夢の中に漂う意識を、オーケストラの心地よい音色が覚まさせてくれる。
ゆっくりと目を開ける柳生。身を起こしてクローゼットを開けた。
その横にかけられたカレンダーは新しく、一月のページが開かれている。
今日は新しい年が始まって、初めての登校日だ。
新しい年
家を出て、立海大付属行きのバスに乗る。
数回停まった停留所で、仁王が入って来た。
「仁王くん」
軽く手を上げて呼ぶが、返事は返って来ない。
「仁王くん」
近寄って肩に触れて、やっと気付いてくれる。
「おお、柳生」
ふわあ。振り向いた仁王は大欠伸をした。正月をどう過ごしていたのか粗方想像できる。
「あけましておめでとうございます」
うやうやしく新年の挨拶をする柳生。
「ん、ああ。おはようさん」
仁王はかくかくと頷く。柳生のテンションについていけないらしい。
彼は相当眠いらしく、危うく乗り過ごしかけて柳生が引っ張っていった。
学校に着いたらまず3Bに仁王を押し込め、それから自分のクラス3Aに入る柳生。
同じクラスの真田は既に席に着いていた。
「真田くん、あけましておめでとうございます」
「おお。あけましておめでとう」
仁王があの様子だったので、やっとまともに挨拶をしてくれた気がする。
しばらくすると教師が来てチャイムが鳴り、本格的な新学期が始まった。
とはいっても、今日は登校日ぐらいのもので大したものは無い。午前中に終わってしまう。その上、部活もないので午後は時間が空いている。
帰っていくクラスメイトたちに混じり、柳生も席を立った。
「柳生」
扉の前で真田が呼び止める。
「この後、丸井たちと昼食を食べる約束をしている。柳生も行かないか」
「ごめんなさい。今日は予定があるんです」
「そうか。じゃあまたな」
「はい」
柳生は頭を下げて真田と別れた。
玄関へ向かい、廊下を通って階段を下りていくと幸村と柳に出会う。
「柳生。この後、俺たち買い物するんだ。一緒に来ないかい?」
「ごめんなさい。今日は……」
「では、今度空いたら行こう」
「はい」
柳生はまた頭を下げた。
二回連続で仲間の誘いを断ってしまった。相手もたまたま会ったから声をかけてくれたと思うのだが、申し訳ない気持ちが積もっていく。今日の午後は予定がある。どうしても外したくはない用事がある。
皆さん、ごめんなさい。
心の内で詫びながら、はやる気持ちが歩調を速める。
玄関で靴を履いて外に出れば、今度は校門前で切原と浦山に出会ってしまう。
「柳生先輩、お帰りですか?」
「はい」
何か誘われるのではないか。二度ある事は三度あるというので、つい構えた。
「ではごきけんよう〜」
切原が手を振ると、浦山も振る。
「ごきげんよう……」
つられて挨拶を返し、二人を抜かしていった。
柳生が見えなくなった後で切原はぽつりと呟く。
「ありゃデートだな」
「デートでヤンスか。羨ましいでヤンス」
「相手誰だろうなー。ちっくしょ、午後暇だ」
地面を蹴る切原に、丸井と桑原の呼ぶ声が聞こえた。
学校を出た柳生は家へは帰らず、駅に行って電車に乗った。行き先は東京方面である。
切原の予想は大方当たっていた。柳生は想いを寄せる人物に会いに向かっている。デートと呼べるものになれば喜ばしい限りだが、まだわからない。
昼間の電車は空いており、楽に座る事が出来る。ゆっくりとくつろげるのに、心はどこか落ち着かず、駅の表示ばかりを見てしまっていた。
東京へ着くと、改札を抜けて待ち合わせ場所に向かう。見知った影を見つけて、思わず声が漏れた。
「あ」
前に出て姿を見せると、相手も同じような顔をして声を上げる。
「あっ」
「桜井くん」
出会えた喜びを胸に、名前を呼んだ。
待ち合わせていた人物は桜井雅也。不動峰中の二年だ。
「今年、初めてですね。あけましておめでとうございます」
「はい。おめでとうございます」
“あけまして”が抜けてしまい、言った後で付け足す。
「では行きましょうか」
「はい」
二人は並んで歩き出した。
「去年は多くの事がありました……」
呟くように、柳生は去年の思い出を語る。
「君と出会って、君と試合をして、君と話をして……。今年はその、君ともっと仲良くなりたい」
「は、はぁ」
見上げる桜井の頬は上気している。駅前でこの人はなんて事を言うんだろうという、恥ずかしさと呆れが混じっていた。しかし、だからといって嫌いではない。
「俺は去年、皆で誓った全国に行けた。貴方に出会って、力不足を痛感した。貴方は俺に、夢の先を見せてくれました」
「来年。私はいませんけど、切原くんはやってくれる子でしょうから覚悟していてくださいね」
「どっちでしょう」
桜井が挑発すると、二人は揃って息を吹き、喉で笑う。
たとえ二人の関係が対戦相手から、深い仲に変わったとしても、テニスプレイヤーである事には変わりない。しかし、包む空気は穏やかで柔らかい。
「ねえ柳生さん。さっきの事ですけど」
「はい?」
「俺と出会って、試合をしてって。好きになったのって何時なんですか」
「え!」
柳生ははじかれたように桜井を見る。声が通ってしまい、慌てて口を押さえた。
「言ってませんでした?」
囁くように問う。
「忘れたので、もう一度言ってください」
桜井は笑ってお願いをする。
「私も忘れました」
「は?」
「もうあまり思い出せないのですよ……君を好きじゃない私なんて。君を記憶から切り離せない」
「はあ……」
なんとなく頬を掻く桜井。からかいも入っていたのに、随分と恥ずかしい答えが返ってきたものだ。
「ええと……植物園でしたっけ」
桜井は話題を逸らし、今日の行き先を確認した。
「はい。行ってみたくて」
「俺も初めてなので興味あります」
頬に手をあて、熱くなった温度を冷まそうとしている。
「桜井くん」
「え、はい」
「私も君に聞きたい。私を好きになったのって」
「今みたいな時です」
言葉を遮って告げた。
「そう、ですか」
丁度、信号が赤になって二人は立ち止まる。
気恥ずかしい気持ちを抱えて立ち尽くすのは、余計にやり場がわからずもどかしい。
だが、相手もそうなのだと思えば、愛おしい時間に変わっていく。
青に変わり、踏み出す瞬間を心待ちにしていた。
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