絶対君主
灰色の空から降り注ぐ小雨。
校門を潜り、帰って行く生徒も少なくなってきた放課後。静まり返った校舎を、雨は静かに濡らしている。
テニス部の部室には新しく任命された二年の部長の幸村、同じく二年の副部長の真田の二人が残っていた。
三年生は引退し、他の生徒は帰宅しているか図書館で勉強しているか。それとも友人との雑談に夢中でまだ校舎の中にいるのか。一つの建物として独立した部室からは見えはしない。雨も相俟って、外界と遮断されたような感覚さえある。
幸村と真田はそれぞれの仕事を淡々とこなしていた。幸村は本棚の前で過去の記録を読み、真田は備品を整理している。整頓をしながら、ふと真田は横目で幸村を見た。
俯き加減で資料を眺める幸村の背中は綺麗な線を描き、腕はブレザーを纏っていてもわかる理想的な筋肉を持っている。ゆったりと流れるような漆黒の髪は湿気の多い雨の気候が、黒を浮き立たせ艶やかに映し出していた。美しく、そして力強い生命を感じた。背は真田の方が高く、全体的に身体も大きいのだが、なぜだか幸村の背が自分よりも大きいように見えるのだ。
錯角なのは承知しているが、人を惹き付け、従わせようとする何かが、幸村にはある。
「……………………」
つい幸村に見入ってしまった真田は、我に返るとすぐに視線を逸らす。
手も止まっており、動かそうとした時に幸村が口を開いた。
「真田」
決して大声ではない。吐息のような呟き。だが、部屋全体に通り、真田は一瞬息を止める。
「俺に何か用か?」
振り向かず、背を向けたまま幸村は問う。
「いいや」
無意識に首を横に振る真田。
パタン。本を閉じ、棚にしまって幸村は振り返る。
「俺の事、見ていただろう」
なんとなく見てしまった事が、なんとなく罪に思えた。
見ていないと脳に言葉が過ぎるが、声は裏腹に真実を告げていた。
「ああ」
口に出して、どきりと心臓が内から大きく鳴る。
「言いたい事でもあるのか」
向き直り、幸村は目を細めた。
「ない」
「じゃあどうして俺を見たんだ」
「理由はない」
幸村の視線が辛くなり、真田は身体ごと横に向けようとする。
「あるだろう」
真田の目が僅かに丸くなった。
「言ってやろうか」
足音を立てずに幸村が歩み寄ってくる。真田は引き下がる事が出来なかった。硬直して、動けないでいた。言葉で、視線で、縄がなくとも幸村は真田を縛りつける。
幸村が真田の腕を掴むと、静寂の中で布擦れの音が響く。
黒い、透き通る瞳が真田を真っ直ぐに見上げた。
「真田は、俺の事が好きなんだよ」
「……………………」
真田の唇が震え、薄く開かれるが音は発さない。
頬が薄っすらと染め上がる。
「馬鹿を言え」
「あ、ちゃんと普通の好きじゃないってわかっているんだ」
「ふざけるな」
叱咤する真田だが、口調は低く細い。突き放す気配も見せない。幸村と交差する瞳は逃れられず、目元が痙攣した。
「幸村。だいたい男が男を」
「いけないって言うの」
「そうだ」
「真田はわかってないね」
幸村が踵を浮かせると、視線の高さが揃う。
「俺は悪くないと思うよ。俺が悪くないって言ったら、それは悪くないんだ」
何を言う。
言い返そうとする真田は詰まる。
「俺も真田が好き。両想いじゃないか。俺たち、上手くいくと思う」
腕を掴んでいた幸村の腕が真田の首に回ると、彼は顔を近付けた。
影が重なり、唇と唇が合わさる。目を瞑る幸村に対して、真田は呆然と白い壁を見詰めていた。
もう片方の幸村の手が真田の胸元に伸びて、そっと触れてくる。忙しない、早鐘のような心音がわかる。ブレザーの間に指を差し入れ、余った小指がボタンを弾く。シャツの内側まで侵入しようとした時、真田は幸村を押し退けた。
「わ」
幸村は後ろへ下がり、よろける。
「危ない」
顔を上げて、わざと口を尖らせて見せるが、真田は顔をしかめて睨みつけてきた。
ふざけるのはやめ、幸村は真顔になるが、真田は乱暴に自分の鞄を肩にかけると彼の横を通る。
「帰る」
「怒った?それとも傷付いた?」
幸村の問いは、ドアが閉まる音に掻き消された。
一人きりになった部室の中で、真田の仕事の後片付けを始めた。
息を吐き、呟く。
「あれじゃあ、怒るか」
口の端は上がっていた。
バタン。大きな音に柳は顔を上げて、扉の方へ首を向ける。
「どうした…………弦一郎」
そこには音を立てた張本人、真田が息を切らして立っていた。
場所は図書館。生徒の視線が彼に集まる。しかし気にも留めず、真田は辺りを見回し、柳を見つけると歩み寄って鞄を机の上に置いた。また大きな音が鳴る。
柳は本を閉じ、落ち着いた声で嗜めた。
「慌ただしい、静かにしろ」
「済まない」
隣の席に座り、鞄からタオルを取り出して額を拭う。こめかみから汗が伝うのを柳は見逃さなかった。
「どうした。走って来たのか」
「ああ」
柳とは視線を合わさず、適当な本棚を眺めながら真田は答える。
「何か俺に用でもあるのか」
真田はハッとしたように柳を見た。
「なんだ?」
「お前も、幸村と同じ事を言うんだな」
「ん?」
「……………………」
俯き、顔を逸らす。両手を机の上で組んで、突っ伏すように顎を乗せる。
中学生ならよくやりそうな格好だが、真田のそんな姿は記憶の限り見せた事は無かった。
横顔をじっと凝視するが、何も言わない。
黙られては柳もどうする事もできない。詮索も出来る雰囲気では無く、閉じた本をまた開いた。
「真田、俺には言えない悩みか」
「怖い」
「ん?」
今、何を言った。耳を疑う。
真田の呟きが、今聞こえた言葉が、聞き間違いだと何度も自分へ言い聞かせる。
真田の呟きが、柳にも恐怖を抱かせた。
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