浸透



 試合を観戦していた柳生の背後から、そっと仁王が近付いて耳打ちをする。
「柳生」
 視線はコートを向いたまま柳生は言う。
「君。どこへ行っていたんですか。真田くんが怒ってましたよ」
「それより。不動峰が……」
 歓声で仁王の言葉が掻き消される。だが、何が続いていたのかはだいたいの察しがついた。
「そうですか」
 息を吐くような、小さな呟き。落胆でも、ましてや喜びでもない。ぽっかりと空いた、虚無のようなものを仁王は感じた。
 柳生の身体が後ろへ下がり、仁王は反射的に横へ動く。
 振り向いて、人の群れの中を進もうとする柳生の背中に、仁王の言葉が投げられる。
「行くのか」
 からかいと激励の混じった彼らしい声。
「試合の結果も、もうわかりきっとるし。……なんにせよ、決まっとるじゃろ?」
「うちの、勝利ですね」
「おう」
 柳生と仁王の口の端が同時に上がる。
 仁王は背中越しに、柳生の気配が離れていくのを感じた。




 コートを離れ、行き交う人の中、柳生は歩く。
 一体、どこへ行こうとしているのか。
 もう彼らの試合は終わって、場所を動いていたとするならば。


 会えないのかもしれないのに。


「…………………………」
 ふと過ぎる不安を、彼にもし会えた時の言葉を考えに切り替えて消した。
 いつ、どこで、なにを。
 明確な約束など、今まで交わした事はない。
 名前だって、あの時にしか呼ばれていない。
 当てなんて、思い返せばどこにもない。けれど、どこかで信じている。そう、期待をしていた。
 恋を、していたのだ。




 彼――――桜井もまた、人の群れの中を歩いていた。
 試合を終え、輪を離れていた伊武を捜して会えたものの、仲間たちの元へ戻る際にまたはぐれてしまった。
「…………………………」
 キョロキョロと見回して、伊武を捜しながら進んだ。伊武は前を歩いているはずなのだが、なかなか見つからない。胸の中へ焦りが募っていくのを感じた。
「あ」
 すれ違う人の肩があたり、思わず声を漏らす。その人がこちらを見てきて、小さく詫びをした。
 今歩いている、会場のこの場所は特に人通りが多く、ふらふら歩いていれば人にぶつかってしまう。立ち止まる訳にも行かず、進み続けた。


 桜井の僅かな呟きに反応するように、伊武は後ろを向く。
 視線の先に桜井はおらず、見回しても桜井は見つからない。
 早く歩きすぎただろうか。
 ここは人の群れの中で、立ち止まれば流れを止める事になり、かといって戻るのも困難である。
 どうしたものかと歩調を緩めると、横を歩く人が伊武を抜かしていった。
 どうしよう。
 困惑する伊武は、どんどん追い抜かされていった。




「あっ」
 思わず口から出た声は無意識に明るい。
 やっと見つけた対象へ、真っ直ぐに向かっていく。
 人の群れも、喧騒も気にならない。ただ目に映る唯一の存在の元へと歩いていった。
 手を対象へと伸ばす。届くように、伸ばしに伸ばした。そうして捉えると、対象は驚いたようにびくりと震え、振り返る。
「…………………え?」
 対象――――桜井は目を丸くさせた。
 大きな手が彼の肩をしっかりと掴んでいる。黒いリストバンド。それを辿っていけば、本人の顔へと辿り着く。
「桜井くん」
 名を呼んで、破顔する。掴んだのは柳生であった。
「え…………あ………」
 桜井の顔が強張る。柳生を見上げたまま、肩に乗った手をやんわりと剥がそうとした。
 気付いてか気付かぬか、柳生は続ける。
「少し、お時間良いでしょうか」
 一息間を空け、言い放つ。
「君と、話がしたいんです」
 はっきりと、意思を伝える声であった。
 何かが揺れる。桜井は目を細めた後、細かく瞬きをした。
「…………………………」
 断らなければならない。
 桜井の心が返事を急かそうとする。
 伊武を捜しているのに。
 追い付けなくなるぞ。
 急かしても、急かしても、喉から声が出て来ない。
「桜井くん」
 剥がせなかった柳生の手に力が篭る。痛さは無い、体温がじんわりと伝わった。
「……し、だけなら…………」
 少しだけなら。
 そんな答えが口から出ていた。


 人の流れから抜け出た道の端で、桜井は柳生の話を聞く事となった。肩に乗っていた手は当然離れる。
「桜井くん。仁王くんから聞きました。残念……でしたね」
「ええ。実に残念です」
 淡々とした口調で桜井は言う。
「あなたに、今度は勝つつもりだったのに」
 くすりと笑うが、その笑みには苦さが含まれていた。
「我々はまた、あなた方に勝つまでですよ」
 柳生も笑う。
 しゃあしゃあとした口振りに、試合をした時を思い出して、懐かしさが胸を締め付けた。
 ほんの数ヶ月前の事なのに。中学も二年で半分を過ぎた辺りなのに。一日一日が深く、一時一時も深い。この目に焼きつく会場の風景の、一瞬きでさえも。
 儚く、そしてかけがえのない。
 こんなのを思うのは、まだ早いのかもしれないが。時の過ぎ去った未来は眩しくもあり、寂しくもあった。
「柳生さんがそう言ってくれて、安心しましたよ」
 嫌味のように桜井は言うが、その表情からはいつの間にか苦さが消えていた。
「…………はぁ」
 相槌を打つ柳生。
 しかしその胸は、名を呼ばれた事に跳ね上がりそうであった。
 確かに彼には試合で勝った。今までだって数々の対戦相手には勝ってきた。勝った相手は忘れて上を目指していた。なのに彼は、桜井は、柳生の胸の中でずっと居続けた。理由はわからない。なぜかと問われても、答えられない。ただ、惹かれていた。ただ、惹かれるままに心は揺れて、掻き乱される。
 苦しいはずなのに、苦にはならなかった。喜びの、輝きの一部であった。
「あと」
 胸を高鳴らせたまま、柳生は言葉を懸命に頭の中で紡ぐ。顔はきっと赤いのだろう。
 桜井はただ柳生の顔を見上げ、言葉を待っていた。
「…………………………」
 口を開くが、声が出て来ない。声にならない想いは手を再び彼の肩の上へ伸ばさせた。
 乗りかかる重さと体温。それは優しく、受け入れてくれたような気がした。
 伝わる体温は身体の奥、心へと染み込んでいく。


 どくっ。
 押し上げるような鼓動が、自らの胸から聞こえたような気がした。


 熱くなる顔とは正反対に脳はひどく冷静になっていく。
 いけない。それは駄目だ。
 桜井は後ろへ下がる。すると柳生の手は落ちた。
 離れなければならない。そう思っているはずなのに。頭はあらぬ想像を浮かばせてくる。
 今、彼の胸に抱き締められたのなら、この心の壁は全て崩壊してしまうはずだろう、と。
 そうしたら。そうしたら。
 胸の中が一気に冷えた。怖くなった。築いてきたもの全てが、壊れてしまうのだから。
「桜井くん?」
 柳生の眼鏡の奥の瞳が瞬きをする。
「…………………………」
 桜井は一瞬目を逸らした後、柳生を見た。その表情はどこか遠く、その距離をわかって悲しんでいるようで。こうして顔を合わせて、ついさっき触れたばかりなのに、急に遠ざけられたような。
 問いかけも、答えられも出来ず、ただ見詰め合うしか出来ない。
「柳生さん。あなたも長居は出来ないでしょう?」
 無理に笑顔を作り、桜井は人の群れの中へと小走りで入っていった。
「桜井くん…………」
 もういない彼の名を呼んでいた。
 初めて見た彼の笑顔を思い出していた。彼をもっと知りたくて、その先にあった笑顔は、あんな悲しいものを見たかった訳ではない。もっと先を。そう思いたいのだが、今は途方にくれるしかなかった。




「もっと道開けろよ」
 伊武はぼやきながら、道を逆流する事に決めて人を掻き分けていた。
「え?」
 桜井らしき影を見かけて、顔を上げて目で追う。確かに、あれは桜井であった。
 何か急いでいるように見えた。彼が来た方向を横目で見ると、立海らしきオレンジ色のユニフォームが映る。立海のユニフォームは色が目立ちやすい。桜井と立海の生徒が話をする訳が無い。ただなぜか、その色が浮いて、目に焼きついた。
「…………………………」
 伊武は意識を桜井に戻し、彼を追う。
 桜井のすぐ後ろにまで追い付く事が出来た。手を伸ばせば届きそうなのに、人が塞いでなかなか届かない。痛くなるくらい伸ばしても届かなかった。
「桜井っ」
 声に出して呼んでも、元々の声が小さいのか、届いていない様子であった。







桜井陥落寸前。
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