それは、朝焼けで輝く海を初めて見た時のような目をしていた。
君を想う
「ゲームセット!!」
審判の声が、夢の終わりを告げる。
六角中のD1ペアは青学に負けてしまった。
佐伯は隣のパートナー・樹を見る。
彼は涙を流していた。
いつも樹は試合が終わると、勝っても負けても泣いていた。気持ちが高ぶると泣いてしまう性格であった。
そんな時、佐伯は
「樹ちゃん、面白かったね」
そう言って、彼の気持ちを落ち着かせていた。
「う、うん…………」
鼻声で樹は返事をする。今回はすぐに泣き止む気配を見せなかった。
「樹ちゃん」
肩を抱こうと、手を伸ばす。
ふわっ
ネットの上を、一枚のタオルが泳ぐ。
ぱさっ
舞い降りるように、それは樹の腕の中へ納まった。
「それ、使えよ」
ネットを挟んだ向こう側の菊丸が言う。
「………………」
樹は泣くのも忘れ、呆然とタオルを見つめている。
「未使用だから、汗臭くにゃいぞ」
「あ、うん。ありがとうなのね!」
顔を上げて、お礼を言う。
「お、おう」
慣れない事をした菊丸の体は、照れて固まってしまっている。
「英二、戻ろう」
くすくす笑いながら、不二が背中を押してやる。
「………………」
「樹ちゃん、戻ろうよ」
「………………」
「樹ちゃん?」
佐伯は樹の顔を覗き込む。
彼はただ真っ直ぐに、仲間の所へ戻る菊丸の背中を見つめていた。
それは、朝焼けで輝く海を初めて見た時のような目をしていた。
純粋に素晴らしいと感じ、心をそのまま持って行かれたような…………
佐伯の心の中の、秘められた部分が小さな音をたてる。
小さな頃からずっと樹に恋をしていた。
ずっと、ずっと恋をしていれば、いつか想いが結ばれると思っていた。
そう、信じていた。
純真で幼稚な想いを、色褪せる事が無い様、大切にしまっていた。
樹は色恋沙汰には疎い性格だし、
そう簡単に自分のものにはならないと思っていたと同時に、誰のものにもならないと思っていた。
周りは気心の知れた連中ばかりだったし、
その中でも樹と一番親しくて、一番理解しているのはこの俺だと、慢心していた。
それが。
ほんの一瞬、
ほんの数秒、
目の前で、
いとも簡単に、樹の心を奪われてしまった。
脱力感の中に迫る危機感、そしてどうしようもない嫉妬心が内から溢れ出す。
多少ヤキモチぐらい妬いた事はある。対象は友達だったし、許していた部分もある。
だがしかし、これは紛れも無い嫉妬心。
ドロドロと汚い、嫌悪と憎悪。
樹への想いは、あんなにも綺麗にしまっておいたのに。
どうして、こんなものが出てくるのだろう。
どうして、どうしてこんな……………
虚ろな瞳で、佐伯は顔を上げた。
試合はとっくに終わり、学校へ続く道を歩いていた。
目の前に移るのは、前を歩く樹の背中。
所詮、菊丸は他校生。一度会って、ハイお仕舞いだ。
再び会うような事があっても、あの事は忘れているだろう。
気を取り直して、佐伯は樹の隣に並んで歩く。
「樹ちゃん………」
佐伯の顔が笑ったまま固まる。
樹は大事そうに、菊丸の渡したタオルを持っていた。
「涙拭いたなら、それ仕舞ったら?」
冷淡な、感情のこもっていない声が無意識に出た。
「ああ、そうだったのね」
佐伯の声に少し驚きつつも、樹はタオルを仕舞う。
寝て起きて、何日か過ぎれば、こんな気持ちは無くなると思っていた。
数日後の早朝。部室で木更津の話を聞いていた佐伯は、突然声を上げる。
「え?どういう事?」
とても怖い顔だったのか、ほのぼのとした雰囲気が一気に凍りついた。
「え、だからね………」
帽子のツバをしきりに直しながら、木更津は頭の中で話を整える。
「昨日、兄弟に会おうとしたら、樹ちゃんも青学に用事があるからって、一緒に行ったって……」
「樹ちゃん、青学へ行ったの?」
「うん」
「菊丸に会いに行ったの?」
「え………途中で別れたから、わからないよ」
「亮。隠さなくても良いよ。行ったんでしょ?」
「だから、わからないよ」
本当に、わからなかった。
佐伯の表情はとても冷たく、小さい頃から知っているはずの幼馴染みの顔が、全く知らない他人に見えた。
「サエ。亮は知らないって言ってる」
黒羽の手が佐伯の肩に置かれる。
「ごめん。俺……………………」
酷く疲れたような顔で、佐伯は手の甲を額に当てた。
「サエ、どうした?」
首藤も心配して歩み寄る。
「おはようございま〜〜すっ!」
「おはようなのね」
幸か不運か、葵と樹が部室へ入ってくる。彼らは雰囲気に気付かず、明るい声で話を切り出す。
「聞いてくださいよ〜〜っ、こないだ………」
「俺昨日、菊丸に借りていたタオルを返しに行ったのね」
樹の発言で、気温が下がった。
「え?え?何ですか〜?僕の失恋話はもうお呼びで無いんですか〜〜?」
「剣太郎はちょっとだまっとれ」
「わわっ」
背後に回った天根が葵をブロックする。
「樹ちゃん」
樹を見る佐伯は寒気がする程、無表情だった。
「青学行くなら、俺も行ったのに」
「サエは用事があるって、前言っていたの思い出して……」
「樹ちゃんが行くっていうなら、そんなのほっぽり投げるよ」
「で、でも…………」
「何で一言、言ってくれなかったの?」
「あ、あの…………」
佐伯の冷たい雰囲気に、ただただ樹は怯えるばかりであった。
彼の知っている佐伯は、いつどんな時にも、明るくて、優しくて、温かかった。
「やめないかサエ!」
「佐伯!」
「サエ!」
黒羽、首藤、木更津が口々に佐伯を咎める。
「駄目なんだからね!!」
悲鳴のような佐伯の声が響き渡った。
樹は目を丸くして、一歩下がる。
「樹ちゃん!菊丸は駄目だよ!菊丸はね………菊丸はね………
あの時は不二と組んでいたけれど、いつもは大石って副部長と組んでいてね………!!」
感情的になった佐伯の目許から、涙が溢れて頬を伝う。
「ゴールデンペアって呼ばれていてね………!一心同体みたいな息の合ったペアって有名でね…!!
とっても、とっても仲が良いんだ!だから、だからさあ!!」
睨むように、樹の目を見据えて、息を吸う。
「樹ちゃんが入り込む隙間なんて、全く無いんだよ!!!」
はあっ
はあっ
佐伯は荒い息を吐く彼の目に映るのは
目を見開いたまま立ち尽くす樹の顔。
「あ………………………」
佐伯の脳裏に、先ほど喚く様に言ってしまった酷い言葉が過ぎる。
一方的に当り散らすなんて。
なんて事を言ってしまったのだろう。
「お、俺……………俺………………」
首を横に振りながら、佐伯は後退る。
「ごめんなさい……………………」
逃げるように部室を出て行った。
コート脇の水飲み場で、佐伯は荒々しく顔を洗う。
カッコ悪い。
最悪。
菊丸がゴールデンペアの片割れだというのは知っていたが、実際の仲はわからない。
嘘を吐いた。ハッタリと言った方が良いのかもしれない。
頭ごなしに、樹を傷付けてしまった。
「サエ」
その声一つに、側で聞こえていたはずの水音さえも遠く感じられた。
「…………………」
「サエ」
その声一つに、止まったはずの涙が、再び零れ落ちた。
ゴシゴシと濡れた顔を拭って、佐伯は振り返る。
ぱさっ。
投げられたタオルが顔に当たる。
ぎゅっと握り締めるように受け取り、まぶたに押し付けた。
「樹ちゃん………ありがと」
「うん」
樹がゆっくりと佐伯に歩み寄る。
「樹ちゃん…………ごめん、俺…変だね………ごめんね………」
タオルで顔を隠したまま、くぐもった声で謝る佐伯の頭を、そっと樹は撫でてやる。
「菊ま」
「サエ、良いのね。別に………俺は……菊丸の事……ただ、仲良くなりたいなって………ええと………」
佐伯の言葉を遮ったものの、樹は口ごもってしまう。
菊丸に好意を抱いているのは確かなのだが、どう表現したら良いのかわからない。憧れのような、好奇心のような、彼の事を考えると、不思議と楽しくなる…………
とても親しい人物がいるなんて、明るい菊丸なら十分有り得ることだし、予測できる。わかっているはずなのに、気持ちが付いていかず、気落ちしてしまう…………
こんな事は初めてで、戸惑っていた。
しかし、そんな事より、自分の気持ちより、今は優先させるものがある。
「俺は、サエの方が心配なのね。どうかしましたか?何かあったんですか?」
「…………………」
樹が原因だなんて、言えるはずも無い。
「困った事があったら、何でも相談してください。一人で抱え込まないで下さい」
「…………………」
「いつでも、俺はサエの側にいます。大好きなサエには、いつも大好きな笑顔でいて欲しいです」
佐伯は片手でタオルを押さえたまま、空いた手で樹の上着の裾を掴む。
「樹ちゃん」
「はい?」
「俺の事……………好き?」
「大好きですよー?」
喉で笑う音が、真横で聞こえた。
「そう。俺もね、好きなんだ」
「両想いなのねー」
「そうだね……………」
どうして好き同士なのに、こんなに切なくなるのだろうか……
気持ちは繋がっているはずなのに、こんなに想いあっているのに……
目の奥が、染みて滲んで、まつげが濡れた。
菊丸←樹←佐伯の恋の一方通行。 樹は菊丸に恋していても、佐伯が一番大切ですし、大好きです。そこがまたキツいんですが。
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