ずるい人



「は?今……何て…?」
 樹の携帯を持つ手に力がこもる。言葉を口に出した後、一人きりの自室の中が、さらに静まり返るような感覚を覚えた。姿勢を正し、神経を耳に、スピーカーの先へ集中させる。


 電話の相手は菊丸であった。
 今、彼の声で、スピーカーの向こうから


 今、お前んとこの駅にいる。


 そう聞こえてきたのだ。


 視線は自然と窓の外の空へ向けられていた。
 燃えるように赤い夕日が闇の中へ溶け込もうとしている。


『なあ、会えないかな』


 集中しているのに、聞き取りづらい。
 駅の雑踏のせいか、声の音量を控えているのか、聞き違えのないように、頭の中で整理をしていく。


 あんな場所まで来ておいて、会えないかな、は無いだろう。
 これで断ったら人非人に認定だろう。ずるい頼み方をしてくるものだ。
 樹はいらつきを感じる。
 先日誘おうとして、断ってきたのに。
 だが、怒る気にはなれなかった。
 あの時も、今も、菊丸の様子はおかしかった。


 すう。
 息を吸う音が耳に届く。


『………すげえ………会いたいの……』
 掠れたような、搾り出すような、辛そうな声であった。
 彼はつくづく自分に正直な人間だと思う。
 すがる時には徹底的にすがる。表情も声も感情がそのまま表に出る。
 羨ましくも憎らしい、そして愛しい部分であった。


「行きますから、ちょっと待っていて欲しいのね」
 出来るだけ優しく言ってみせる。断れるわけが無い。








 数分後、駅で落ち合って、近くの公園のベンチで話を聞く事にした。
 菊丸とは恋人といえども、大会があるので合同合宿以来会ってはいなかったが、一目見て、僅かの間に変わったと感じる。具体的にどこがどうなったかは、説明し辛いが。
 座ったきり、二人は沈黙のまま景色を眺めていた。せみの鳴き声が遠くの方で聞こえる。日はとっくに沈み、チカチカ音のする電灯がぼんやりと照らした。横目で盗み見た菊丸の横顔が、酷く疲れているように見えた。


「調子はどうですか?」
 沈黙を破ったのは樹の方であった。当たり障りの無い話題を出してみる。
「うん…………今、特訓してる」
 ぼそりと、菊丸は呟いた。
「また、俺達当たると良いですね、今度は黄金ペアでしょうか」
「うん…………」
 気の無い返事が返ってきた。
 自分から呼んでおいて、なんて態度だろう。一言言ってやろうと思ったが“ごめん”と、詫びの言葉が返ってきたので、言わずに口を閉ざした。


「大石と喧嘩でもしました?」
「………………」
 大石の名を出すと、菊丸が驚いたように樹の方を振り向いた。


「あ、図星」
「………………」
 樹が目を合わせてくると、逃げるように視線を逸らす。


「仲直りした方が、お互いの為なのね」
「わぁってるよ」
 俯いた菊丸は靴で地面の土をいじった。
「付き合って見てからわかりましたけど、お前結構ネクラですよね。根に持ったりうじうじするの、損じゃないですか?」
「わぁってるよ」
「大石が悪い奴じゃないくらい、わかっているじゃないですか」
「あーもー!わかってんの!」
 ガツッ。
 菊丸の地面を踏みつけた靴が音を立てる。


「何でもわかったような言い方すんなよ!」
 声を上げるが、顔は下へ向いたままであった。
「菊丸が何も言って来ないからじゃないですか」
「だから…!」
「お前の事わからないだらけですけど、知ろうとしているんですよ。じゃなきゃ来ないですよ。心配なんかしませんよ」
 言いたい言葉に一本の線が引かれるように、素早く捲くし立ててしまう。
「悪ぃ、当たっちゃって」
 はー。
 息を吐いて、菊丸はベンチの背もたれに背をつけ、伸びをする。




「なんかさ………疲れちゃった」
 ぼそりと、菊丸は呟いた。
「お前に会ったら、大丈夫って思えるって」
 ごろりと、菊丸は首を動かして樹を見つめた。その目はとろんとして、最初に感じた通り、疲労の色を示していた。


「大丈夫になりました?」
「少し」
「理由は教えてくれないんですよね」
「ごめん」
「本当、ずるい人なのね」
 樹はため息を吐いた。呆れたような、安心したような、自分でも胸中はわからない。




「なあ」
 身を起こし、体ごと樹の方へ向けた。手を突くと、木製のベンチがギッと鳴る。


「抱きしめて」
 倒れこむように、樹の胸に顔を埋めた。


「抱きしめて」
 くぐもった声でもう一度言う。樹は菊丸の背に手を伸ばし、体を引き寄せた。
 擦り寄るように顔を耳に近づけ、唇が僅かに触れる。


「…………しますか?」
 樹の問いに、菊丸は首を横に振った。布擦れの音がダイレクトに響く。


「ちょっと、泣く」
 そう言って菊丸は黙り込んだ。顔は見えず、声は出していなかったので、泣いているのかはわからない。だが、夏の薄着に温かいものが染みていくような感触がする。甘苦い熱が、胸の奥深くへ浸透していく。


 いつの間にか夜空に浮かび上がった星の瞬きが、涙のように見えた。







特訓中の菊丸が辛そうに見えて、大石には助けを求められないし、樹ちゃんにちょっとだけすがるのも良いかなと思いまして。
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