最悪の日
ガラスを打ち、流れる雨の音の中に聞こえる、部屋の壁掛け時計が時を刻む音。
佐伯は塞ぐように布団を被り、潜り込んだ。
今日は平日で、佐伯は熱を出して学校を休んだ。
家族は抜けられない用事があって家を出ている。
テストも近く、学校では重要な範囲を教えているのだろう。
雨は昨日の夜からずっと降っており、じめじめと湿気が気持ち悪い。
嫌な日であった。
暑くなったので布団から顔を出して時計を見る。針は学校の終わる時間を指していた。
佐伯は面白く無さそうに、顔をしかめた。
ただの嫌な日ではない、今日は最悪の日であった。
熱により、ぼうっとした視界と頭で、時計を見たまま時間は過ぎて行く。
ふとインターホンの音が聞こえて、佐伯は面倒くさそうにベッドから降りる。出られる人間は自分しかいない。
「誰だよ………」
気管の具合が悪く、掠れた声でぼやいた。上着を纏って、部屋を出る。
裸足の足でペタペタと廊下を歩き、ドア越しからレンズで訪問者を覗く。
「えっ」
声を上げて、慌ててドアを開けた。
「こんにちはサエ、具合はどうなのね?」
そこには樹が立っており、優しく佐伯を気遣う言葉をかける。学校帰りにそのまま来たようで、制服を着ていた。
「え、え?樹ちゃんっ?どうしたの一体?」
佐伯は驚いて、動揺するばかりであった。
「どうって、お見舞いですよ?果物持って来たのねー」
林檎の入ったビニールを持ち上げて、佐伯に見せる。
「でも……!」
「でも?」
「ご、ごめん………入って」
中に入れようと開いたドアは、思わず力が入り、大きな音を立てた。
「お邪魔します」
靴を脱いで、樹は家の中へ入った。
「あれ?サエだけなのね?」
「あ!ああ、うん、俺だけ。林檎持つよ」
「風邪ひきさんは何もしなくて良いのね。キッチンの方へ置かせてもらいます」
何度も家へ遊びに行っているので、部屋の構造は知っており、まっすぐキッチンへと向かう。そんな樹の横に並んで佐伯は付いて行く。
「寝ていた方が良いのね」
「ちょっと動きたい気分だし」
「ずっと寝てたんですか?」
「そうだけど?」
「寝癖立ってますよ」
「ああ」
樹に言われ、佐伯は撫でるように寝癖を直した。
「ご飯食べました?」
「うん、簡単に。あんまり食欲無くてさ」
「それでも食べた方が良いのよ」
「林檎、良い匂いするね。さっそく食べたいよ」
「じゃあ切ってあげます。サエはええと………」
「ここで良いよ」
キッチンへ着くと、佐伯は側にあった木の椅子に腰をかけ、樹は袋を置いて、中から取り出した林檎を流しで洗う。
「そこ冷えませんか?」
「これぐらいが涼しくて良いよ」
上着の胸元を締めた。幼馴染みといえども、パジャマ姿は恥ずかしいものがある。
「皮はついていた方が良いですか?」
「うん」
背を向けたまま、樹は林檎を切り始めた。
サクッ。
サクッ。
新鮮な音がキッチンを包み、甘い香りが強くなる。
「そうそう、サエのクラスの子からノートを預かって来ましたよ」
「ありがと」
「雨が多くて、今日は大変ね」
「はは」
樹が振り返ると、手には食べやすい大きさに分けられた林檎とフォークが皿に乗っていた。
「どうぞ、召し上がれ」
ことん。
テーブルに皿を置く。
「頂きます」
椅子を引いて、フォークを取ろうと手を伸ばす。
「どうぞ」
ひょい、と樹にフォークを取られ、林檎を刺して差し出される。
「あ…………………」
気恥ずかしく視線を僅かに逸らして、好意を受け取った。口の中へ入った林檎は染み渡るように甘い。
「美味しいですか?」
樹の問いに、笑顔で頷いた。
「それは良かったのね」
「樹ちゃんも食べてごらんよ。美味しいよ」
持ったフォークで林檎を一つ刺して口の中へ入れ、佐伯と同じように微笑んだ。
「ね?」
佐伯はもう一つのフォークを取って、2つ目を食べる。
しばし無言で林檎を食べていたが、佐伯が沈黙を破るように口を開いた。
「ねえ……………樹ちゃん」
「はい?」
「……………………………」
名を呼んだものの、黙り込んでしまう。
「どうしたのね?」
「ねえ……………どうして……………来てくれたの?」
「サエのお見舞いで来たのですよ?」
「うん………………………」
再び佐伯は口を閉ざしてしまう。ぎこちない笑みでテーブルを見つめて、口の中で林檎を何度も噛んだ。
そうじゃない。
そういう事を聞いたんじゃない。
今日の放課後、君は用事があるんじゃなかったのかい?
言い出せない言葉が胸の中で渦巻いた。
昨日、偶然聞いてしまった。
携帯電話で話す、樹の声を。
声だけでわかる。樹の嬉しそうな声だけでわかる。
青学のアイツなのだろう。
明日の約束をしていた。遊びにでも行くつもりなのだろう。
聞いてはいけない、聞きたくも無い、けれどずっと聞いてきた声だから、自然と耳の中へ入って来てしまう。
今日は放課後の時間が近付いてくるにつれ、胸が苦しくなっていった。
樹とアイツが楽しそうに会う様子が頭の中へ入ってくる。
自分には見せた事のない知らない樹の顔があるようで悲しかった。
煮え切らない、諦めの悪い想いを抱いて眠るはずであった。
なのに、そうなるはずだったのに、樹は来た。
「……………………………」
佐伯はずっとテーブルを見つめていた。林檎はとっくに飲み込んで、フォークを握り締める手の平に汗が滲んだ。
「サエ?」
「…………………樹ちゃん、今日………………用事あるんじゃなかったの?」
「ええ?」
「ごめんね、聞いちゃったんだ」
間を空けずに正直に言う。言い訳をされるのかと思うと怖かった。
「ああ………………」
顔を伏せていて樹の顔は見えないが、恐らく困っているだろう。
「気にしなくても良いのね。相手も納得してくれたのね」
相手。
樹は佐伯の前ではアイツの話をしなかった。たまに出るこの瞬間が、樹を一番遠く感じる時であった。
「でも」
「だから良いんですってば。サエは俺にとって、とても大事な人なのですよ?サエが困っていたら、俺は出来る限り力になりたいのね」
口癖のように、樹はいつも佐伯が大切だと言ってくれた。
佐伯も樹が大切であった。
お互いが大切に思いあうこと、何よりも誇らしかった。
アイツが現れるまで、その言葉に縛られている事に気がつかなかった。
同じ距離のまま、平行線のまま、一歩も動くことが出来ない。
もしも、俺がアイツと別れてくれって頼んだら、君は聞き入れてくれるのかな。
そうして、何も知らなかった頃に、何食わぬ顔で戻る事が出来るのかな。
「……………………………」
佐伯は額を手の甲で押さえて、込み上げてくるものを押さえ込む。
「サエ、どうしたのね?」
樹は席を立ち、佐伯の側へ寄った。
「ごめん、ちょっと熱が出て来たみたい」
「寝た方が良いのね」
心配そうに、佐伯を見下ろす。
「うん……………俺、気が滅入っているみたいだ」
座ったまま、佐伯は樹に抱きついた。
「ごめんね、しばらくこういさせて」
「サエ…………」
樹の手が佐伯の髪に触れる。優しさが、痛む胸に染みた。
私的にサエ樹は菊樹を通して片想いから抜け出すのを妄想しています。
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