好きだよ。
佐伯から、樹への告白。
曖昧な返事をして、逃げるようにその場を離れてから数日が経つ。
欠片
告白された次の日、樹は接し方に悩み、考え込んでしまっていたが、佐伯は普段と変わりなく挨拶を交わしてきた。その後交わした雑談も、他愛の無いもので、昨日の話題は上がらなかった。今まで通りの日常が続くのか。内心、長年築いてきた友情関係の崩壊も危惧していたので、樹は安心した。
無理に頭の中へ入れようとしなかったのか、数日後には告白の事は気にならなくなっていた。
そんなある日の放課後。佐伯と樹は後輩指導で引退したテニス部活へ出る事になった。久しぶりのテニスを楽しんだ後、後輩達の帰った部室で2人は着替えもせず、ついこの間までの部活の昔話を交わす。いつでもテニスは出来るが、高校へ入ったら馴染みの仲間でするのは難しくなる。いつでも会える。そう何度も心へ言い聞かせても、侘しくなるものであった。
「喉渇いたね」
手を団扇のように扇いで、佐伯が笑いかける。背中へ寄りかかり、息を吐く。佐伯も樹も、座らずに立ったままであった。
「スポーツドリンクなら、あったと思うのね」
樹は佐伯から離れ、鞄の元へ行くと、膝を曲げて中身を漁る。佐伯の視線は樹を追い、彼が屈むと視線も下の方へ向いた。袖の無いウェアから覗く、白い腕の滑らかな線までも追ってしまいそうになり、目の前を風が抜けるように視線を逸らす。
立ち上がり、樹が佐伯の方を向くと、また視線を彼の方へ向けた。手渡そうと、差し出されたペットボトルに、佐伯は言う。
「樹ちゃんも喉が渇いているんじゃない」
「じゃあ、カップに空けましょうか」
佐伯の横を通り、樹は食器の入れてある籠の方へ行く。
これが普段通りであったなら、回し飲みをしていたはずだ。
いくら変わらぬ振りをしてみせても、忘れたように思っていても、心のどこかで告白の言葉が影を落していた。ほんの僅かなひびでも水が浸食していくように。些細な溝で心が揺れる。
籠からカップを取り出してスポーツドリンクを交互に入れていく。蓋を閉め、籠の隣にペットボトルを置き、樹は佐伯にカップを渡そうと歩み寄る。
「俺が自分で取るのに」
やや困った顔で笑うが、嬉しそうに受け取ろうと手を伸ばす。一歩だけ、樹の方へ近付こうとした。ほんの、一歩だけ。その一歩の足が、何か固いものを踏んでしまう。バランスを崩し、前に、樹の方に倒れ込んでしまいそうになる。
押し倒してしまうかもしれない。大げさで、夢見がちな事が頭を過ぎる。佐伯は堪え、倒れはしなかったが、樹の身体を押してしまい、彼は尻餅をついてしまった。
ガシャン。カップの割れた音に、思わず2人は目を瞑る。立ち上がろうとする樹に、佐伯は手で制した。
「待って。欠片が落ちているから、動かないで」
「そうですね」
樹は頷き、床に落ちた欠片を見下ろす。彼は足を開いた姿で、片足の膝を立てて座り込んでいた。その立てた足の、ハーフパンツの下がった場所に見える太股から一筋の赤い線が引かれている。どうやら欠片で傷を付けてしまったようだ。何をどうしてあのような場所に傷を付けたのかわからない。咄嗟で、バランスを崩した瞬間に何かをしてしまったのかもしれない。もしかしたら、俺が傷つけてしまったのかもしれないと、佐伯は思う。一度思い始めたら、太股の傷から目が離せなくなっていた。次に、目を離せない場所が、際どい事に気が付き、顔が熱くなり、鼓動が高まっていく。
「樹ちゃん」
佐伯は欠片の無い場所に膝をつき、手をついて、四つん這いの格好になった。近付いて見てみれば、零したドリンクでハーフパンツと太股が僅かに濡れている。
「そこ、切っちゃってるよ」
「ああ」
佐伯は傷のある場所を指差し、樹は傷に気付く。
「痛くない?」
「痛くはないのね」
「本当?」
傷を指した指で、傷口をなぞった。太股が、ひくりと震える。その反応に、佐伯の脳裏から理性がじわじわと本能に侵食され、思考が普段からは考えもしない方向へと走行していく。
「サエ、痛い」
「ごめん」
指の腹に僅かに付いた血液を、指ごと口の中へ入れてしゃぶって落とす。
「痛かったよね」
太股を手で支え、顔を寄せて傷口を舐めた。
「サエ」
樹の声色に咎めが入る。だが、震えも混じっていた。
今度は傷口の下を、大きく線を引くように舌を這わせる。
「あ」
また、樹はひくりと震えた。吐かれる吐息に熱が篭る。
「くすぐったい?気持ち良い?」
佐伯は樹を見上げ、きょろりとした瞳が彼を捕らえる。
瞬きをした後太股に見つめ、ドリンクで濡れた場所を舐め取った。
「サエ、サエ…」
樹の抵抗はあまりにも弱々しい。佐伯の名をただ呼び続けるだけで、押し退けようとはしなかった。
「感じた?」
ちゅっ。傷口へ口付ける。彼ら以外誰もいない部室に、水音が響く。樹は視線を落とし、何も答えない。
「やめて、欲しいのね」
「遅いよ」
「言ったら、やめた?」
「わからないけれど、気には留めたよ」
「そう…………」
太股を押さえていた佐伯の手が離れる。
「樹ちゃん、あの時もそうだけど、嫌ならもっと」
言いかけた言葉を飲み込んだ。息を吸って吐き、吐き出すように言い放つ。
「俺、好きだから期待するよ。好きって言ったじゃん。樹ちゃんが嫌がらないなら、嫌がるまで付け込むよ」
「それでも俺、わからないのね」
樹は首を横に振る。あの時と同じように、佐伯が好きだからこそ、佐伯を傷付ける事が出来なかった。だが、見た事の無い一面を見せる佐伯に自分を曝け出される事は満更でもなく、一種の快感すらも覚えた。だからといって、佐伯の想いを受け入れられる訳ではない。今まで築き上げてきたものを構築し直すのは、難解で時間が必要であった。
「あ」
佐伯は手を置いた場所に、欠片があった事を今になって気付く。手の平を見ると、傷ではないが、欠片の跡がくっきりと残っていた。気まずい雰囲気と共に、この跡もしばらくは治らないだろう。
もやっとしてますが、樹も満更ではない。
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