「樹ちゃん、俺に何の用?」
「ああ、そうでした」
樹は一息間を空ける。
「サエ、青学との試合、面白かったですね」
「うん」
頷いてみたものの、なぜいきなりこんな話を樹がしてくるのか、わからない。
「ほら、あの、菊丸のアクロバティックプレイ、あれ凄いのね」
「ああ、凄かったね。あれはさすがに真似出来ないよ」
「カッコ良いですよね」
佐伯が返事をする前に、樹は続けた。
「俺がこう思っている事は、誰にも話さないで、内緒でいて欲しいのね」
人差し指を口元へ持ってきて"内緒"の合図をする。
「言いたくてたまらなかったんですけど、言い辛くて。サエにだけ、言いたいなと思いまして」
「なんで?」
きょとんとした顔で、佐伯は問う。
「何となくですけど」
「だから、なんで?」
「俺の真似なのね?」
「そういう訳じゃ、ないんだけど」
「何となく、ですから」
佐伯が言いたい事はわかる。答えないのは、自分でも良くわからないからだ。
菊丸はカッコ良い。ただそう思っただけの事。だが少し具合が違う気がした。そのままの事を口に出してはいけない気がした。何となく、そんな感じがした。もやもやとした感情が胸に渦巻く。何となく、正体の当てはついているが、言っても良いのだろうかと迷う。
きょとんとしたままの、佐伯の視線が刺さる。言うなら今しかないのかと心が急かす。
「好きみたいです」
率直に言ってしまった。
「そうなんだ」
「気持ち悪いですよね」
「なんで?」
「んー、あー………そうですよね」
適当な返事で受け流した。佐伯は気付かなかったようだ。もしかすると、likeではなくloveかもしれないと言う意味で、あんな事を言ったのを。このまま知られない方がいいかもしれない、でも念の為にと余計な事を言ってしまう。
「ほらああいう事ありましたけど、俺別にその時はそんな気無かったですから」
「何の事?」
「去年の合宿の、ほら」
ただの悪乗りだったが、口に出すのは妙に照れ臭いものがあった。
「へ?」
「あー………何でもないですよ」
樹はぱたぱたと手を振った。どうやら佐伯は忘れてしまったようだ。
そもそも、何で覚えているのかも不思議なくらいだ。なぜあの事を言おうとしたのか、数秒前の自分の心理がわからない。
「悪かったのね、ごちゃごちゃ話してしまって。じゃあ俺、帰ります」
そう言って、この場を去ろうと鞄に触れる。
「急ぐの?」
「急ぎませんよ」
「じゃあ一緒に帰ろ。寂しいよ。ちょっと待ってて、すぐ終えるから」
「そうですね。サエは大変ですものね」
「そうだよ。明日こそは剣太郎に任せるぞ」
「頑張って下さいね」
樹は鞄から手を離し、佐伯の仕事が終わるのを待った。待つ間、話そうとしていた“あの事”を思い出す。
あれは去年の合宿の事であった。何があったのかは不明だが、その年の宿舎は大部屋ではなく個室で眠る事になった。一人一部屋という訳ではなく、樹は佐伯と一緒の部屋に割り当てられた。他の部屋に遊びに行っても良かったのだが、なぜだかその日はかったるく、布団に潜って佐伯とそんな事ばかりをぼやいていた気がする。
しかしせっかくの合宿、このまま眠るのは惜しい。部屋を出ずして何かをしようという、横着な方向へと考えが向いていった。かといって特に良い案も無く、何となく密着したり、じゃれあってみた。それから何がどうしてああなったのかはわからない。悪乗りだった。服の中に手を入れて弄り合ったり、顔を寄せて、仕舞いには口を付けた気がする。
よくわからない内に始まり、よくわからない内に終えたあの行為、今思えば性的な行為だったのかもしれない。だが去年のそれと、今菊丸に抱く感情は繋がらない。
別に言い訳をするつもりはないが、あの時はそんな気はなかった。
あれはただの戯れ。悪乗りだった。
だからといって事実は事実で、認める事は認める。ただ、気が無かった事だけは確かだと言いたい。
佐伯も忘れてしまったような些細な事。そんな話を今更出して、一体何のつもりなのだろうと自問する。
菊丸が好きかもしれない。何かが自分の中で変わって来ている。それを伝えたかっただけなのか。何が何だかわからない。菊丸に興味を持ち出してから、ずっと頭の中はごちゃごちゃしていた。
「……………………」
ペンを止め、佐伯はそっと樹を見た。壁に寄りかかって、俯いたまま固まっている。何か考え事をしているようであった。
樹には言わなかったが、菊丸に興味を持っても良い事は無いと思った。特に根拠は無いが、捻くれたそんな言葉が脳裏を過ぎった。意地悪を言ってやりたくなったのだ。面白くなかったのだ。なぜそんな事を思ったのかはわからない。胸の辺りが落ち着かない。
樹の“好き”という言葉が昔から苦手だった気がする。彼が口に出す度に、温かくなったり、ひやっとしたり、心が穏やかではなくなるからだ。
好きみたいです。
先ほどの樹の言葉が耳から離れない。頭の中がごちゃごちゃした。