全国大会が終わると共に夏が過ぎ、季節は秋へと移り変わろうとしていた。



氷点



 その日、柳生は用事で東京に来ており、一人バスのつり革に掴まって揺れに身を任せていた。仁王と来たのだが、彼は電車が良いと言い出し、勝手に単独行動を取られて別れてしまった。
 何か考え事をしているのか、柳生はどこか上の空で、窓の外の流れる景色を眺めている。


 バス停に停車し、ドアが開く。
 階段を登って入ってくる足音に、柳生は無意識に入り口へと顔が向いていた。


「「あ」」
 入ってきた人物と、自然と重なる声。


「奇遇、ですね。桜井くん」
 柳生は名を呼ぶ。自然と口元が綻んだ。
「いつ会っても、驚かされますよ」
 桜井は軽くおじぎをして、柳生の隣のつり革に掴まる。


 ドアが閉まり、バスが動き出した。バランスを崩しそうになる桜井の体を、そっと柳生は手で支える。
「し、失礼しました」
 慌てて手を離し、ズボンのポケットへ突っ込んだ。紳士の名を持つ柳生には不自然な姿勢で、桜井はくすくすと笑った。
「今日は、どうしてこちらへ?」
「ええ、ちょっと。仁王くんと来たのですが、電車で行くと言い出しましてね」
「へえ…」
 相槌を打つ桜井を横目に、柳生は眼鏡のフレームを指で押し上げる。


「本当に、驚きました。今、さっきまで、君の事を考えていたから」
「え?」
 桜井が顔を上げて柳生を見る。
「いえ、その…」
 咳払いをして誤魔化した。
 東京へ行く事が決まってから、柳生は桜井の事ばかりを考えていた。もしかしたら、会えるかもしれないという、淡い期待。けれど、この広い場所で偶然出会うというのは、ほぼ不可能な事。わかってはいるのに、期待をしてしまう。根拠はないのに、期待をしてしまう。桜井の事を考えて、考えて、本当に出会えた時には、幻覚とさえ思ってしまう。それぐらい、有り得ない偶然であった。


「俺の、どんな事を考えていたんですか?」
 下から覗き込むように、桜井は問いかけてくる。
「え?え…………えっと、あの」
 たじろぐ柳生の頬に赤みが差す。
「もしかしたら、会えるかもしれないと…」
 声が裏返りそうになりながら答えた。
「会って?」
「もしも会った時、どんな話をしようか、考えていました」
「どんな話ですか?」
「忘れました」
「なんだぁ」
 桜井は視線を戻す。


「桜井くん」
 改まったように柳生は桜井の名を呼ぶ。
「はい?」
「運命って信じますか?」
「ぶっ!」
 桜井は吹き出した。
「そうですよね、可笑しいですよね。私も自分で言って、馬鹿馬鹿しく思います」
 苦笑を浮かべるが、柳生は続ける。
「でも…………信じています」
 小声で、桜井だけに聞こえる音量で囁くように呟く。


「柳生さん」
 桜井は窓の外を眺めたまま、柳生の名を呼ぶ、僅かに首を動かして、彼から顔が見えないようにする。
「もしも、運命だったら」
「はい」
「どうなる運命なんですか」
「え?」
 柳生の思わず上げた声は、ドアの開く音にかき消された。
「俺、降りなきゃ」
 顔を背けたまま、逃げるように下車しようと、足早に階段を下りる。
「桜井くん?」
 反射的に伸ばした手は、届く事は無かった。桜井は振り返る事無く、走って行ってしまう。


 桜井が下りた次の停留所で柳生は下りた。何度も後ろを振り返り、時には立ち止まりながら、仁王と待ち合わせをした場所へ向かう。




 一方その頃、桜井は走るのをやめ、俯いて息を切らしながら、商店街をとぼとぼと歩いていた。
 顔を上げると、目印になりやすい店の前で伊武が立っており、桜井を見つけると手を上げて歩み寄ってくる。
「桜井」
「伊武」
 ぎこちない笑みを浮かべた。
「そんなに走ってくる事もないのに」
「そうだな」
「じゃ、行こうか」
 伊武と桜井は並んで、雑談をしながら雑踏の中へ消えていった。
 桜井には伊武がいて、伊武には桜井がいる。もしも、柳生との出会いが運命だとしたら、そこに幸せなど待ってはいない事を桜井は知っていた。
 伊武が好きだった。今もそれは変わらない。しかし柳生と出会う度に、胸の奥がざわついた。本当の事を言おうと何度思っても、彼との居心地のよさが言葉をかき消してしまう。いつか隠し通せなくなる時が来る。わかってはいるのに、かき消されてしまうのだ。


 かつっ。
 2人が通り過ぎた小路から、銀髪の頭が覗かせて彼らの背を見つめていた。
「………………」
 姿を現せた人物、仁王は顔をしかめる。駅を降りて歩いてみれば、偶然見かけてしまった姿。
伊武と桜井の雰囲気だけで、おおよその関係は察してしまった。こういう時の勘が外れた事はない。今回ばかりは外れて欲しいと願っているが、残念にも当たっているだろう。
「桜井くん。あんた酷い人じゃの」
 自分で聞き取ってもわかるくらい、その呟きは悲しみに包まれていた。


 季節が移り、気温と共に心の奥が冷えていくのを感じた。




 その足で仁王は柳生と落ち合い、何事も無かったように手を振ってみせる。
「仁王くん。バスで偶然、桜井くんに会ったのですよ」
「………へえ」
 僅かに動揺して眉が動くが、柳生は気付いていないようであった。
「のう柳生。もしも、もしもの話なんだけどな」
「はい?」
「もしも、桜井くんに恋人がいたらどうする」
 わざと、意地悪そうに言ってみせる。からかうように、言ってみせる。ただの戯れだと、柳生に思わせようとする。
「え?」
 眼鏡の奥の瞳が、何度も瞬きされた。
「わかりません。桜井くんを嫌いになるはずはありませんし、好きな気持ちは変わらないでしょう。でも、いけない事になってしまうんですよね。なぜいけないのでしょうか。こんなに好きなのに」
 柳生は言ってしまった後で、自分の言動に気付き、顔を赤らめる。
「面と向かって惚気られるとはの」
「いえ……これは………その。だいたい仁王くんが変な質問してくるのが悪いのですよ」
「おうおう、俺が悪人か」
「そうです」
「そうか。ははっ」
 仁王はカラカラと笑う。つられて柳生も微笑んだ。


 本当に事を言えるほど、悪人にはなりきれなかった。







仁王が気付いた。
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