今日という日



「雅治、おめでとう」
 朝。家族に言われて、仁王は今日が自分の誕生日である事を知った。
 室内は暖かかったが、外に出れば冷たい北風に吹かれる。誕生日は十二月四日。冬が訪れていた。
 何か羽織るものなどの防寒具を持ってくれば良かったと思ったのは、しばらく歩いた後。戻るのも面倒だったので、そのまま学校を目指した。


「んっ」
 歩く中、咳払いをして生唾を飲んだ。喉が少しいがらっぽい。起きた時から感じてはいたが、一日薄着で過ごせば風邪へと悪化するのかもしれない。
 この季節は風邪が流行りやすかった。今更気付いたように、ぼんやりと思い返す。
 もう家へは引き返せないし、なんとかなるだろう。仁王の思考は至ってマイペースであった。
 だがしかし、喉の痛みは気分が悪く、しっくり来ない。
 バスの停留所に着き、丁度来たバスに乗って走り出す。
 揺れて進むバスの中。ふと横を見れば、知った顔を見つけた。揃った漆黒の髪、同じ制服。片手で手摺りを握り、もう片方で文庫本を開いて眺めていた。
「…………………………」
 柳。そう呼ぼうとしたのに、喉の奥が絡んで声が出ない。
 彼の方を向いて口を開き、手を伸ばしかけた姿で、柳は仁王を見た。
 不自然な格好で、朝から最悪だと嫌になる。
「仁王か、おはよう」
 柳は本を閉じて仁王のすぐ隣へ移動した。声は明るく、仲間に会えて喜んでいるようであった。
「おはよう」
 小さく、仁王も挨拶をする。笑顔で返しているつもりだが、もしも鏡があったなら硬い顔を映すような気がした。


 見た目は厳しそうだが、柳は優しい。
 知った人間なら気軽に話しかけてくれる。
 柳は優しい。こうして接してくれているのは、二人が同じテニス部の仲間だからだ。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 柳に憧れる心など、知る由も無いのだろう。興味も無いのだろう。
 遠く感じている想いなど、高鳴る鼓動さえも。
 だが気付かれても困る。
 顔を一瞬合わせるだけで、言葉を一言交わすだけで、仁王の心は揺れて複雑になる。


「大丈夫か、それ」
 柳は仁王を上から下へと視線を動かして眺めた。
 いきなりジロジロと見られて、避けそうになってしまう。
「どうした参謀」
「制服だけで、寒くはないか」
 柳はコートにマフラーという暖かい格好をしていた。確かに寒いが、ここまではしなくても良い気温に思える。二人は対照的であった。
「出て来てしまったもんは、仕方が無いっちゃ」
「声、おかしいな」
 指摘され、咳払いをして“あー”と発声をする仁王。そんな彼に、柳は鞄の中から飴を取り出す。
「のど飴だ。声が悪いと弦一郎に会った時、厄介だぞ」
「たるんどる?」
「そうだ」
 柳は頷いてみせ、飴を箱から一つ手の平へ乗せた。
「あ」
 丁度バスが揺れて、飴は床に落ちる。包装はされてはいるが、拾った飴をコートのポケットの中にしまい、別の物を出した。
「また落としてもかなわんな。口を開けろ」
「え?」
 意図を理解した仁王の顔は熱くなる。気付かずに、柳はもう一度言う。
「いいから、開けろ」
 包装を開けて、仁王の口元に定める。
「あ」
 口を開けて、目は無意識に閉じてしまう。
 闇の中で飴が入れられるのを感じた。
「すまんの……」
 礼をしようとすると、柳は首を横に振る。口を開ければ飴が出てしまうとでも思ったのだろうか。それとも無理に喋らせないようにしてくれたのか。真意はわからないが、思いやっての行為だとはわかる。
 二人は同時に手摺りを握り直し、窓の外に視線を移した。学校に着いて別れを告げるまで、特に言葉は交わさなかった。けれども心は通ったかのように暖かい。口の中はのど飴の独特な甘さと、苦さが相俟っていた。






 飴は口内の熱で溶け、嬉しい気持ちは長くは続かない。
 喉の痛みは時間が過ぎるにつれ、増していった。声もおかしく、心なしか頭も痛いように感じる。本格的な風邪が訪れたようだ。
 せっかくの昼食も味を感じない。
 せっかく柳にのど飴を貰ったのに、悪化するなんて。
 柳にまた会ってしまったら、申し訳ないような気がした。
 教室の机に突っ伏して、テスト期間で部活も無いのだからと、今日が早く終わる事を願う。帰って市販の薬でも飲んで、寝てしまいたかった。
 そんな心境の中、真田に会って“たるんどる”と注意され、柳生に会って“自己管理がなってない”と苦笑交じりの嫌味を言われる。学年の違う切原には挨拶代わりのタックルをされた。丸井の食べている菓子を桑原と一緒に眺めている時は穏やかだったのかもしれない。幸村からはネギが良いとしつこく勧められて疲れる。
 もう帰ろう。放課後のチャイムと同時に決意した。


 だるさを背負って校門を潜ろうとする仁王の肩に手が乗せられる。
 振り返れば、柳であった。朝と同じような優しさを向けられているような気がした。
「どうだ、具合は」
 かけられた声に、感じたのは間違いではなかったと仁王は思う。
 しかし、次に思考は停止する。どう答えるべきか。
 本当の事を言うべきか、強がっても見抜かれてしまうだろうし。
 迷い、仁王は俯いた。
 立ち止まり、沈黙をする二人の横を生徒たちが通り過ぎていく。
 破ったのは柳でも仁王でもなく、不意に吹いた冷たい風であった。風は仁王の鼻をくすぐり――――
「くしっ」
 くしゃみを引き起こす。
 鼻を啜り、ティッシュを取り出して顔を背けて噛んだ。
「すまんのう」
 振り返り、柳を見た仁王の目は見開かれる。
 柳の腕が仁王の顔の横を掠めたのだ。首の後ろに暖かな布の感触。マフラーを巻かれているのだと察した。息を止め、巻き終えるのをじっと待つ。ただ、巻いてくれる柳の顔を見るしか出来ない。
「今日は、誕生日だったな。おめでとう」
 呟き混じりに祝われる。柳はデータテニスをするのだから覚えられていて当然と言えば当然だが、嬉しいものは嬉しい。
 だが己の想いなど露知らず、こんな近距離でこんな真似をされて、そんな事を言う柳は残酷に見えた。動揺し、胸を高鳴らせる自分は愚かだと感じた。
「これを、やるか」
「え?」
「嘘だ」
 冗談まで言われて、憎めたらどんなに良いかとさえ思えてしまう。
 好意も憎しみも揺れも、全ては勝手な想い。彼は何一つ、知りはしない。わかりきっているのに、改めて巡らせる度に身体の奥も今の季節と同じ色に染まる。
「今日は暖かくして眠る事だな。それは貸す。あと」
 柳は鞄から取り出した小さな箱を、仁王の鞄の中に押し込んだ。
「朝は渡し忘れていた。鞄は開けたはずだったのにな」
 静かな面持ちの中に、僅かに困った表情を示す柳がなんだか可笑しくも愛おしく、仁王の口元に笑みが浮かぶ。
「おう、有難う。参謀は優しいの」
「そうか?初めて言われた」
 真顔になられ、面を食らう。
「皆思っとるけど、言わんだけかもしれん」
「どうかな……」
 言葉を濁す柳は、照れているようにも見えた。
「では、帰るか」
「え?帰る?」
 今日は柳の行動に反応してばかりだと自覚はしているが、隠せずに聞き返す。
「帰るだろう?」
「おお、そうじゃ」
 こくこくと頷いて、柳が隣へ並ぶと歩き出した。


「寄り道は駄目だぞ」
「わかっとる」
「夜更かしもいけない」
「早く寝るから」
「風邪、治せよ」
「わかっとるから」
 仁王は柳の一言一言に突っ込みに近い言い返しをする。
「参謀も風邪ひかんようにな」
「ああ」
 柳は笑う。
 もしかすると、二人だけで帰るのは初めてなのかもしれない。
 冗談を交えても言えそうに無いので、仁王は心の内に留めておく事にした。
 今日は意外と良い日なのではないか。ふと思いが過ぎる。
 柳のくれたプレゼントの中身を予想しながら、気付かれぬように彼の横顔を何度も見つめていた。







幸村は健康マニアだと良い。
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