カッコ悪い
2月14日。バレンタインデーと呼ばれるこの日は、女性が男性にチョコレートを渡し、愛を告げる者もいるだろう。菊丸も男で、樹も男。特になんら関係の無い、ただの一日だと思っていた。
青学レギュラーだったという事もあり、菊丸は良くチョコレートを貰う。それに加えて今年卒業もあり、数が多い気もするが、高校へはエスカレーターなので大きな変わりはない。来年もテニス部に入るんでしょうという言葉には、元気良く答えていた。さりげなく渡された後で、別の高校へ行ってしまうと知った生徒もおり、何か気の利いた言葉も言えたのではないかと思う中で、そう一日で出来るものではないと思い直した。
周りは動いているのだが、自分の中ではチョコレートの数のように、大きな変わりは無い。時刻は放課後を指しており、このまま今日の学校生活は終わるのだと思っていた。
「ん?」
丁度手元にあった、鞄の中の携帯が振動する。開いてみればメールが一通届いていた。アドレスは知らないものであったが、タイトルに"佐伯"と書いてある。大方、2人の共通の知り合いが教えたのだろう。
「樹?」
文の中にあった単語を口に出していた。内容を要約すると“樹が青学へ行ったらしいが、知らないか”というものである。菊丸は知らない。今日は会う約束をしていない。
日付を思うと、胸の中が落ち着きを失うのを感じた。もしかしたらと、心が躍る。面と向かえば、その“もしも”に嫌味を吐いてしまう気もするが、内心は嬉しくて仕方が無いだろう。とにもかくにも心が躍るのだ。
菊丸は荷物を置いて、校門へ向かった。樹が待っているのかもしれない。期待ばかりをしてしまう。
玄関を出て校門が見えた時、同時に知っている背中が見えたような気がした。会いたいとはやる気持ちと、驚かせたい気持ちが回り、足の速度が安定しない。あともう少し距離を縮めれば声が届く、そんな刹那であった。
横から不二が樹へ歩み寄り、2人が軽い挨拶を交わした。彼は校門の方へ一直線に向かったので、菊丸の存在には気付いていないだろう。思わず足が止まってしまっていた。状況が読み込めない。まるで2人が初めから会う約束をしていたかのような、滑らかなやり取りに見えた。樹は恐らく、不二と約束をしていたのだろう。そう察した時、心が痛むのを感じた。
会うなという訳ではない。ただ、青学へ来るのなら一言、言って欲しかったのだ。
樹に言いたい言葉が次々と浮かび、そのうち頭の中でくしゃくしゃに丸まる。声にすべきか躊躇いを感じた。期待通りの言葉が返って来るとは限らない。そうしたら、どうなるのだろう。
僅か一瞬の間なのに、脳が活性化して様々な事が頭を過ぎる。
そんな中、不二が手招きをして、樹が彼についていく。場所を移動するようだ。菊丸は我に返り、見つからないように後をつけた。内緒にするのが悪いのだと、自分の行動の理由を正当化させて、後ろめたい気持ちを忘れようとする。
正門と裏門の間、生徒があまり通らない場所まで来ると、不二は足を止めた。樹も足を止めて、鞄から何かを取り出す。鮮やかなラッピングと今日という日にちで、チョコレートだと予想がつく。人気の無い場所でチョコレートを渡す。しかも男同士で。ベタというか、異様な雰囲気に、菊丸はギョッとするが、こればかりは止めなければならないと、前に出た。
「樹」
突っ込んでやりたい気分だったのだが、いざ口から出た言葉は低くて重い声であった。
呟きのような音量にも関わらず、不二と樹の耳にしっかりと届き、彼らは菊丸の方を向く。樹の顔を正面から見た途端、怒りと悲しみが喉の奥を詰まらせる。衝動で酷い暴言を吐いてしまわないように、浮かんだ言葉を何度も削り、残されたものを発した。
「どういうつもりだ」
今この姿は、とても見苦しいかもしれない。わかってはいても、どうする事もできない。
「あのさ、英二」
「樹に用があるんだよ」
フォローを入れようとした不二の言葉を遮る。顔に焦りが映った。これは違うのだと伝えたいのに、気圧されてしまう。菊丸は独占欲が強く、嫉妬深いのは知っている。黄金ペアや仲間内にも、そういう姿は時々見受けられた。けれど、こんなにも気持ちを溜め込んだ姿は見たことが無かった。樹相手にはすぐに表へ出せない何かがあるのだろう。それに自分の想いに無自覚すぎるのだ。だから、溜め込みすぎてしまう。
「……………………」
樹は鼻で一度息を吐いた後、一言言う。
「これ、妹のチョコレートなのね」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
沈黙する中、菊丸の顔がみるみる赤く染まっていくのがよく見える。
「ばっ…!お前早く言えよ!俺カッコ悪いだろ!」
とうとう逆ギレを起こした。
「何を勘違いしていたんですか」
「英二、出てきた時点でカッコ悪いから」
素っ気無く2人は言い返す。
「これ、有り難く貰っておくね」
不二は樹から受け取ったチョコレートを顔の横に持って行き、口元を綻ばせた。
「なんで樹がチョコレート持って来るんだよ」
菊丸が会話の中に割り込む。
「妹が不二のファンなのね。でも恥ずかしいからって俺が頼まれたという訳です」
「ふーん……」
どうも煮え切らず、相槌に何かを含んでしまう。
「僕も裕太に同じ事を頼まれたら、絶対引き受けると思うよ。裕太頼んで来ないかなぁ。じゃあ話の途中で悪いけど、これで」
不二は流れる動作でその場を去った。菊丸は樹と並んで手を振って見送った後、本題に入る。
「ウチに来るなら、一言言ってくれても良かったのに」
一番言いたかった言葉だが、悟られまいと呟くように言う。
「菊丸に会うつもりは無かったのね」
「なんでだよ」
反射的に樹の方を向き、目は知らず知らずのうちに睨んでしまう。
「妹の頼みじゃなかったら、行きたくなかったんです」
「だからなんで」
「本当はサエと一緒か、頼みたかったんですけど、用事があるみたいで言えなかったのね」
「はぐらかすな、はっきり言え」
「言いたくありません」
「はぁっ!?」
樹は視線を逸らし、学校の壁を見つめた。
「カッコ悪いから、言いたくありません」
「意味わかんないよ」
一瞬、面倒な顔をすると、彼は答える。
「………あんまり、お前がチョコ貰ってる姿を見たくないのね」
「……………バカじゃねーの?」
「だから、言いたくないって言ったのね」
馬鹿げた事だとは、樹もわかっていた。だからといって、割り切れるものではない。菊丸を好きな自分が、嫌になることがあった。
「……………………」
「……………………」
会話が途切れ、気恥ずかしい空気が包み込む。雰囲気から脱出するように、菊丸は声をかける。
「荷物取って来る。一緒に帰ろう」
「わかったのね」
小走りで校舎へ戻る菊丸の背をしばらく眺めた後、樹は壁に寄りかかり、夕焼け空を見上げた。
彼は思う。ここへ来るまで、躊躇いと後悔を繰り返していたが、やはり来て良かったのだと。ほんの数分待つだけなのに、一分が長く感じた。
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