青学と六角の合同合宿。その夜の布団の並びは、菊丸と樹が隣同士であった。
事故
練習の疲れか、騒ぎ疲れたのか、寝室となっている大部屋は寝息のみが響いていた。
月明かりが、ふすまからうっすらと差し込んでいる。
「…………んん………」
低く呻いて、桃城が身を起こす。眠気まなこをこすって、よろけながら立ち上がった。寝ているメンバーを踏まないように、跨いで部屋を出て、洗面所へ向かった。用を足して戻ってくると、急に眠気が襲ってくる。欲求が先に出たのか、どうせ皆、寝相も悪いし、適当な場所で寝ても良いかと、思ってしまう。入り口近くの布団の間に入り、眠りについた。
その布団の間が丁度、菊丸と樹の間であった。桃城が横になった際に樹の肩にぶつかり、瞑っていた眼が薄く開く。
「ん…………う?」
ぼんやりとした意識の中で、樹は寝返りを打ち、その視線の先に愛しい人の口元が見えた気がした。
「…………菊丸……」
心を奪われた表情で、唇は闇の中でもくっきりと言葉を形作る。
「………菊丸」
瞳を閉じて、そのまま唇を押し付けた。
小さくも確かな水音が、静寂の中に振動する。
名残惜しそうに唇を離すと、そのまま眠りについてしまった。
夜が開け、朝の気持ちの良い日の光が、大部屋に差し込んだ。
「おはようございまーす」
伸びをするように桃城が身を起こす。
「あれ?桃城、なんでここに?」
目覚めた樹が、事態を把握できないでいる。桃城を挟んだ側にいる菊丸も、目をパチクリとさせていた。
「いやぁ、戻るのが面倒くさくて、ここで寝させてもらいました。すみません」
「……………桃城」
樹が怪訝そうな面持ちで桃城の名を呼ぶ。
「昨日の夜。俺、お前にキスしましたか?」
周りに聞こえないように、小さな声で問いかけた。
「「「はぁっ!?」」」
桃城と横で盗み聞きしていた菊丸、そして何故か遠くの方で雑談をしていた黒羽が、揃って声を上げる。
「お、おい、ちょっと…!どういう事なんだよ!」
四つんばいで菊丸が桃城の足を通って、樹に問い詰めようとする。
「樹ちゃん!一体どういう事なんだ!」
人を避けながら黒羽が飛んで来て、布団に手をついた。
「英二先輩こそどうしたんスか」
「バネ、どうしたのね」
きょとんとする2人に、菊丸と黒羽の顔が赤らんだ。
「い、いや、その……これはっ……」
「違うんだ」
「「で、どういう事なんだ!」」
誤魔化したいのか首を突っ込みたいのか、ちぐはぐであった。
「樹さんが何しても、俺は眠っていたのでわかりません」
桃城が寝癖ではねた髪をいじりながら言う。
「そうですか。俺も寝ぼけていたので、記憶が曖昧なのね。変な事言って悪かったです」
あははは。桃城と樹は顔を見合わせて笑った。
だが、黒羽と菊丸はジト目で、納得のいかない顔をしている。
「桃も樹も覚えがないだけで、したかもしれないんだろ」
しぶとく食いついてくる菊丸。その横で頷く黒羽。真相が相当、気になるのだろう。
「そうかもしれませんが、わからないのね」
「英二先輩、なんだかカリカリしてません?」
「…………………………」
菊丸は口を尖らせたまま黙り込む。このままではらちが明かない上に、樹との関係も感付かれてしまうかもしれない。
「樹、ちょっと来い」
「はい?」
立ち上がり、樹の手を引っ張って立ち上がらせようとする。
「いいから」
「乱暴しないで欲しいのね」
そのまま引っ張られて、2人は大部屋を出て行った。開けられた襖が、ぴしゃりと閉まる。
「…………………………」
取り残された桃城と黒羽は、閉められた襖をしばし眺めていた。
「桃城。本当の所、どうなんだ」
沈黙を破ったのは黒羽であった。普段の明るさを失い、どこか気抜けしているように見える。
「本当の所と言われても……」
「い、いや、悪かった。しつこかったよな」
桃城の口に黒羽の指が触れ、拭うようになぞられた。それはほんの一瞬の出来事で、周りの誰にも気付かれる事はなく、当の桃城も黒羽を目で追うしかできなかった。
「バネさん?」
「この話は終わりだ。じゃあな」
どっこらせと、わざとらしく声を出して立ち上がり、黒羽は元いた場所へ戻っていく。指が触れた唇に、桃城は自分で触れてみて、その指に視線を落とした。
ごそっ。樹の布団の、菊丸の方ではない、反対側の布団に眠っていた人物がようやっと身を起こす。
「あれ、皆起きてるよ」
欠伸をかみ殺し、眼をこするのは佐伯であった。
昨晩の布団の順番は菊丸、樹、佐伯の順だったのだ。
「今のうち、顔洗っておくか」
1人呟いて彼は立ち上がり、大部屋を出て行った。
水場へ着くと、まだ使用している者はなく、佐伯は蛇口を捻るといきなり冷や水を手で掬って顔に当てる。音を立てるように洗い、水を滴らせた顔を上げて鏡に映す。視線は口元ばかりを見つめていた。薄く開かれた唇を、閉じて、開いて、また閉じた。口元を見つめたまま、唇の上を指でゆっくりとなぞり、往復させる。
どくりと、心臓が高鳴るのを感じた。
昨晩の記憶が蘇り、また心臓が大きく脈打つ。
何か音が聞こえた気がして、重い瞼を開いてみれば、樹が寝返りを打ってこちらを見つめてきたのだ。佐伯もそうであったが、寝ぼけているのか樹の目は虚ろであった。しかし、どこかその瞳は熱っぽく、捕らえられたように目が離せず見入ってしまう。幼馴染でずっと傍にいて、たくさんの樹を見てきたはずなのに、こんな表情は今まで見たことは無かった。本当に愛しい人だけに向けるような、優しい、愛に満ちた表情。それが自分の方へ、真っ直ぐに向けられている。
どくり、どくりと、血潮が湧き、身体が熱くなっていくのを、確かではない意識の中で感じていた。
これは夢だと思いたかった。しかし、滲んでくる汗が現実だと教えてくれる。発せられた樹の言葉が現実だと教えてくれる。
「…………菊丸……」
さっと、血の気が引くのを感じた。だが、汗は滲み出るばかりであった。
樹は寝ぼけていた。菊丸を佐伯と勘違いしたのだ。愛を向けられているのは自分ではない。そう思っていても、彼の瞳から逃れる事は出来なかった。
「………菊丸」
瞳を閉じて、樹は佐伯の唇へ口付けをした。
静かだが、情熱的な口付け。全てを持っていかれそうになった。思考が停止し、頭の中の波が静まり、綺麗な水平線が描かれる。
その中で、ある疑問が浮かんだ。
菊丸は、いつも樹にこんな口付けをされているのか?
そう思った瞬間、なにか心の底から噴き出す嫌なものを感じた。
許せない、と。
思い返すのをやめ、蛇口を閉めると、大部屋とは反対方向の廊下の先から話し声が聞こえる。佐伯は足音を立てずに盗み見ると、菊丸の背が見えて、向かい合わせに樹がいるのが見えた。
菊丸は樹の肩を押さえて、もう一度問い詰める。
「なぁ、どうして桃にキスなんてしたんだよ。いけないんだぞ、いけないんだからな…」
責めているのに、だんだんと小さくなっていく声。たかが口付けごときでと思いたいはずなのに、心が追いつかず落ち込んでしまう。
「菊丸にしたと思っていたのですが、桃城がいたので、間違えたのかと思ったのね」
「俺?俺にしたの?」
顔をぐい、と近付けると樹は頷く。
「俺知らねーぞ」
「寝ていたんだから、当たり前なのね」
「そうだけど、知らねーし…」
煮え切らない菊丸を、樹は昨晩のような優しさに満ちた表情で見つめ、昨晩のように静かに唇を押し付けた。
「これで良いですか」
「…………………………」
何も答えず、樹を抱きしめる。
「わかんないけど、落ち着いた」
耳元に唇を寄せて、そっと囁く。顔を合わせる2人は、はにかんで、頬を染めていた。
「ずるい」
無意識に、佐伯は口からそんな言葉が呟かれる。
菊丸の背ぐらいしか見えないうえに、何を話しているのかは、ここからでは聞き取れない。だが、菊丸と樹がお互いに一線を越えた特別な関係だというのはわかった。薄々感付いてはいたが、こうして目で見たのは初めてだったのかもしれない。
昨日までの自分だったら、諦めかけていた想いにさらに追い討ちをかけられ、傷付くだけだっただろう。
だが今は、諦めかけていた想いに可能性を探し出そうとして、さらに燃え上がらせようとしている。嫉妬と、羨望と、独占したいという気持ちが、胸の中で渦巻いている。樹が欲しいと、改めて強く思った。
思いをめぐらせている中で、佐伯の指は何度も唇の上を往復させていた。
もう一度口付けがしたい。
もっと深い口付けがしたい。
樹の佐伯への口付けは、勘違いが起こした事故であった。
だがそのたった一度の口付けは、中毒性も秘めている皮肉な味をしていた。
うっかりなキス☆とか好きで申し訳ない。
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