唇を首の後ろに押し付け、彼は聞いてきた。
「ひょっとして怒ってる?」
樹は鼻で息を吐いて、返事をする。
運命の人>
2人の住んでいる場所の中間点の駅が、良く会っている場所であった。その駅の中にある、利用者のほとんど無い、割かし綺麗な洗面所の個室が、良く情事を交わす場所であった。
「いきなり会いたいなんて言うから来て見れば」
冷たいタイルの壁に張り付き、菊丸に背を向けて樹は小声で言う。人はほとんど来ないが通常の音量で話すのは気が引ける。
「だから会いたかったんだって」
裸の背骨に添って、口付けを下に向かって落として行く。
「やる事以外、考えていないんですか?」
「考えているよ、テニスの事だろ?勉強の事だろ?お前の喘いだ顔だろ?」
指折り数えて挙げてみせる。
「ほら」
「あー、じゃあ飯の事にする。それで良いだろ?」
「ちっとも良くないのね」
樹は向き直って、菊丸のシャツのボタンを慣れた手つきで手早くはずしていく。パチパチとプラスチックのはじく、刻みの良い音が響いた。
「練習の後だって言うのに、体力ありますね」
「愛の力かな」
「性欲でしょ」
嫌味の言葉はあっけらかんとした言葉で返され、今度は鋭く突っ込んでみせる。
「つれないね」
くくっと喉で笑って菊丸は言う。薄暗い固執の中で、白いシャツの間から裸の胸が覗く。しっとりと潤った、ほどよく筋肉のついた肌は、誘うように艶かしく浮かび上がった。
「誰のせいなのね」
口を尖らせる樹。その上半身は何も纏っておらず、制服のズボンのみの格好であった。彼の肌もぼんやりと浮かび上がり、色気を帯びていた。狭い空間の中で、2人の肌が息衝き、淡く映えていた。
向き合い、息がかかるほどに顔を近付かせたまま、2人しばし黙り込んだ。息を吸って吐く度に、相手の心臓が早鐘のように鳴っていると自惚れに溺れた想像をして、どう暴いてやろうかと企み合う。
「お前、カッコ良いと思って好きになったけれど、こんな奴だなんて思いもしなかったのね」
沈黙を破ったのは樹の方であった。僅かだが確かにある身長差から、見下ろすように眺めてくる。
「幻滅?」
瞳だけを動かして、問いかけてくる。
「どうでしょう」
長い瞬きをした。
「男を好きになった時点で俺にも非があるので、幻滅までは言わないでおきますよ」
「そりゃどうも」
口の端を上げて頭を振るう。一歩歩み寄り、肩口に顔を埋めて、胸と胸とを合わせた。
「すっげえ鳴ってる。お前だってやりたかったんじゃん」
「菊丸といる時は、いつも心臓は鳴りっぱなしですよ?」
表情を変えずに淡々と答えられるが、言われた方は顔が熱くなってしまう。
「今日は覚悟しておけよ」
赤い顔のまま、強気に言ってみせる。
「覚悟されたいものですね」
菊丸の顔を上げさせ、その頬に短い口付けを落とす。不意打ちを食らった部分を手の甲で拭い、菊丸は樹のベルトのバックルに手をかけた。
「そういえば」
指の腹が菊丸の手に置かれ、線を描くようになぞられる。
「菊丸は俺が本当に初めてだったのね?」
「そうだって、言わなかった?」
「青学のレギュラーって特別のジャージがあるくらい、凄いものなんでしょう?モテてもおかしくないのね」
「俺はおかしいって言いたいの?」
早口で答えて、睨むように見上げた。
「違いますよ。怒らないで下さいね。青学での菊丸の姿、知らないから聞きたくなっただけなのね」
「まぁテニスばっかりやってたし、興味はあったけど、時間なんて無かったしな。でもそういうのは言い訳に過ぎなかったんだな。会おうと思えば、いくらでも時間なんて割けるもんだった」
同意を求める視線を送り、彼は続ける。今こうして2人は出会っている。
「樹、お前はどうなのよ」
「んー?」
はぐらかそうと、素知らぬフリをした。
樹は菊丸が初めての相手では無く、その事を彼は知っているが、それ以上の事は何も話していない。ときどき隙を見つけては聞いてくるのだ。
「俺は、気になるよ」
「知ってどうするのね」
「どうもしねえけど」
どう言えばいいのかわからず、一人苛立ち、バックルを掴んだ手がだらんと垂れた。
「だってお前、俺に不満そうだからさ」
言ってしまった後で後悔する。何を一人、いじけているのだろう。
「俺、心底惚れこんだのは菊丸が初めてなのね。それじゃ駄目ですか?」
樹も樹で後悔をしていた。あのような事を聞いたのは、別の理由があった。服は脱いだものの、疲れもあって体を重ねたくはなく、時間を稼いで遅くなったからと、帰ってしまいたかったのだ。自分も十分勝手で、突然呼び出した菊丸の事は言えない。
「駄目じゃにゃいよ。お前が良ければ良いんだし」
「菊丸、お前はどうなのね」
「俺?俺はお前が良ければ良いって言ったろ。だから良いんだよ」
菊丸は手で腕を擦った。室内とはいえ、脱ぎかけのままでいれば体も冷えてしまう。
「寒い」
樹に抱きついて呟く。
「そろそろ再開しますか?」
「だな」
わざと音がするように、2人口付けた。
「お前さ、時間稼ぎしてたろ」
「バレました?」
「俺を誰だと思ってんのよ」
にやりと笑って、もう一度口付けた。
体を重ねて愛を囁けば、冷えた体に血潮が走る。燃え上がるように熱くなり、性急に体を求めた。ああ、恋をしているのだと思った。わからない事も、知りたい事も、不安な事もたくさんあるかもしれない。しかし、今目に映る人が、運命の人と思う事に後悔は無かった。
ときどきピリピリした雰囲気になるけれど、相思相愛の2人みたいな感じで。
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