元に落ちている葉を蹴る。
「やったー!って気分より、もっと頑張んなきゃ感が強かった」
「足りないもの、いっぱいあった」
「もっと、やろうと思えばきっとやれる。来年も全国行って、今度は優勝もぎ取ろうぜ」
勢い良く顔を上げ、神尾は白い歯を見せて笑った。
その笑顔はとても心強いものに感じられ、伊武も頷いて応える。
「神尾、テニス出来て良かったね」
「あったりめーよ。どうした深司、いきなり」
「俺もそう思っていたけど、皆はどうかなって思っただけ」
持っていた落ち葉を落とした。
「そういうのは聞くまでもないって事だぞ。にしても、随分と機嫌良くねえ?朝はちょっと怖かった」
「気のせいだよ。そろそろ行くよ」
「おお、走るぞ」
「やだ」
走り出した神尾の後ろを、伊武は早歩きで追いかける。
地を踏む度に、落ち葉が音を立てた。一歩一歩の歩みを感じさせてくれる。
部に行くのが重かった一年前とは違う。真っ直ぐに前を向いて進められた。
部活が終わる頃には紅は紫へと色を変えて、夜の闇が近付いていた。
夏が過ぎれば日は短くなり、すぐに暗くなってしまう。
途中で仲間と別れ、一人帰路を歩く桜井は前を歩く見知った背中を見つける。
小走りで近付いてみれば、やはり橘であった。
「橘さん」
「桜井か」
変わらぬ声で橘は桜井の名を呼ぶ。
「遅いですね、どうしたんですか」
「んー、まあな。進路とはなかなか難しいもんだな」
「は、はあ。そうですね」
苦笑を浮かべる橘に、桜井は詮索できずに相槌を打つしかない。
「ずっとテニスにかまけていたから、志望校を視野に入れてなかったよ。ああ、テニスは出来て良かったんだが」
けどな。橘は続けた。
「ときどき、思うんだよ。もしも東京へ行かなかったらとか、テニスをお前たちとやり出さなかったらと…………。そのもしもの俺に、今の俺を何やってるんだって叱られるのかもしれないな」
「そんな」
「物静かな趣味に没頭し、ガリ勉みたいになっていたかもしれん――――なんてな。結構、今でも悩むさ。俺はテニスをまた始めて、本当に良かったんだろうかってな」
何も言えずに、俯く桜井。
「テニスをしない俺は、最初は腕が疼くがだんだんと慣れてきて、普通になってきて、それなりに過ごせたのかもしれん。こんな事を思うのは俺が今、人生の分かれ道に立っているからかな。ああけどな、再びラケットを握った俺には、テニスをしないなんてとても考えらん。哀れにさえ思うさ。お前らに会えないと思えば、寂しすぎる」
「橘さん」
桜井は顔を上げ、薄く微笑んだ。
「俺たちは橘さんのおかげで救われました。橘さんがいなかったらテニスが続けられたらどうか。俺たちは、貴方に出会えて本当に嬉しかった。ですから……」
橘と出会う事で全国進出という夢を抱き、伊武と共に上を目指し、柳生と出会った。全ては、橘から始まったと言える。
「わかっている。すまなかったな」
低く、穏やかな声で詫びる橘。
「桜井にも、もしも……なんて事はあるかと思って話したが、つい嫌な方へ行ってしまった」
「いえ」
「多くの選択はあるが、選ぶ道は一つだからな。選んでしまっては引き返せない」
「そう、ですね」
やや表情に影が差すが、周りの暗さで橘は気付かない。
「後悔しても始まらない。選んだからには進むしかない。自然と明るい道に出る事もある。なんとかなるもんだ」
橘の妙な語りに入ってしまっているが、桜井自身に思う部分があるせいか聞き入ってしまう。
話しながら歩いている内に、桜井が渡るべき横断歩道が見えてきた。橘は渡らないので、あそこでお別れとなる。
「橘さんはなんとかなったんですね」
「結果を言えば、だな。そう思いたい。桜井、お前も信じた道を進めば良い」
「そうですね。そうする事にします。俺は俺の道を進みます」
あ、と桜井は声を上げる。信号が赤から青に変わったのだ。丁度良い渡り時である。
「では橘さん、俺行きますね。また部に顔見せてください。皆、貴方に会いたがっている」
「じゃあな。ほら、行かねえと変わっちまうぞ。走れ!」
橘の声と共に桜井は駆け出し、信号を渡った。
橘が横断歩道の横を通る頃には青が点滅し、赤になってしまう。
歩道を挟み、軽い会釈をして桜井は背を向けた。
彼の歩む道は明かりが少なく、真っ暗だ。その中を歩く彼は浮いて見える。
何も見えなくても、桜井は進む。彼の思う方へ進んでいく。
橘は立ち止まり、しばし眺めていた。
すっと伸びた彼の背は少しだけ伸びたような気がする。どこか頼もしく、成長したように思う。
なぜだか寂しさを覚えるが、嬉しくもあった。そうして口が自然と笑みを作っていた事に気付く。
呼吸をするように感じる、ふとした幸福を悟った。
これが私に出来る限りの終わりの形です。
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