覗くつもりは無かった。
あれはただの偶然。
やり残し
全国大会終了直後、急に越前がアメリカへ発つと言い出した。しかも三日後だという。
突然の知らせにどんな感情よりも驚きが上回っていた。
「忙しい奴だな」
夏休み中の越前の教室の荷物整理を手伝ってやりながら、菊丸がぼやいた。彼の他に桃城と河村も来ているが廊下に出ている。
「行くなら、早い方が良いじゃないスか」
越前は手渡された教科書を、頭を下げて受け取りながら言う。
「おチビはどこまでもおチビらしいな」
再び会う時はチビじゃないのかもしれない。このあだ名で呼ぶのはこれが最後なのかもしれない。
越前自身は喜ばしいだろうが、菊丸とては寂しいものだ。
「そうだ…………菊丸先輩……」
辺りを軽く見回し、二人きりなのを確認して、越前は改まったように菊丸を見上げた。
「なんだよ」
「あの、今月の三十一日。何の日か知ってます?」
「は?夏休み最後の日?」
思いついたままを正直に答える菊丸に対して、越前は呆れた表情をありありと見せる。
即答で、本当に知らないのだと悟ってしまった。
「なんだよその面は。ナマイキだぞ」
「大事な日なんじゃないかと思ったんスけど」
「俺が宿題やってなさそうだからっての?」
はー。越前はふか〜い溜め息を吐く。もったいぶらされて菊丸が不機嫌になるのを感じ、そっと耳打ちをした。
樹さんの誕生日っス。
「はあ?」
菊丸は素早く越前から離れ。
「はあああああっ!?」
さらに後ろへ下がって壁にぶつかった。
「なに?なに?それがなんなのっ!?」
何でもなくは無い事を、その赤面した顔が証明している。
「英二先輩、どうしたんですかー?」
横からひょいっと廊下にいた桃城が顔を出す。
「なんでもないっ」
押し戻してドアをも閉める。
「あ、言って良かったんだ」
一人納得した越前。
「おチビ!あのなっ」
菊丸は戻って来て越前に顔を近付け、囁いた。
「樹の誕生日のどこが俺にとって大事な日なんだよ」
「だって仲良さそうにしてましたから」
「どこで」
「合同合宿で」
「ど・こ・で」
「だから合宿……」
「そんなのしてないっ」
「見せてないだけじゃ……もがもがもが」
とうとう口を塞がれてしまった。
そのまま教室の隅に連れて行き、説明を強要した。
越前が言うには青学と六角の合宿所の休憩時間、菊丸と樹が楽しそうに話をしているのを見てしまったようなのだ。覗くつもりは無く、ほんの偶然通りかかって見てしまったらしいが。
後輩の想像通り、菊丸は樹に嫌いと言っていたが本心は満更でも無い。でなければ自ら話を振りはしない。しかし認めたがらないのは照れだけでは無い。二人の間に友愛以外の別の愛情が生まれているからである。誰にもバレぬように気をつけていたはずなのに、つい合同合宿で浮かれて隙を見せてしまったようだ。
「菊丸先輩?」
菊丸が言い訳を考える気難しい表情を越前は不思議そうに眺めた。
「あ、いや、えーっと、そんなに笑っていた覚えはねーけどな」
「そうスか?嬉しそうな顔をしてたように見えましたよ」
心臓に悪い事ばかりを言う後輩だ。
胸が高鳴り、何となく流れてもいない汗を拭うかのように前髪を横へやる。手の甲を頬にあて、顔の温度を確かめた。
だいたい先に好意を示してきたのは樹の方だ。これでは樹が大好きみたいじゃないか。認めたくないのは照れでも愛情でも無く、ひょっとしたら人一倍の自尊心の気もする。
「そんなに樹さんと仲良いように思われるのが嫌なんスか?俺結構好きですよ」
越前は冷めているように見えて実に正直な男だ。彼の言う通り、越前と樹はそれなりに仲が良く、合宿で会話をしている姿を見かけた。これまたこんなでは樹をずっと見ていたように思えて悔しくなる。
樹は越前を“リョーマくん”と呼んで、越前は樹の誕生日を知っている。思っていたより親しいらしい。またまたそれがヤキモチのようで嫌になる。いつからそんなになったのか。すぐには思い出せないし、引き返せそうに無かった。
「三十一日誕生日だって樹から聞いたの?」
一回しか言っていないのにしっかり覚えているんだ。
越前はなんとなく菊丸が樹との仲を認めたがらないのがわかった気がした。
どことなく、そわそわしている。なんだかまるで、恋しているみたいだ。
思ったままを言ってしまえば、今度こそ滅茶苦茶怒られそうなので心に仕舞っておいた。
「いえ、これも偶然なんスけど。たまたま開いていた乾先輩のノートに載ってて。攻略情報じゃなくてプロフィールだけだったんで見つかっても見せてくれまして。八月三十一日って覚え易かったから、何となく。何となくっスけど」
恐らく越前は薄々予感していたのでは無いだろうか。夏の終わりが旅立ちの時であると。
「先輩はバッチリ知ってそうだなってのと、全く知らないだろうって。んと、言って良かったっスよ」
「知るかよ、そんなの」
「心残りは出来るだけ片付けておきたいんで」
「そういうのはちょっと残しておく方が良いよん」
もし越前が帽子を被っていたなら、つばを下ろしてやる所だった。
しかし彼のニュアンスは“大きな何か”をあえて残しているように感じて、必要は無いのだと思い直した。ただの勘ではあるが、これは結構当たる覚えがあるのだ。
波の音がダイレクトに聞こえ、日の光がキラキラと海に煌きを与える。
「……と、言う訳で。おチビがさ」
ふーっ。菊丸は長い息を吐いた。
ここへ来た理由の説明を、最後は"越前"を理由に締めた所だ。
「はぁ」
それを面と向かって聞いていた樹は相槌を打つ。
八月三十一日、六角に近い砂浜で二人は会っていた。呼んだのは菊丸の方である。
駅で待ち合わせたのに肝心な、来た理由は海に来るまで教えてくれなかった。
「菊丸が来てくれたのは嬉しいんですけど…………あふ……」
樹は込み上げた欠伸を噛み殺す。
菊丸から呼んでくれたのも、会ったのも、嬉しいには嬉しいのだが時刻は早朝。眠くて仕方が無かった。菊丸本人も眠いらしくときどき顔を背けては欠伸をしている。
朝早いだけに海には二人以外誰もいない。ムードも盛り上がるべきなのだが、どうにもこうにも眠くて仕方が無い。
「誕生日知ったからって、わざわざ来てくれるなんて」
「あ」
何となく言った樹の言葉に菊丸は"直接会わなくてもメールか何かで言えたのではないか"という事実に今更気付く。それまで会う事ばかりしか考えていなかったなど口が裂けても言えない。
「どうしたのね?」
「いや、別に。おチビに教えてもらったからには会わなきゃなと思ってさ」
「リョーマくんはアメリカなんですね。また会いたかったのね」
心底残念そうな顔をする樹。
「そうだな。また戻ってくると良いけど。腹減った。何か食べに行こう」
「そうですね」
樹が歩き出すと菊丸が後ろから付いていく。
すると歩調を遅くして樹は菊丸に並ぶ。
「…………………………………」
待っていたかのように菊丸は樹の手を握る。
夏なのか、朝なのかはわからないが、手がとても熱い気がした。
肩がぶつかって、菊丸がよろけそうになり体勢を戻すが、またぶつかった。わざとだと二度目にして気付く。
「誕生日、おめでとな」
「はい」
握り直して、しばらくくっついて浜辺を歩いた。
適当な喫茶店のモーニングを摘まんでいると、突然樹の携帯電話が鳴った。
「もしもし」
樹の電話の様子を菊丸は食べながら眺める。
「あ、起きてるのね。え……はい……はい……」
会話は終わり、携帯を仕舞う。
「バネからでした」
「早っ」
「近くにいるみたいなので、こっちに来るみたいです」
「げっ」
二人きりでいる所を見られたら、仲が良いように思われてしまう。
まだ菊丸は往生際が悪かった。
樹は彼のあからさまに嫌そうな態度を見て思う。たぶんこれからもっと関係が深くなっても、彼のこの態度は当分直らないような気がした。
食事が粗方片付いた後、黒羽が入ってくる。足音の感じから察して、他の六角の連中もいるようだ。
「よお樹ちゃん」
「バネも早いですね」
「樹さん、お早うございますー」
桃城が黒羽の背中から顔を出す。黒羽の連れは六角だけではなかった。
「もっ…………!」
菊丸は桃城を指差し、口が“も”の形で固まっている。
「あれえ、英二先輩じゃないスか。早いっスねー。先輩〜、英二先輩も来てますよ」
「ホントだ。英二〜」
「お〜い」
今度は不二が、乾が、入り口近くで手を振った。
「やあ」
「どうもー」
佐伯と木更津も同じように手を振る。
どうやら六角と青学のレギュラーの大半が来ているらしい。
悪夢だ。悪夢。菊丸は頭を抱える。
「なんでこう皆いるんだよ……」
俯き、くぐもった声で呟く。桃城が親切にも答えてくれた。
「なんでって全国大会が終わると、せっかく仲良くなったのに疎遠になるのは寂しいって話していましてね。丁度今日樹さんの誕生日で六角が集るって聞いてじゃあ青学も行こうってなったんですけど」
「俺……ちっとも聞いてないけど?」
もう何がなんだか。
顔を上げる菊丸は少し涙目になっていた。
「ええっ?先輩聞いていないんスか?越前に伝言を……ああ、アメリカ行きで食い違ったかもしれません」
「…………………………………」
では越前は樹の誕生日を教える前に、もっと重大な事を伝え忘れていたとでも?
もはやこの気持ちを、どう表現すれば良いのかわからない。考える気力はとっくに尽きた。
「でも英二先輩、聞いてないのになんで来ているんスか?」
さすが青学の曲者。痛い場所を的確に射抜いてくる。
「そ、それは、もう聞くなっ」
菊丸はテーブルに突っ伏した。だが隠し切れない耳は真っ赤に染まっている。穴があったら入りたい。
降参を身体全体で示している菊丸を見て樹は可哀想に思うのだが、無性に愛おしく、思い切り抱き締めたくなる。絶対に離したくはない存在だと改めて感じた。
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