誰も知らない
11月28日、夕方。
適当な柱に寄りかかり、菊丸は駅の改札を見つめていた。
電車が着くと改札を通る人が増す。行き交う人の中、目当ての人を探した。
「あ」
見つけると、つい顔が明るくなり、手を上げてしまう。
直後に我に返り、手を引っ込めた。
「菊丸」
相手――――樹も菊丸を見つけて歩み寄り、微笑んだ。
「久しぶりな気がするのね」
「そうだったか?」
つい先月、会ったばかりである。会う回数は夏よりも当然増えて、仲は深くなっていった。
「お前に会う度に、待てなくなるのね」
「無茶言うなよ」
いきなり大胆な事を言われ、内心動揺する。
頷きたい気持ちはあった。けれど受け流した。
「行くか」
上着のポケットに手を突っ込み、歩き出す。
今日は菊丸が連れて行きたい場所があると言っていた。
どこだろう。問わずに樹は付いていく。
11月後半となれば、町はクリスマスを予感させる広告などがいたるところで目立つ。
海の近い六角とは違い、菊丸の住む東京は人が多い。
初めてではないが、今日は特別人が多く感じた。うっかりすると、前を歩く彼を見失いそうになってしまう。
「菊丸、待ってください」
「え」
菊丸は振り返る。
「今、なんて言った?」
何を言ったかは届いていなかった。
なぜか答えられず、樹は首を振る。
駅前の大通りをしばらく進んだ後、道を曲がった所で菊丸は足を止めた。
向き直り、一言言う。
「ここ」
「ここ……?」
聞き返し、見上げる。
そこは大きなビルであった。しかし、なんのビルかはわからない。
入り口の硝子扉や窓には“テナント募集”の張り紙ばかりが貼ってある。
「寒いし、入ろう」
扉に触れて、手招きする菊丸。
「良いのね?」
「知らね」
「え?」
扉を開ける音と、菊丸の声が重なった。
彼は確かに“知らない”と言っていた気がする。
ビルの中は薄暗く、人気が無い。雰囲気からして灰ビルになるのは時間の問題のようだ。
階段を上りながら菊丸は説明をする。
樹が思う通り、ビルが建ってから随分と経つが、なかなか人が入る気配がしない。
俺たちには都合の良い場所だろう。そう同意を求めてきた。相槌を打たざるをえない。
「本当に良いんですか」
「そんな事言ったら、何も出来なくなるだろ」
「そうですね」
自分たちの関係に置き換えても、たぶん同じ回答になるのだろう。
駅に着いた頃より日は傾いており、階段を上りきる頃にはすっかりと暗くなっていた。
とうとう最上階である。運動しているとはいえ、先のわからないものをずっと上がり続けるのは疲れた。
「まだまだ休まない」
「まだなのね」
呼ばれるままに菊丸の後を追うと、おそらく屋上に続く階段がある。
上がって扉が開かれれば冷たい風が吹き込んできた。
「寒いのね」
「ほらほら、どうだよ」
身を縮める樹に、菊丸は両手を広げてみせる。
彼の後ろには、夜のイルミネーションが広がっていた。高いビルから見下ろせば、美しい絶景が彩る。
腕を広げた格好で回って手摺りを掴み、隣に樹も並んで一緒に見下ろす。
「良いだろ、ここ」
樹の方を向き、笑いかける。
「はいっ」
元気良く返事をするが、菊丸の方を向けなかった。
項垂れるように顔を伏せる。
「なんだよ、どした」
「別に、なんでもありません……」
隠し切れず、涙声が発せられた。
急に、泣きたくなってしまったのだ。
「泣いてんのかよ」
思わず、うんざりした顔をしてしまう菊丸。
「だって、お前がこんなもの見せるからなのね。今日は、俺が何かしてあげようと思っていたのに」
鼻を啜って顔を上げた。このまま下を向いていたら、涙が零れそうだったからである。
「だーかーらー、そういうのいらないって言っただろ」
「ちゃんと聞いているのね。でもこんなのは卑怯なのね」
「一緒のもんが良いって思ったの」
「はあ?」
「気にすんな」
零れてしまった本音を誤魔化す。
「泣きたきゃ泣けば。どうせ誰もいないんだし」
「菊丸がいるのね」
「そうだな」
次第に泣きたい衝動は収まり、安心した気持ちが湧いてくる。
「ここ、良い景色ですけど、ちょっと寒すぎるのね」
何か一つでも文句を言わねば気が済まず、肩を竦めた。
「その、ほら、一緒ってさ」
口ごもりながら、菊丸が樹の手を握る。彼の顔を見ようとしたが、照れ隠しか背けられてしまう。
「一体どうしたのね。優しくて」
「気分だって」
「気分じゃわかりません。誰もいないんだから、言って欲しいのね」
「樹がいるじゃん」
互いに見合わせず、景色を見下ろし、ぼそぼそと言葉を交わす。
ぶつかる肩。合わさる腕。重なる箇所ばかり熱くなっていく。
もっとも熱くて汗が滲む握られた手は、まだ離す気にはならなかった。
この誰も知らない空間にいる間はずっと握っていよう。
特に約束はせずとも、二人は同じ事を思った。
Back