夏休み、不動峰テニス部は強化合宿を行うことになった。合宿所は緑が多い、小さな旅館だそうだ。部屋は大部屋ではなく、2人、2人、3人で分けるらしい。
 バスに乗って、窓際の席から桜井はぼんやりと外の景色を眺めていた。みんな、部屋は憧れの橘と一緒が良いとか、何とか、合宿前に話していた。確かに橘は憧れているが、桜井は。




 伊武と一緒だったら良いなぁ。




 そんな事をぼんやり考える。
 少し前から伊武と付き合っていた。告白したのは伊武からで、何となく、何となくではあるが付き合いだした。この事を知っているのは親友である石田と、部長の橘ぐらいだろうか。内村と森は感づいているかもしれないが、神尾は全く知らないだろう。
 しかし付き合うと言っても、休日に数回デートへ行った程度だ。デートと言うより、遊びに行ったと言う方が合っているかもしれない。学校では桜井は石田と、伊武は神尾といる方が多いし、帰りもそのまま帰ってしまう。




 こんなの、付き合ってるって言わないよな。


 ただ、互いが相手を“好き”というコトは、伝わっていた。ただ、それだけでは駄目だというコトも、知っていた。


 この合宿でもっと、伊武と仲良く出来たらいいなぁ。


 そんな淡い期待をしながら、景色を眺めていた目をそっと閉じ、眠りについた。




 合宿所に着くと、さっそく部屋割りのくじ引きを始める。
「あ」
 桜井は小さく声を上げて、伊武の方を見た。伊武もこちらを向き、何も言わず、じっと見つめていた。伊武と見詰め合う桜井の肩に石田の手が置かれる。
「良かったな」
 こくっと頷くが、自然と顔が綻んでしまう。
 桜井と伊武は同じ部屋になった。




 部屋に荷物を置いた後、練習をして、風呂に入って、浴衣に着替えて夕食をとる。時間は経つのが早く、あっという間に夜になってしまう。
 髪を洗うと、オールバックの桜井や前髪の長い神尾などは濡れてうっとうしくなる為、ヘアピンを使って前髪を避けていた。桜井のヘアピンは、たまたま髪の事を杏に聞かれた時、強引にプレゼントされた物だ。せっかくなので、使わせてもらっていたのだが、迂闊だった。食事中、桜井は痛すぎる程の神尾の視線が突き刺さり、気まずそうに視線を落とす。


 桜井と神尾のヘアピンは同じものであった。


 おそらく神尾も杏から貰ったのだろう。杏の事だ、3本セットか何かで買ったヘアピンを神尾と桜井にあげたのだ。彼らを交互に見て、伊武が少し寂しそうな表情をしたのは、誰も知らない。




 神尾の視線に耐え、やっと食事は終わり、各人部屋へと戻って行った。
「伊武っ」
 桜井は伊武に小走りで駆け寄り、隣に並んで、一緒に部屋へと戻る道を歩く。練習中も、風呂も、そして食事中もほとんど伊武と言葉を交わせなかった。やっと会話らしい会話を出来るチャンスが巡り、桜井の声は浮かれ気味だ。
「部屋、一緒じゃん。一緒に戻ろうぜ」
 伊武は小さく頷き、歩調を変えず、そのままマイペースに歩く。
「伊武、浴衣似合ってるよ」


 伊武と一緒の部屋になれたことが嬉しくて、桜井はいつもより饒舌だった。それに比べ、伊武は普段から口数は少ない方だが、無口に近いほど、ほとんど口を開かない。


 楽しそうに話す桜井を横目で見る伊武の胸は、なぜか苦しかった。




 部屋に入り、蒲団を敷いて、雑談を交わした後、伊武は歯磨きをしてくると部屋を出た。桜井も“俺も”と部屋を出た。歯を磨いた後、再び部屋に戻ると、明かりが消えていた。ついつい部屋の電気を消してしまったようだ。
 伊武が電気のスイッチに手をかけようとした時。
「おっ」
 桜井が声をあげて、敷いてある蒲団を横断して窓に歩み寄った。
「なに?」
 スイッチから指を離し、伊武も窓へと向かう。
「星が」
 ガラガラガラ。桜井は窓を開け、桟に手をかけて身を乗り出した。
「見えるかな、と思って」
 首を曲げて空を見上げる。
「見える?」
 桜井の背中に手を置いて身を乗り出し、伊武も夜空を見上げた。


 キラキラと、都会では比べようも無いほどの星が、漆黒の空で瞬いていた。その中で、弓張り月がぼんやりと淡い光を放っている。その美しさに見とれて、しばし2人無言になる。


「……さっきは電気がついていたから気付かなかったけど、星の光って結構明るいもんなんだな」
「うん」
「見えていたものが消えて、見えなかったものが見えてくる…………そんな感じか?」
「うん」


 見えていたものが消えて、見えなかったものが見えてくる。


 桜井の言葉に、伊武はハッとした。桜井の背中に置かれた自分の手。
 よくよく考えてみれば、こんなに近付いたのは初めてだった。星の光が、桜井の輪郭を映し出す。こうして暗い中にいると、視覚が利かなくなる代わりに他の感覚が冴えて来る。


 すぐ側にある桜井の髪から、ふわりと流れるシャンプーの香り。
 先ほど使った旅館に置いてあったもので、伊武も使った。


 甘い疼きが、伊武の胸にともる。


 もっと、こうして、側にいたい。


 でもその一言が、言えない。


 合宿でずっと側にいられるのに、一緒の部屋になってもっともっと側にいられるのに。


 桜井も、とても喜んでいるのに。


 どうその喜びに答えれば良いのか、わからない。


 言葉も、表情も、ついていかず、途方に暮れてしまう。




 桜井に背に触れた手は、じんわりと熱を持つ。


 2人の体温が重なった温度。


 この手を少し動かせば、何でも出来てしまうような気がする。


 でも、傷つけてしまったらどうしよう。


 そんな臆病な心を見透かすように、桜井の髪の上で杏のヘアピンがキラリと光った。




「伊武、そろそろ閉めるか」
 桜井が身を起こし、窓を閉め、2人は蒲団へ戻って行く。


 ぺたぺたという裸足の足音が室内に響いた。少し離れた所から誰かの笑い声が聞こえる。朝が早いというのに、騒いでいるのだろうか。


「………っと」
 桜井の足が蒲団の耳に引っかかる。蹴躓いただけで転びはしなかったが、伊武は転んだと誤認して、慌てて桜井を後ろから抱きとめようとした。


 ぱたん。


 桜井の腰に手を回した状態で、伊武と桜井は蒲団に倒れ込む。


 ああ、俺ってば何をやってるんだろう。


 そう心の中で伊武は思うが、抱き締めて感じた、思ったよりも小さなその体に、血潮が騒ぎ、愛しさが溢れ出す。ぎゅうっと抱き締める手に力をこめた。
「伊武、お前、何をやって……」
 喉に絡まる弱々しい声で、桜井は何とかうつ伏せになっている体を仰向けにしようとする。伊武は手を緩め、顔を上げた。蒲団に手を付こうとする手の片方は、桜井の手首を捕らえ、押さえつけていた。
 仰向けに体勢を動かした桜井は、額に汗で前髪が張り付いていたが、直そうとはせず、じっと伊武を見つめている。


 口を固く結んで、火照った頬、潤んだ瞳で伊武を睨みつける。掴んだ手首が、小さく震えている。


 精一杯の、強がり。


 普段明るい桜井の、弱い部分を見たような気がする。そんな姿も堪らなく愛しいと、伊武は思う。


「………………ごめん」
「………………ばか」


 互いの吐息が、顔にかかる。


「「………………………………」」
 何かを言いかけようと口を薄く開いたまま、2人とも唐突に黙り込んだ。


 交差する瞳と瞳。


 動悸が増し、体中が火照る。


 唯一つの想いが、静かに炎を上げた。




 伊武がまだ握り締めていた手首を離すと、そっと桜井のヘアピンを取る。
「ねえ、ヘアピンだったら俺があげるから、神尾と揃いのモノしないでよ」
 そう言って、邪魔にならない場所へ置く。
「………………ばか」
 桜井は跡のついた腕を上げ、伊武の頬を引っ張った後、潤んだままの瞳で微笑み、彼の首に回す。抱き合ったまま身を起こし、唇を重ねた。


 深く、長い口付けを終えた後、桜井は再び横たえられ、伊武は彼の浴衣に手をかける。


 窓からぼんやりとした僅かな星明りが、明かりの消えた部屋に差し込む。


 肌蹴た浴衣から覗く桜井の素肌が、室内の暗闇に艶めかしく浮かぶ。




 蛍みたいだ。




 そう思って、思わず口が綻んだ。
 “どうした?”と掠れた声で桜井が問う。“何でもない”と小さく首を振り、秘めやかな行為を始めた。







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