雨濡れの花



 移動教室で行った部屋は一階。
 窓際の席に座った柳生は授業を受ける。外は昼間でも暗く、雨が降ると予報で言っていた。
 なんとなく眺めれば、振り出した事に気付く。目を凝らせば、雨の筋が見えた。
 壁に沿って植えられた花壇の草花は濡れて、色を薄暗くも鮮やかに染まりだす。振りは激しく、水を吸った草は花が重いのか傾いていた。けれども葉の上は滴を作り、生命力を感じさせる。


 優等生の柳生は余所見をしていても、それが余所見だとは疑われない。考え事でもしているのだと、良いように見られる。
 頭の中は上の空であった。ぼんやりと、桜井の事など考えている。
 彼を例えるのなら、なんだろう。柳生は思う。
 彼を例えるのなら、そう、今眺めている雨濡れの花だ。
 美しくも儚げで。どこか影を纏っていて。
 あの、傾いた様子が、初めて彼に好意を抱いた思い出を呼び起こしてくれる。


 誰にも言わなかった。誰にも言いたくなかった。
 私だけのものにしたかった。彼の姿を。






 あれは関東大会。立海が圧倒的な力で不動峰に勝利した後であった。
 試合が終わって移動の準備をする最中、柳生はそっと不動峰の様子を横目で見る。
 部長である橘が負傷して、不動峰は完全に消沈していた。腕で目元を擦る者もいる。
 彼らにとって橘という存在は偉大なのだろう。
 立海にとっても部長の存在は大きい。
 気の毒だとは思ったが、特に同情はしなかった。ねじ伏せて呆然とする相手の姿は見慣れている。
 それに。柳生は眼鏡のフレームを押し上げた。
 あくまで怪我だ。いなくなってしまわないだろう。
 不幸比べではないが、幸村の方はもしかしたらという危機と背中合わせであった。
 大丈夫だと誰もが信じている。けれども、その隙間には不安が押し込められて、今にも溢れてしまいそうだった。
 じろじろと覗くのも趣味が悪いと、視線を戻す。
 真田の呼ぶ声が聞こえて、表情を変えずについていった。


 あれは偶然が偶然を呼んだ。
 移動の最中、切原が“はーい”と手を挙げた。
「喉が渇いたっス!」
 足を止めて切原に注目する他のレギュラー。真田などは腕を組んで眉をひくひくさせていた。
 夏の暑さと試合で身体を動かせば、身体が水分を必要としてくる。飲み物は持ってきても、すぐに空になってしまう。だがしかし、今言うなと真田は言いたい。
「そうだな。俺も乾いたぜよ」
 仁王は首の後ろに手をあてて呟く。
「俺も乾いた」
 丸井が桑原の手首を持って一緒に腕を上げる。
「どうする弦一郎」
 柳は真田に意見を求めた。
「わかった。休憩を取ろ」
「真田副部長。そうこなくっちゃ」
 真田が言い終わる前に切原は調子の良い事を言う。
 立海メンバーは会場の適当な場所に荷物を置き、誰かが代表して飲み物を買いに行くと決めて、じゃんけんをした。
「………………………」
 柳生は一人、チョキを出して硬直する。他は全員図ったかのようにグーを出してきたのだ。
「柳生、頼む」
「柳生、行って来い」
 にやにやと嫌な笑みを浮かべて、仲間は柳生を見送った。
 私は喉が渇いたとは言っていないのに。
 愚痴を言っても仕方なく、心の内に止めておいた。


「ついてませんね」
 小さく愚痴を吐き、自動販売機を探しに会場の中を歩く。
「ん…………?」
 不意に立ち止まり、横を見た。道が分かれており、この先はコートとも出入り口とも違い、使い道の決まっていない空き地が広がっているだけ。そのはずなのに今、自分と同じ中学生が通ったような気がした。
 道を間違えただけなのか、それとも何か用事があるのか。そもそもどうでも良いではないか。
 なのに、それなのに。なぜだか気になった。柳生は用事である飲み物も買わずに、何も無いはずの道へ曲がり、進んでいった。
 壁が続いて、壁が金網に変わり、金網が無くなった先には草が不揃いに茂る空き地へ辿り着く。人で溢れる同じ会場とは思えないくらい、静寂に満ちていた。
 なぜこんな場所へ来たのだろう。
 柳生は首を横に振り、引き返そうとしたが、人影を見つけた。


 目立つ黒いユニフォームと後ろへ撫で付けた髪。
 さきほど戦った不動峰の生徒だとわかった。
 なにをやっているのかは背を向けているのでわからない。
 だが、想像は出来た。
 俯き、震えて、顔をこすっている。彼は、泣いているのだろう。
 確か、橘の試合が終わった後に見た時には、泣いていなかった。
 なぜ、すぐに思い出せたのか。なぜ、引き寄せられたのか。説明は出来そうに無い。
 柔らかな風が吹き、柳生の前髪がなびいて眼鏡にかかっても、避けもせずに立ち尽くして背中を見据えていた。


 ただの、想像であった。
 似たような光景は何回か見た事はある。
 ただこの空間が会場とは別空間の、静寂と空の壮大さを持った二人だけの世界のようだった。
 彼は男だった。
 テニスというスポーツをやっているのだから身体はある程度頑丈だろう。
 どこにでもいるような人物だった。
 柳生自身にも理解は出来ないのだが。
 彼はとても儚く見えた。
 触れれば散ってしまうような、限りある花のような。


 舞い降りるように、柳生の頭に彼を表現する言葉が浮かぶ。
 美しかった。
 そう、佇み一人頭を垂れる彼は、美しかった。
 柳生の目には確かにそう見えたのだ。


 声は、かけられなかった。
 何も言わずに来た道を引き返した。
 その後、彼の姿を思い出すようになった。
 好きなのかもしれないと、ある時に自覚した。






 柳生は一度目を瞑り、開いた。
 立海の花壇が見え、彼は我に返る。
 黒板に視線を移し、ノートと交互に見て内容を書き出した。
 桜井くんは今なにをやっているんだろうか。また桜井の事を考えていた。
 しばらく会っていない。本当は会いたくてたまらない。
 思い返した事で、思い出した事がある。
 桜井の前に立ち、笑顔を見たい。それが願いであった。







桜井は峰っ子の「橘さーん!」の輪に乗り遅れて、後ろから眺めるはめにはる子だと妄想。
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