また会う日まで



 額に汗が浮かぶ。夏休みの最中だが、不動峰テニス部には練習がある。
 伊武と買出しに行った神尾はその帰り道、ふと足を止めて、振り返る連れの名を呼んだ。
「あのさ深司……」
「なに?」
「ちょっと」
 言い辛そうに俯く。
「なんだよ」
 面倒くさそうに顔をしかめて、伊武は神尾に近寄った。


「荒れているらしい」


「は?何が?」
 数歩後ろに下がり、意味がわからないと腕を組む。
「だから、アレだよ」
「アレ?」
「あいつら」
「誰?」


 神尾は具体的な内容は避けたかったようだが、伊武がわかる素振りを見せないので、とうとう名を口に出した。


「先輩」


「元?」
「そ、元」
 元先輩、それは橘以外の先輩。昔、彼らに酷い仕打ちをした上級生である。
「こないだ、登校日の朝礼で俺達が全国行きを決めたって発表しちゃったじゃない」
「ああ」
「気に入らないみたいだぜ。生意気だって」
「そう」
 相槌を打って、伊武は手の甲を当てるように汗を拭う。神尾は流れる汗を拭おうとはせず、濡れた髪が顔に張り付いていた。
「今は何も起こっていないけれど大切な時期だって、橘さん言ってた。帰りは1人で帰るなって」
「変質者対策みたいだね」
「だな」
 言い終えてスッキリしたのか、神尾は顔を上げて、ズカズカと歩き始める。その後をついていく伊武の脳裏に、恋人の事が引っ掛かっていた。恋人、桜井は今日用事で遅れて練習に入ると連絡を入れており、まだ来ていなかったのだ。








 一方その頃、桜井は小走りで学校へ向かっていた。髪が乱れるのも忘れているが、シャツが張り付くのは気持ちが悪く、ときどき剥がして空気を送る。そんな彼の姿を追う影があった。
「桜井くん…」
 かちゃり。メガネのフレームを指で押し上げる。影の正体は柳生であった。電柱の後ろからコソコソと顔を覗かせている。
「こらストーカー。いい加減にするっちゃ」
 背後から仁王が柳生の肩を掴んだ。
「驚かさないでください。君、駅で別れましたよねえ?」
「比呂士が犯罪者にならないように見守るのが俺の役目だからの」
「誰が犯罪者ですか」
 仁王を引き下がらせるのは無理なので、無視を決め込むように桜井の進行方向にある電柱に移って行く。
「ほれ、桜井くんに声をかけるんじゃろ?」
 背中を突付いて、ちょっかいを出す。
「わかってますよ」
「なんで関東大会表彰式の時に言わなかったんじゃ」
「わかってますったら」
 柳生は頭を振るって仁王の言葉を払う。


 もう一度声をかけようと決めたのは良いものの。
 場所が異なれば魔法が解けたように臆病になってしまった。
 まず何と声をかけるか。それを頭の中で練って何回目になるのだろう。


「「あ」」
 同時に声を上げて、2人は電柱の後ろに身を隠した。
 一台の自転車が十字路の横から入って来て、桜井の進行を妨げる。横へ避けて通ってしまえば良いのだが、彼は立ち止まったまま動かない。金属音を立てて、自転車から人が降りる。その人物は桜井と同じ制服を着ていた。同じ不動峰の男子中学生のようだった。
「桜井、久しぶり」
 低く、落ち着いた口調の挨拶なのに、桜井は大きく肩を上下させる。
 彼は桜井の持ち物、特にラケットをまじまじと眺めて目を細めた。
「部活かな?」
 問いに、桜井は頷く。
「俺もね、部活なんだ。運動部」
 自転車の上に乗せられた鞄を叩いてみせる。
「やっぱり体を動かすのが好きでね。ほら、メール出したんだけど、読んでくれたかな」
「……………………」
「随分のんびりなんだね。全国へ行くのに」
 腕時計と桜井を交互に眺めて、くすくすと笑った。
「何も話してくれないんだね。せっかく会えたのに。これでも先輩だったのに」
 彼は肩を上げて、困った顔をする。




 桜井と彼のやりとりを見守る柳生は、しきりにフレームにかかる髪を除けていた。
「お知り合いなんでしょうか」
「ちと様子がおかしいのう」
 穏やかな雰囲気ではないのはわかるのだが、この距離では何を話しているのかはわからない。


 彼が一歩前に出ると、桜井は怯えたように顔を強張らせた。
「この時間、1人でいるのは危ないよ。あいつらがちょろちょろうろついてるし。聞いてない?今、気ぃ立っているみたいだから」
「そうですか」
 ようやく桜井は言葉を発した。だが、それは早口で恐怖を隠せない声色であった。
「あれ?俺まで怖がる気なの?」
「……………………」
 ぺちりと音がして、桜井は彼に手首を掴まれる。
「俺は桜井には優しかったよね」
 念を押すように目を合わせられると、逸らせなかった。
「君に交際を断られても、怒らなかったよね。そうだよね男に告白されたら嫌だよね………」
「…………ぁ………」
 桜井は何かを言おうとするが、口をパクつかせたまま、発することが出来ない。
「でも一つだけ、納得がいかない事があるんだ」
 掴まれた手首をねじられる。痛みに桜井は歯を食いしばった。


「聞いたよ。伊武と付き合っているんだってね」
 手首をひかれ、桜井が小さな悲鳴をあげたかと思うと
 バチンと、彼にはたかれる。
「どうして俺は断ったのに、あいつとは付き合うんだ!?」
 いきなり声を大きくして、彼は言い放った。
「俺はお前には優しかったじゃないか!」
「……………………」
 桜井は赤く手形のついた頬を押さえて、膝をつく。
「なぜだ!」
 強引に引っ張り、体を起こそうとする。




「やめたまえ」
 柳生が彼の手を掴み、桜井の手首から引き剥がした。
「なんだお前」
「通りすがりの中学生です」
「……………………」
 桜井は突然の柳生の登場にただただ驚いている。
「この子は嫌がっています。無理強いはおやめなさい」
 彼の後ろにある自転車には、いつ回り込んだのか仁王が寄り掛かっていた。ニヤニヤと口の端を上げ、携帯をかざしてみせる。
「引っ叩く所は、しっかり撮っておいたからのう」
「脅しかよ」
「いえいえ、このまま貴方が下がってくれれば、バラ撒くなんて事しませんので」
「俺たちは平和主義じゃし」
 ふふふふふ。柳生と仁王は底深い笑みを浮かべる。
「ちっ」
 彼は舌打ちをして、自転車をひいて逃げていった。何度も手の辺りを摩りながら。見た目ではわからないが、とても強い力で掴まれていたのだ。


 そうして姿が見えなくなると。
「ささ、さささ、桜井くん!」
 柳生はおろおろと桜井の頬についた手形を心配そうに見つめる。
「さっきの勇ましさはどこへやら」
 仁王は壁に寄り掛かって、携帯を片手にメールを打ち始めた。
「助かりました…………」
 安堵の息を吐いて、桜井は起き上がり、膝に付いた汚れを払う。
 思えばあの雨の日もそうだった。1人困った時に、彼はどこからともなくやって来る。
「で、あの…………どうしているんですか?」
「ずっと後をつけていたんじゃ」
「…………え?……」
 桜井の顔色が変わる。
「その、あの、君があんな事を言うからですよ!」
 怒り出すように、柳生は桜井と向かい合わせになって声を上げた。両手で拳を作って、訴える。
「君が、さよならなんて言うから。さよならなんて言うから!」
 柳生が感情をあらわにするなど、初めての事で、桜井は呆然としてしまう。
「初めて、私の名前を呼んでくれたのに!こんなのってない!こんなのってないです!」
 気持ちが高ぶっているのか、同じ事を繰り返して言ってしまう。
「君は酷い人です桜井くん!」
「……………ご……」
 ごめんなさい。
 そう謝りたいはずなのに、声が出せない。
 悪いのは自分、怒られているのは自分、わかっているはずなのに、声が出せない。彼に再び会えた事が、そう時間は経っていないはずなのに、なぜだか酷く懐かしく、なぜだか込み上げてくるものがある。




 ふわりと、柳生の手が桜井に肩に触れた。
「会話というのはね、一方的じゃ駄目なんです。あの時の君の言葉の返事を、私は返しに来ました」
 諭す様に、口調が優しくなる。
「また、会いましょう」
 そう言って、桜井の額に唇を押し付けた。
 柳生の顔を見上げる桜井の顔は、ほんのり桜色に染まっていた。
 照れ臭さに、2人はしばし黙っていたが、柳生は桜井の手首に彼に掴まれた痕が痛々しく残っているのに気付く。
「包帯でも巻いた方が良いですね」
「いえ、巻くほど事じゃ」
 桜井は手をぱたぱたと振った。
「こんな時のリストバンドじゃ」
 背後から仁王が柳生のリストバンドを掴んだ。
「でもこれは………」
 重りなので、痕を隠すのには使えない。
「おや?おやおや………」
 仁王の手はリストバンドから、ズボンのポケットへと移動する。
「ポケットの中から別のリストバンドが出てきたのう…しかも軽いのう…なんでじゃろう」
 なぜかパワーリストではない、普通のリストバンドが出てきた。しかもこれは間違いなく柳生のものであった。
「仁王、君って人は」
 油断ならないパートナーだが、この時ばかりは感謝をした。リストバンドを桜井の手首にはめてやり、柳生は包むように彼の手を握る。
「では、そろそろ本当に行かなくては。桜井くん、また」
「……はい……また」
 軽く手を振って、桜井と柳生は別れた。柳生の後を歩く仁王が“どうせならアディオスの方が良かった”と茶化す声が聞こえた。








 その後、練習に加わった桜井はメンバー全員に心配される事になる。注目されたのは手首ではなく、手形は消えたが赤い痕が残った頬であった。大丈夫だと皆に言い聞かせるが、最後伊武だけが彼の側に残っていた。
「伊武、大丈夫だから」
「桜井、嬉しそうだね」
 すぐに返された言葉は、桜井の痛い所を突く。
「なんか、変だね。俺、桜井がそんな頬腫らせてコート入って来たから悲しいよ。でも、桜井は嬉しそうだ」
 好き同士だったら、恋人同士だったら、喜びや悲しみは分かち合えるものだと思っていた。
 それは幻想だったのだろうか。昔は、そう出来ていると思っていたのに、そう出来ているつもりだったのだろうか。
 変だった。何かがおかしかった。この煮え切らない気持ち、一言で言ってしまうのならば。


「俺、桜井が見えないよ」
 表情も、声色も変えずに、ぽつりと呟いた。
「伊武………」
 桜井には伊武がとても悲しんでいる事はわかっていた。
 しかし、何を言えば良いのかがわからない。
 何を言っても彼の気持ちを欺いてしまう気がしたからだ。


 沈黙が、重かった。







伊武は嫉妬や怒りを桜井に向けない所に恐ろしさを込めてみました。いちおう、両者わからない感じで、桜井好きさん、伊武好きさん、柳生好きさんに楽しんで頂けるような話が出来たら、と思います。
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