北風
とある日の冬の放課後の図書館。外は寒いが中は暖かく、窓から注ぎ込む日差しも眩しい。
暖かいくらいに暖房は効いており、舟を漕いでいる者もいる。
「ん」
読書をする柳は思わず呟く。
本に自分の落とした髪を危うく挟んでしまいそうだった。
小学生の頃、彼の髪は肩にかかりそうなくらいまでに切り揃えていた。
短くしてしまった髪は、あの頃よりも落ち易いように思う。
現在、彼は中学二年生。所属しているテニス部では、三年生の仕事は二年生に受け継がれるが、本格的にはまだ始まらない楽な時期であった。この一週間は自主練習を監督から指示され、柳は今日、身体を休めていた。
柳は椅子の背もたれに重心をかけて伸びをすると、本を閉じて立ち上がる。
そうして本を抱え、本棚の方へ向かった。新しい本を探すのだ。まずは読んだ本を戻してから窓際の方へ行き、目に付いた本の題名を指でなぞる。
「ふむ……」
喉で唸る――――その時であった。
ガンッ!
大きな音が背後から聞こえる。反射的に振り向くと、窓が開けられ、外側から一本の足が出てきた。
靴は履いておらず、白い靴下としなやかなふくらはぎ、白いハーフパンツ――――ここまで来れば、テニス部の誰かだと明白。
図書館に乗り込んできた相手は、柳を見ると僅かに目を丸くさせる。柳も開眼して驚いた。顔見知りだ。
「おお、参謀か」
仁王であった。脇にラケットを抱え、手にはスニーカーがぶら下がっている。
「おお、じゃない。何をやっている」
腕を組み、怒った素振りを見せる。
だが効果は見せず、ひょうひょうとさせて仁王は話す。
「幸村がの、無理を言うんじゃ」
「幸村?」
「真田とダブルスの練習をしてみろってな。俺、真田とはどうも気が合わん。耐えられんから逃げてきた」
はあ。溜め息を吐いて項垂れ、仁王はオーバーリアクションを取った。
確かに、見た目や性格からいって、真田と仁王は馬が合いそうではない。焼き肉の時だけは仲が良さそうに見えるが。やはり本人もそう思っていたか。柳は一人納得して頷いた。
「真田も、きっと俺の事嫌っとる。合わんもんは合わん。お互いの平穏の為に触れ合わんようにしていたものの、幸村が」
「そうか」
「のう、参謀。ここで出会ったのも何かの縁。頼みがある」
仁王は顔を上げ、手を合わせて“お願い”のポーズをする。
「幸村に俺と真田じゃ無理な事を伝えて欲しいナリ。俺たちが何を言ってもただの不平不満にしか幸村は捉えてくれん」
「だろうな。だが駄目だ」
苦笑を浮かべた後、拒否した。
「俺も幸村の意見には賛成だからだ。先入観をはずせば、なかなか良いペアだと思う。弦一郎はああ見えて気が良い」
苦味は消え、柳は柔らかく微笑む。
仁王は細かく瞬きをして、視線を逸らした。
「真田は良い友人を持っとるの。アイツの何もかもが合わんのに」
身体を横に向け、手で後ろ頭をガシガシ弄る。
「仁王?」
「……やるだけやるぜよ。どうせ駄目になるがな。心意気だけは受ける」
「仁王…………」
安堵したような柳の声に、仁王は片耳に指を突っ込んだ。
「何か、気が楽になった。さて、戻るかの」
柳の方を向く仁王の口の端は上がっていた。
ガンッ!
また大きな音が鳴る。今度は窓ではない、扉の方であった。そっと本棚の影から覗き見る柳と仁王。
入ってきたのは真田であった。図書館にいた全生徒の視線を集めるが、彼が気にする事ではない。堂々と、悪く言えば偉そうに、テニスウェアのままで歩いてくる。
雰囲気からしてかなり怒っている様子であり、注目した生徒たちは素早く読書に戻った。辺りを見回し、誰かを探している。恐らく、いやきっと、仁王を捜しているのであろう。
「参謀…………真田は気が良いんじゃ無かったのか」
「仁王、人の話は良く聞いておくものだ。ああ見えて、と俺は言った」
「かくまってくれんか」
「何を言う」
仁王の言葉に柳は彼を見る。
「怒り心頭の時に行くような無謀な真似は出来ないっちゃ。ほれ、図書館は静粛に、という」
「仕方が無いな。逃げる手伝いだけはしてやる」
「さすが参謀。話がわかる」
「調子に乗るな」
ぴしゃりと釘を刺すが、仁王の嬉しそうな顔は変わらない。
しかし、図書館から逃がすのは至難の業である。不幸にも、窓は入ってくるのは簡単だが出るのは跨ぎ辛い。おまけに窓は本棚と本棚の間にある。ウェアは目立ち易く、仁王の身長や髪もさらに目が行きやすい。彼の格好を見れば、同じ格好をした真田が捜している相手だというのも容易に想像出来るだろう。
悪目立ちをすれば、真田に言いつける者も出てくる可能性もある。
大人しく待機するか、入り口から出て行くのが一番大事になりにくいと柳は睨む。
不利な状況の中、救いと言えば図書館が広い事ぐらいだ。
「真田の様子を伺いつつ、隙を見て入り口に移動して出るぞ」
「了解」
柳が真田に気付かれぬよう、本棚の影から真田を監視し、彼の隣には仁王がぴったりとくっついていた。
怪しいは怪しいのだが、なぜだか心が躍る。
「参謀」
「なんだ」
仁王の囁きに、振り向かずに応える柳。
「ここの本棚に興味があるのか」
「さあな。たまたま回ってみただけだ」
「ホントか」
「なんだ一体」
柳は二歩下がって本棚を見る。
仁王に会うまで見ていた本のコーナーは俗に言う“保健体育”関連のものであった。タイトルをなぞった本は化学の本であり、全体を見るまで知らなかった。
やましい気持ちは無いが、仁王の質問に秘められた意味を知ると、妙な恥ずかしさが込み上げる。他の相手だったら平然にすれば良いが、仁王が相手では言い訳が効かない。羞恥は逃れきれないもどかしさも相俟っている。
「参謀、むっつりなんじゃの」
「悪かったな」
顔が熱い。どうか赤面していないように。柳は心の内で祈る。
「全く、誰の為にかくまっていると思っている。お喋りは控えろ」
「わかったわかった」
「くっ……」
仁王の視線がニヤニヤしているような被害妄想に襲われ、悔しくなった。
また元の位置に戻り、真田を追おうとした柳の瞳が開眼される。
真田はすぐそこまで来ていた。
「来い」
手を伸ばし、仁王の手を握って歩き出す。
真田が奥の方までくればこちらのものである。一気に壁に沿って進み、入り口から出てしまえば良いのだ。
「あ、っと……」
急に引っ張られた仁王は足がもつれそうになる。けれども柳は問答無用で振り返らず進み続けた。
柳の作戦は成功し、上手く真田を撒いて図書館の外に出る事が出来た。
「は――っ……」
逃げ出せた仁王はというと、背を屈めて膝に手をついて息を吐く。グラウンドを走るより、どっと疲れてしまった。
そんな彼の背を、柳は壁に寄りかかりながら眺める。
「参謀は手荒い…………と、お前は言う」
「おお、それそれ。言う手間がはぶけた」
持っていた靴を投げだし、履いた。
「参謀、助かったナリ。礼を言う」
仁王は振り返り、頷くように軽く頭を下げる。
「礼にはおよばないさ。短い間だが、なかなか楽しかった」
「今日は最悪かと思ったが、楽しい事はそれなりにあった」
手早く髪を数回掻き上げ、少し照れたように続けた。
「俺、今日から参謀と同い年。改めて宜しくっちゃ」
「そうだったな。同じ年ならば、そう世話はかけさせるなよ」
二人は同時に手を出し、払った。重なった手は音を立て、良く響く。
勢いでやったが、後からじんじんと痺れだす。
「痛い」
「俺もだ」
また同時に手の平を見せ合う。
赤くなった互いの手に笑いが込み上げた。
「じゃあな参謀。またな」
仁王はラケットを抱え直し、コートの方へ走っていく。痺れている空いた手は服にこすり付けていた。
見送る柳は小さく手を振り、小さく“おめでとう”と呟く。
「蓮二」
背後から聞き慣れた声がする。
「弦一郎か」
振り返らず、柳は呼ぶ。
「つかぬ事を聞きたい。仁王を見なかったか」
「一体、どうした」
真田は仁王がしたように、事の経緯を説明する。
もう知っている話なので、相槌を打つ中で早く本題に入るのを待っていた。
「――――と、言う訳だ。図書館に逃げ込んだと見たんだが」
「仁王の事だ、逃げ切れないのはわかっているだろう。たぶん、コートに戻っているんじゃないか」
「そうか?」
声色で、真田が怪訝そうな表情を浮かべているのがわかる。
「ああ、きっとそうだ。仁王はああ見えて、話はわかる」
「蓮二がそう言うのならば、行ってみよう。邪魔をした。では明日、また会おう」
そう言って、真田は柳の横を通り過ぎ、コートへと戻って行く。
図書館を回る内に気持ちが落ち着いたのか、声は穏やかになっている。
「困った奴らだ。仲良くしろ」
柳の独り言は、北風の中へ掻き消えた。
柳サイド目指しました。
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