薄暗い部屋の中、2人の息遣いが響く。その音に紛れて立てる、布摩れの音。
「あの、菊丸」
「なに?」
 熱っぽい瞳で、真っ直ぐに見つめてくる菊丸に、樹は視線を逸らした。
「ほどほどに、して欲しいのね」
「なんで?」
「あの、わかっているんですか」
 低く呻いて、体勢を変える。



キスがしたい



 ここはミーティング室。関東ジュニアオープンへ向けて、2人は同じチームとして組み、練習の為にやって来ているのだ。他のメンバーは黒羽と桃城がいる。リーダーは黒羽であった。


「少し早めに来ていても、時間もそんなには無いし、練習に支障が出たらどうするんですか」
 部屋に着くなり、明かりも付けずに組み敷かれ、このまま貪り尽くされないか、樹は菊丸の考えの無さに、呆れ返っていた。
「あー、大丈夫、大丈夫だっての」
 樹の話を右耳から左耳へ通して、肌蹴た鎖骨の溝に、口付けを落とす。
「聞いてるんですか」
 額を押さえつけて、頭を上げさせる。
「あのね、良く聞いて欲しいのね。俺達怪しまれてますから。同じ学校で同じ練習の場所へ行くのに、別々に行くの、めちゃくちゃ怪しいですから」
「俺と桃は別学年だし、そんなに…」
「俺とバネは同じ学年なんですよ。言い訳、苦しいんですよ」
「まぁ、そこら辺は上手くやっといて」
「………………………」
 ぶん殴ってやりたい衝動に駆られた。
「ほら、お喋りしてると時間が無くなっちまう」
 顔を寄せ、耳元で優しく囁かれる。どきりと、鼓動が高鳴るのを感じた。
「なっ?」
 菊丸は甘え上手な上、惚れた弱みか、こうしてお願いをされると何も言い返せなくなってしまう。胸はドクドクと鳴り続ける。いつもそうだった。彼といると、胸の高鳴りが治まらない。


「………………………」
 樹が黙り込んでいると、菊丸はつぐんだままの唇に、自分のそれを押し付けてきた。
「………………………」
「………………………」
「…んんっ」
 苦しくなってきて、逃れようと肩を押した。すると脇の下から手が回ってきて、抱きすくめられる。唇を解放され、交差する瞳と瞳。一瞬の間。結局何も言わないまま、また口付けを交わす。今度は互いの肩口に顔を埋めて、首元を吸い付けた。痕が残らないように。甘く、焦らすように。菊丸がきつめに吸い付けてきて、樹は驚き、慌てて引き剥がそうとする。顔を上げる彼の口元は笑っていて、からかわれたようだった。
「焦った?」
「当然」
 ムッとなる顔を覗き込まれる。怒らせるのを楽しむように、覗き込んでくるのだ。
「もっと焦らせてやろうか」
 そう言って、ハーフパンツに手を引っ掛ける。
「ちょっと」
 手を上から掴んで、離そうとした。
「良いから」
 いやらしそうな笑みを浮かべる。
「いけません」
「良いからよ」
「だから…」
 言い合う下では、手を絡ませ合う攻防が繰り広げられていた。


「英二先輩」
「はーい?」
 名を呼ばれ、つい反応してしまう。


「「………………………」」
 菊丸と樹の心臓が、底冷えるように大きく脈打つ。


 声のした方、ドアの方を見ると、桃城が立っていた。
 体温が上下繰り返し、冷や汗が溢れ出る。口からは凄い勢いで、言い訳の言葉を喚いてしまう。もはや何が何だかわからない。
「あ、こ、これはだな……」
「菊丸がその……」
「俺のせいかよ」
「お前だって、な…」
 危うく痴話喧嘩に発展してしまいそうになるのを押さえ、強引に冷静になった菊丸が桃城に問う。
「桃、いつからそこにいた?」
「えーっと、英二先輩が焦っ…」
「ああっ、もういいっ」
「でも、昨日もしてましたよね」
「「はっ!?」」
「俺、お2人に相談したい事がありまして、悪いと思いつつも、お取り込み中に声をかけさせてもらいました」
 後ろ頭に手を置いて、桃城はへらっと笑う。
 一体どこまで知られているのか、これ以上問うのも恐ろしい。菊丸と樹はよろりと身を起こし、長机の側にある椅子に腰掛ける。放心状態で、桃城とは目を合わせづらい。その桃城は、向かい合わせに座った。




「で、相談って」
 机の木目に視線を落として、菊丸が口を開く。
「俺とバネさんは付き合っているんですが…それで……」
 待て。
 菊丸と樹はほぼ同時に手を突き出し、桃城に待ったをかける。
「付き合ってるんですがって、そこを詳しく」
「詳しくって英二先輩。俺とバネさんは付き合っているんですよ」
「…………………いつから?」
「練習の前からっス」
 思い返せば、菊丸は桃城、樹は黒羽にチームへと誘われた。
「桃と黒羽がねぇ…。いまいち想像出来ないよ。なぁ樹?」
「………………………」
「お前なんだよその目は、桃を疑っているのか?」
「だってバネなのね。桃城はわかりませんが、俺は信じられません」
「人のこと言えないけど、その……ショックだよな」
「はい、ショックです……」
 苦い顔で2人は頷き合う。


「その、相談なんですが」
 桃城は照れ臭そうに俯いた。
「俺、バネさんとキスがしたいんですっ」
「すりゃ良いじゃん」
 即答する菊丸の顔面に、樹の裏拳が炸裂する。
「お前、前は自分からちっともしてこなかったくせに、よくもそこまで棚に上げられますね」
「モロ鼻に入った…」
 鼻を押さえる菊丸。奥の方がツーンとした。
「付き合ってはいるんですけど、バネさんですから、どうもそういった雰囲気になり辛いんスよ」
 少し上を向き、想像する。桃城の言っている意味が、なんとなくわかった。
「一体、どのようなシチュエーションに持っていけば良いのか……ご教授お願いしますっ」
 そう言って頭を下げる。
「俺、桃城の事、見直しました。自分からなんとかしようなんて、偉いのね」
「い、いやぁ」
「俺の後輩だからよ」
「そこでしゃしゃり出てくる菊丸には出来た後輩ですねー」
「………………………」
 ぐうの音も出ない菊丸に、桃城は力関係を見たような気がした。


「そうですねー。バネは立たせて置くと、喋るか動くか落ち着きがない気がするのね。椅子か何かに座らせれば良いんじゃないですか?コートにベンチありますし、並んで座れますよ」
「なるほど。で、どうキスすれば良いですかね」
「えっと……」
 樹は口ごもる。さすがにそこまでのアドバイスは難しい。
「見本見せてください」
「はぁ?」
「英二先輩達、しょっちゅうやっているじゃないですか。ちょっとで良いですから、お願いしますっ」
 手を合わせてお願いをしてくる桃城。そんな所まで知られているのか、考えるのも恐ろしい。断る事もできず、ある意味脅しに近い。


「まず、こう並んで座ります」
 樹は膝に手を置いた。元から菊丸とは並んで座っているが、椅子の位置を揃えてくっつけて、座り直す。
「で、こう……」
 隣に座る菊丸の後ろに手を回そうとする。彼は小声で“ホントにやるのかよ”と、諦めの悪い一言を囁いた。
「すみません。俺とバネさん、身長差あるんで、英二先輩からする……という感じにしてくれませんか?」
「ち、ちょっと待てよ!そんなに変わんないし…!」
 立ち上がりそうな勢いで、菊丸が素っ頓狂な声を上げる。
「少しでも、近い感じに再現して欲しいんです」
 ほとんど嫌がらせのようだが、桃城は本気であった。
「無理!無理だって!こればっかりは!」
 オーバーリアクションで拒否をする菊丸。ただでさえ、人前で樹に好意を見せるのも照れてしまうのに、口付けなどとんでもない事であった。
「菊丸、俺からも頼むのね」
 笑いたい気持ちを抑えて、樹は桃城と共にお願いをする。たまには、こういった時ぐらいは、自分達の仲を見せ付けたくなる事もある。
「あーもー!一回だけだかんな!」
 ほとんど投げやりで、菊丸は素早く樹の唇に、ついばむような口付けをした。
 心のどこかで、誤魔化されると思っていたのかもしれない。本当にされて、顔が熱くなる。
「頬とかにやりません?」
 突っ込みは、照れ隠しであった。
「なるほど、スピード重視ですね!」
 桃城は拳を握る。参考になったようだ。




 それからしばらくして、3人でコートにいると、黒羽がやって来た。
「おう、皆早いな」
 何も知らない彼は、爽やかな笑みを浮かべる。練習が始めると、さっそく桃城が様々な理由を付けて、黒羽をベンチに座らせようとしていた。
「バネさん、リーダーなんですから、そこに座って指示を出して下さいよ」
「そういうのは性に合わないな。気持ちだけは受け取っておくよ」
 黒羽は桃城の髪の毛をくしゃくしゃとさせる。そんな2人が付き合っているなどとは、やはり信じられないものがあった。
「進展は難しそうだな」
「ですね」
 菊丸と樹は顔を見合わせる。じっと見つめてくる樹は、先程の事を思い出しているようで、菊丸は“そんなに見るな”と、視線を逸らした。







バネさん、微妙に遅刻かもしれない。
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