彼には内緒
【 1 】



 それは、2人で遊びに行った帰り、体の芯まで冷える冬の日の事であった。
「菊丸。しばらく会わない事にするのね」
「は?」
 突然の言葉に、菊丸はぽかんと口を開けて硬直してしまう。
「俺、何か悪い事した?」
「そうじゃなくて、受験なのね。そろそろ本腰入れないと」
「ああ」
 前髪を指先で除けて、息を吐くように返事をした。青春学園は私立で、高校もエスカレーターな為か、受験というものに疎く、樹が言ってくれるまで気が付かなかった。
「ごめんね」
「謝るなって。俺の方こそわからなくて」
 俯く樹の顔を上げさせる。
「まぁ、あれだ。頑張れよ」
「頑張るのね」
 笑みを交わして、別れの言葉を言う所なのだが、名残惜しくて時間を置いてしまう。


「浮気すんなよ」
 菊丸は大きな瞳で下から樹の顔を覗き込み、念を押すように見つめてきた。
「それは俺のセリフなんですけど」
 ジト目になって樹は言い返す。
「なんで俺が浮気すんだよ」
「あら?俺だけをずっと想っていてくれるのね?嬉しいのね〜」
「なっ」
 湯気が出るように、菊丸の顔が赤く染まる。
「えっと、そういうんじゃなくて、えっと、そういう……」
 照れ隠しの言い訳も、何を言えば良いのかわからない。同じ言葉を繰り返してしまう。
 そんな菊丸の姿を見ていた樹の頬にも、寒さとは別の赤みが差した。腕を後ろへ組んで、一歩大股に菊丸の方へ近付く。顔を突き出し、頬同士を擦りあわせて、耳元に熱い息を吹きかけた。


「愛してますよ」
 唇だけを動かし、愛を囁く。


 菊丸はくすぐったそうに樹の顔に手を添えた。離そうとするフリをして、流れるように自分の正面に動かし、噛み付くように口を開け、唇を奪った。唇を合わせたまま、時が止まったかのように動かず、樹の体も動かせさせない。窒息寸前の、長い口付けであった。
「はっ」
「……はぁ」
 引き剥がすように顔を離した。吐かれた息が白く染まる。
 軽く手を上げて、2人は別れた。
 この時は、将来に関わる事なのだから仕方が無いと諦められ、寂しさという感情は薄かったかもしれない。








「さあ、締まって行こうか!」
 早朝、青い空に向かって菊丸は声を張り上げ、後輩達に活を入れる。名目上、3年生は引退をしているが、後輩指導の為に部活に顔を出していた。
「英二先輩、元気良いっスねぇ」
「朝はテンション低かった奴なのにね」
 桃城と不二は顔を合わせ、彼の様子について話し合う。そんな彼らに笑顔を送り、菊丸はベンチに腰掛けた。
「英二」
 大石が後ろから声をかけ、跨ぐように隣へ座る。
「汗、冷えるぞ」
「サンキュ」
 タオルを渡されて、顔を覆うように当てて汗を吸収させる。
「…………大丈夫か?」
 囁くように気遣われ、何事かと菊丸はタオルから顔を離し、大石を見た。
「何?すこぶる元気だけど?」
 大きな瞳をパチクリさせてみせる。
「英二」
 菊丸の目を真っ直ぐに見つめ、もう一度名を呼ぶ。
「だから元気だって」
「…………」
 はぁ。大石は溜め息を吐く。


「あのな。俺達どれだけの付き合いがあると思っているんだ。樹く………」
 樹の名を出しかけたまま、大石の口の動きが止まった。菊丸の顔が、空に雲が通り過ぎるように、さっと暗くなった。
「なに?」
 大きな瞳をパチクリさせてみせる。
 彼は気付いていないのだ。感情が表に出ている事を。どれだけ寂しい顔をしているかというのを。
 頭の中には大石の声で“樹”という名がぐるぐると回っていた。回り続け、それは次第に樹の声に変わり、思い出と共に言葉が蘇ってくる。どっと寂しさが襲い掛かり、タオルで目許を隠した。
「俺、ちょっと顔洗ってくるわ」
 菊丸は立ち上がり、足早にベンチを離れる。背中に大石の視線を感じた。このパートナーが何を言いたいのかはわかっていた。きっと心配しているのだろう。だが、振り返る事も、口を開く事も、今は出来そうに無かった。




 水飲み場へついて、蛇口を上に向け、浴びるように顔を洗う。濡らした後、おもむろに顔を上げて、流れゆく水の様子を見下ろした。髪の先から滴り落ちる水も気にせず、見つめていた。
 あの日、樹と別れて一週間が経つ。あっという間なのか、まだそれしか経っていないのか、頭の中は樹の事ばかりであった。会いたい、すぐにでも会いたい、そして抱き締めさせて欲しい、そのまま抱かせて欲しい、愚痴も言いたい、文句も言いたい、顔は合わせなくても良い、声だけでも良い、何らかのコンタクトを取りたくて仕方が無かった。今までこんなに思いつめることは無かっただろう。きっと会わないと決めてしまったから、無いものねだりのように会いたいと思うようになったのだ。自己暗示のように、そう思い込む事にした。そう思い込まねばならなかった。
 でなければ、こんなにもボロボロになる自分があまりにも情けない。こんなにも樹を想い続ける自分があまりにもカッコ悪い。心の中は見栄ばかりであった。見栄がなければ、この想いはあまりにも純粋で繊細で一途で、性に合わず、恥ずかしいものであった。
「…………」
 菊丸は口を僅かに開いた。頬を伝った水が入ってくる。
 声は出さなかったが、心の中で樹の名を呼んだ。


 恋に落ちて、まだ一年も過ぎていなかった。
 いつから、溺れるほど愛するようになったのだろうか。
 すぐには思い出せないほど、彼といた時間は短くも煌いていた。
 眩しくて、綺麗で、自分の変化など、霞んで見えはしなかった。







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