ふと足音が聞こえてきて、ふと振り返れば、いつも彼が立っていた。
同じ空の下で
病院の待合室で桜井は柳生に会釈をする。それにつられて柳生も頭を下げた。
「雨、大変でしたでしょう」
いつも他愛のない会話から始める柳生に、桜井は苦笑をして首を横に振る。
「いえ、もう止んでますよ」
「……え?」
そう言われてすぐに目に入った桜井のガクランの肩や持っている傘は濡れていなかった。外の様子を伺おうと窓のある場所へ移動する柳生に、桜井もついてくる。曇ったガラスを軽く手で拭い、そこから見える景色は、雲の隙間から降り注ぐ夕日に水溜りが反射してキラキラと輝いていた。
「駅から出た頃には止んでいました」
「気付きませんでした……」
窓に手を添えて、柳生は外の景色を眺めたまま独り言のように言う。
「そういえば、あなたとここで初めて出会った時は雨でしたね」
柳生の隣に並び、同じように景色を眺めて桜井は言った。
「ええ、そうでしたね」
そう遠くも無い思い出を、懐かしむように柳生は目を細める。
「不動峰の方々は……」
「まとまりも出来てきましたし……上手くやっていますよ……」
柳生が視線を桜井に向けると、彼の口元は綻んでいた。
「それは……良かった」
安心したように柳生は微笑んだ。
「なに、笑っているんですか」
桜井は怪訝そうに柳生を見上げた。2人の視線が交差する。
「言ってませんでしたか?君が嬉しいと私も嬉しいのですよ」
見えはしないが、眼鏡の奥の瞳は優しさに満ちているように感じた。
「………………………」
桜井の口が薄く開き、何かを訴えるように瞳が揺れるが、柳生は気付かず、彼も言葉にすることはなかった。
「………………………そろそろ行きますね」
ガラスを押すように窓から離れ、傘を持ち直して柳生の後ろを通っていく。
「柳生、さん」
ふいに呼ばれて振り返ると、桜井が離れた場所から柳生を見つめていた。呼ぶ声は雑踏に紛れてしまう程の小さな声であったが、柳生の耳には確かに届いていた。彼が気付いてくれたのがわかると、桜井は柳生が彼に向けてくれたような優しい笑みで微笑んだ。
「 」
声は出さず、4つの文字を口の形のみで伝える。
「え?何です?」
柳生は爪先立ちで桜井の顔を良く見ようとして聞き返す。
「 」
もう一度口を動かして、桜井は背を向けて歩いて行ってしまった。
2回とも、口の形は『さよなら』と言っているように見えた。
呆然と立ち尽くす柳生が、初めて桜井に名前で呼ばれたことに気が付くのは、彼の姿が完全に見えなくなってからであった。
翌日病院で、幸村から橘が退院した事を聞いた。
「……そう、なんですか」
何事も無かったように相槌を打ち、何事も無かったように病室を出た。そしていつもの歩調で向かった橘の病室だった空き部屋の前で、柳生はへたり込んだ。
頭の上のほうから誰かの声が聞こえて、頭の中に振動のように響いて消えていく。床についた手が細かく震えて、綺麗に分けた髪が頭を下げたことにより額にかかっても直そうとはしなかった。動くことが出来なかった。鼻の奥がつんとして、目の奥が染みる。声がうまく出せない。
桜井が好きであった。
いつかこの日が来るとは知っていた。
しかし、彼の存在がこれ程までに自分を支配していたとは、今の今まで気付かなかった。
「………………ぅ………」
唇の隙間から呻きのような声が漏らして、心の中で彼の名を呼び続けていた。
情けない姿も手に付いた汚れも気にならなかった。みっともない程、彼を愛していた。
一方不動峰テニス部の部室では橘の退院祝いの簡単なパーティーが行われていた。
桜井は壁に寄り掛かって、橘と楽しそうに話す仲間達を見つめている。自然と視線は恋人である伊武の方に向けられていた。視線に気付いたのか、伊武は話の輪から離れ、桜井の隣に並んで壁に寄り掛かる。
「どうしたの」
「ん?伊武、嬉しそうだなって」
手をパタパタと振って、特に用事が無い事を告げる。
「桜井の方が嬉しそうだったよ」
「そりゃあ…………」
言ってませんでしたか?君が嬉しいと私も嬉しいのですよ
伊武に言おうとした言葉が、先日柳生が言ってくれた言葉と被るような気がして、桜井は反射的に口を閉ざした。
「………………………」
「どうしたの」
「何でもない」
髪を掻き揚げて、心の中を悟られないように誤魔化した。
自分の中に柳生が息づいている。
彼の笑顔が、彼の言葉が、彼の想いが、心強さと励ましを与えてくれる。
しかし、それはいけない事だ。
彼と共に過ごした時間は浮気に値する物だ。伊武を裏切る行為だ。
橘が退院して部に復帰して、伊武も元気を取り戻した。またいつもの生活に戻るのだ。柳生とあの場所で再び出会う前に戻るのだ。
そのまま柳生との思い出も忘れてしまえば良い、無かった事にすれば良い。
桜井は何度も心の中で自分に言い聞かせていた。
橘が退院してから数日が経つ。
病院で再び出会う前に戻ったのは、桜井だけではなかった。柳生の生活もまた、出会う前に戻っていた。
通学路を景色の変化に見向きもせず、ただ学校を目指して歩んだ。部活に励み、勉学にも励み、休み時間に顔を覗かせた丸井のノートを見せてくれとの頼みも軽くあしらう。ゆっくりと流れていく日常がそこにはあった。
当番で庭を掃除しながら、ふと空を見上げて、高校の事を考えていた。
「いいかげんにせえ、柳生比呂士」
仁王が柳生の後ろ頭を軽く小突く。ホウキの音が止んだ。
「何をするんですか」
髪を整えるように小突かれた部分を撫でながら、柳生は仁王を見た。
「お前さん、見ていてイライラするんじゃ」
「君の気分にそう合わせてもいられないですよ」
珍しく不機嫌さがわかるような顔で、仁王はズボンのポケットに手を突っ込んで柳生を凝視している。
「そのスカした態度、気に入らん」
「言い掛かりです。これは元からですよ」
強めて言う柳生に、生徒が何人か振り返ったが、そのまま通り過ぎて行った。
「元から?は、元からね」
ふっと、鼻で笑う。
「何なんですか一体。君には付き合えませんね」
わざとらしく息を吐いて、柳生は掃除を再開した。
「あーっ!この鬱陶しいメガネが!」
仁王の手が柳生の顔を叩くようにメガネを掠め取る。
「な、何をするんですか!掃除の邪魔しないで下さい!」
ホウキを手放して仁王の肩を掴んだ。
「鬱陶しい言っとるんじゃ!掃除とか抜かすなこのスカし!」
「君の方がいいかげんにすべきです!」
「もう何もなかったフリはやめろと言っとるんじゃ!」
両手で柳生の頬を押さえ込み、引き寄せる。
「目ェ……………真っ赤じゃ………………」
「………………………」
怒りの失せた柳生は仁王の手を解いて、転がったホウキを拾い、俯いたままで掃き始める。
「何日経ったと…………阿呆じゃのう…………」
苦笑を浮かべて、仁王は出した手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「何を躊躇っとる…………」
「………………………」
柳生は黙ったままで土を爪先で突いた。
過ごした日々は確かであると信じたい。
愛も告げた。だがそれは一方的な愛の告白で、彼の気持ちは問わなかった。
ただ彼と一緒にいれれば良い、ゆっくりと彼の事を好きになっていけば良いと思っていた。
しかし本心では、あの幸せな日々が永遠でない事はわかっていて。
簡単に自分の元からいなくなってしまう事はわかっていて。
この想いは叶わない事がわかっていて、既に誰かのモノかもしれなくて。
外の世界の事を考えるのが、怖かったのだ。この狭い世界から出て彼を求める事が、怖かったのだ。
「比呂士ぃ………一生の別れじゃなかよ。俺は、あん子を好きな比呂士に………ま、良かよ。今度、焼肉に付き合いんしゃい」
さて俺も掃除、と小走りで仁王は去っていった。
口論をしてしまったせいか周りに誰も寄り付かなくなった庭で、柳生は顔を上げて空を見上げる。
桜井が同じ空の下にいると思うと、言い出せなかった言葉が溢れ出て、胸が苦しくなる。
まず、彼がどんな気持ちで名を呼んでくれたのかを、知りたかった。
突然現れてみせたなら、きっと嫌な顔をされるだろう。どんな態度をされても、あの雨の日が大丈夫だったのだから、きっと大丈夫だろうと思えるかもしれない。
今度は私が会いに行きます。
空に話しかけるように、心に誓う。
「あ」
自信を取り戻した後で、メガネを返してもらってない事に気が付いた。
同じ頃、桜井もぼんやりとテニスコートのベンチから空を見上げていた。仲間の試合を見ているようで、気持ちは別の場所にあるように。
「桜井」
「………………………」
「桜井?」
「…………………ん?」
隣に座っていた伊武の声に、やっと桜井は我に返った。彼がいつから隣にいた事すらわからなかった。
「どうしたの?」
「別に…………」
「ふぅん」
素知らぬ顔で伊武は、ベンチの後ろの死角から桜井の手を握り、絡めてくる。
「今日は、ちょっと」
やんわりと手から逃れた。
「昨日も言った」
「そう?」
桜井は明るい声で小首を傾げるが、それが演技だと言う事は当然見抜かれてしまう。
「嫌?」
「そうじゃないけど…………」
視線を落として言葉を濁す。
「桜井は心だけはくれないよね」
「え?」
視線を戻す桜井の先には悲しそうに笑う伊武が映っていた。
「俺はね、桜井の事になると普通じゃいられないよ」
体も心も桜井に縛られている。
彼の心はどこにあるのだろう…………。
ただそこにあるだけの空が、なぜか無性に憎らしかった。
伊武×桜井→←柳生で、病院でのお話の完結編として書きました。
※ちょいと柳←ニオとか…
仁王は恋する比呂士に、柳への遠い片想いに勇気を貰っていたりします。痴話喧嘩からあらぬ噂がたって柳に勘違いをされて「この鬱陶しいメガネが…!(血涙)」とヘッドロックかけられてしまえばいい。
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