大きな事だと思っていたものは、意外にも小さな事で。
 小さな事だと思っていたものが、実は大きな事に発展したりもする。



期待



 関東大会で六角にストレート勝ちをした青学メンバーは、談笑をしながら帰路を歩いていた。
「手塚がいなくてどうにゃるかと思ってたけど、勝てて良かったにゃ〜」
 菊丸はカラカラ笑って手を頭の後ろで組んだ。
「手塚はここにはいないけれど、俺達と一緒に戦ってくれてるんだよ!」
 大石は手塚のメッセージの入った携帯を大事そうに胸に当てた。
「みんなー、大石が惚気だすから気ぃ付けろ〜」
「「「「「「へ〜〜〜い」」」」」」
 乾の言葉に、大石を除く青学メンバーは耳を塞ぐ振りをする。大石の顔から湯気が噴出した。


 口には出さないが、皆密かに手塚の不在に不安を抱いていた。
 しかしそれはいらぬ心配だったようで。
 手塚という要が九州へ行ってしまっても、彼らの心は一つであった。


「そ、そうだ英二!」
 照れた大石は強引に話題を変える。
「今日は偉かったじゃないか!」
 ガシッと菊丸の手を掴んでブンブンと上下に振った。
「え?にゃに?」
 菊丸は目が点になる。


「泣いてる樹くんにタオルを渡すなんてさ!」


「あ、ああ………あれ、ね」
 頬をポリポリと掻く。
 慣れない親切は恥ずかしく、あまり思い出したくは無い。


「偉いぞぉ〜っ、偉いぞ英二〜っ」
 大石はガシガシと菊丸の頭を撫で、
「さっそく手塚に報告しなきゃ。親愛なる手塚へ……つい先日まで、ワガママで自分勝手でお祭り騒ぎになるとTPOを弁えないと思っていた英二が………」
 空いた手で手塚へのメールを打ち始める。
「大石てめえ!にゃんつー事をっ!」
 大石の携帯を奪い取ろうと手を伸ばすが、割り込んできた不二に遮られた。


「まあまあまあ。なかなか出来る事じゃないよ。樹くん、とっても喜んでいたじゃない」




 ありがとうなのね!


 お礼を言う樹の顔と、笑顔が浮かぶ。


 偶然、タオルが手元にあって
 偶然、タオルが未使用で


 渡してみただけの事だったのに。




「英二、カッコ良かったよ」
 不二の後ろを歩いていた河村がのほほんと微笑む。
「そうだよねぇ………カッコ良かったよねぇ………」
 片想いの河村に“カッコ良い”と言わせた菊丸に、不二は薄ら笑いを浮かべ、嫉妬の炎を静かに燃やす。
「こ、こわ………………」
 菊丸は肩を窄めて身震いした。


 ほんの些細な事だったのに、どうして大石のメールのネタにされたり、不二に嫉妬されなければならないんだろうか。ああ、慣れない事はやはりするものではなかったと菊丸は後悔するが、その度に樹の顔が浮かんで、満更でも無かったと思い直す事の繰り返しであった。








 数日後、部活を終えた菊丸は校門に寄りかかる、見知った姿を見つけた。
「…………………」
 思わず名を呼びそうになったが、慌てて首を横に振る。
 そんなはずは無い。
 あいつがここにいるはずなんて無い。


 警戒して近付く菊丸に、その人物は気付いたようで、門から背中を離して彼に向かって手を振った。


「菊丸〜っ。お久しぶりなのね〜〜」
「うおっ!?やっぱ樹かよ」


 思わず後退るが、樹は満面の笑みで菊丸に駆け寄る。


「こんな時間にどうしてお前が?」
「快速で来たんですよ。あっという間なのね」
「あっそう。で、誰に用?」
「菊丸ですよ?」
「ああそう、俺ね〜…………って、俺!?」
「はい」
 自分を指差す菊丸に、樹はこくりと頷く。


「一体、なんの用だよ」
「これを返しに来ました」
 樹は鞄から菊丸に借りたタオルを取り出す。それは洗濯されて、綺麗に折り畳まれていた。
「ありがとうございます」
「あ、どうも」
 うやうやしく返されるものだから、それにつられて菊丸もお辞儀をしてしまう。


「これだけの為に、ここへ?」
 タオルに視線を落とし、菊丸は問う。
「これだけ………なんて、とっても嬉しかったのね」
 ふふふ。樹はにっこりと微笑む。


「俺、いつもは裏門から帰ってるにゃ。たまたま、今日はこっから帰ろうと思ったから良いものの………」
「それはラッキーだったのね」
「あのなぁ………」
 はあ。溜め息をつく菊丸は“それはそうなんだけど”と付け足す。


「じゃあ俺は帰ります」
「え?」


 そうだよな。借り物を返す為だけに来たんだから、用事が済めば帰るのは当たり前か………


 嬉しかった気持ちは、申し訳ない気分へと変化していく。


「俺も駅まで行くよ。ちょっと見たいモノとかあるし。本とか、服とか」
 そう言って菊丸は歩き出す。
 せめて寄り道の振りをして、樹を駅まで送ってやる事にした。




「「英二せんぱ〜〜いっ!!」」
 後ろから桃城と越前が手を振りながらやって来る。
 その目は『腹減ったんで、先輩何かおごって下さい光線』を発しているではないか。


「げっ!奴らに捕まったら厄介だにゃ!」


 ぱしっ。
 菊丸は樹の手を掴んで逃げるように走り去る。








「はぁっ、何とか撒けたかな?」
 しばらく走って通常の歩調に戻した菊丸は、息を整えながら“ここを抜けた方が駅に早く行ける”と、公園に入った。




「菊丸」
 樹が口を開く。


「ん?」
「綺麗な公園ですね」
「そう?」
「はい」


 樹にそう言われて、菊丸は公園を見回す。
 この公園は人気が無いが、確かに綺麗と言われれば綺麗な所かもしれない。ほとんど駅への近道に使用していたので、この公園自体で何かをした事は無かった。




「菊丸」
「ん?」


「なんで走ったんですか?」


 普通、公園の事を言う前に、その質問の方を先に聞くべきだろう。
 菊丸は心の中で突っ込んだ。


「あの2人に捕まると、何か奢らされるにゃ。先輩だからってさ。あんまりだろ?」
「3年生は大変なのね〜っ」
 樹は声を上げて笑った。
「お前だってそうだろ!」
「そうでした」
「あのなぁ………」


 樹といる事に疲労を感じ始める菊丸であった。




「菊丸」
「今度はにゃに?」
 イラついた声で反応する。




「そろそろ手、離して下さい」




「へ?」


 菊丸はゆっくりと視線を移す。
 しっかりと、その手は樹の手を掴んでいた。


「そ、それを一番初めに言えよ!」
「そうでした」
「ったく!」
 顔を真っ赤にさせて手を離す。
 いつの間にか足は止まっていて、2人は公園に立ち尽くしていた。


「樹お前、話の順番滅茶苦茶!」
 まだ顔の熱が引かない菊丸は、無意識に声のトーンが高くなる。


「ごめんなさい……」
 樹はしゅんと俯く。


「せっかく菊丸と駅まで歩けるから、何か話そう話そうと、考えれば考えるほど焦ってしまって、混乱してしまったのね」
「……………………」




 言葉が出なかった。




 俺はお前に思われているの?


 ただタオル渡しただけなのにさ。
 気まぐれといってもいい、あんな些細な事で。


 俺に会う為にこんな所まで来てさ、俺と話す為にそんな考え込んでさ


 おかしいよ。


 俺、そこまで思われるような事していない。そんなに大した事していない。


 そんな心中を声に出せないのは
 きっと純粋に、その好意が嬉しかったからだ。




「………………そう、だったんだ」
 絞りに絞った僅かな言葉を呟く。




「菊丸」
「にゃに?」
 落ち着いた声で菊丸は耳を傾ける。


「って、良い名前ですね」
「は?」
「菊丸って良い名前ですね」


 菊丸はまじまじと樹の顔を見つめた。彼はただ、にこにこと笑っていた。


「そう?」
「呼ぶと、楽しい気持ちになるのね」
「そう………」


 引いたと思っていた熱が、再び顔に集まってくる。胸の鼓動も苦しくなってくる。




「菊丸」
「……………」
 菊丸は口を薄く開いて、無言で頷く。


「ウチの学校の近くにも、公園があるのね。高台からは、海が見下ろせるんですよ」




「俺も、見てみたい」




「え?」


「今度、千葉に行くような事があったら、見せて欲しいにゃ」


 せめて
 少しでも


 彼の好意に、応えてやりたいと思った。


「あ………………………」
 樹の頬に赤みがさす。


「は、はい!わ、わわわ、わかりました!約束なのね!」
 わたわたしながら、菊丸の手を取って何度も頷く。








 駅のアナウンスを聞きながら、樹は電車の窓から街の様子を眺めていた。
 周りに見向きもせず、駅から離れていく菊丸の後姿が見える。


 突然、俺寄る所があるからって、駅前のデパートの中へ姿を消したと思ったのに。


 駅まで行くって言っていたのは、やっぱり俺を送る為だったのね。


 自然と口元が綻んだ。


 今日はあまり話せなかったけれど、今度会った時はもっと話をしたい。もっと君の事を知りたい。


 今度なんて、あやふやな未来の話だけれども、不思議と楽しくなる……………








 翌日の昼休み、不二と昼食を取りながら、菊丸は先日樹に会った事を話した。
「樹くん?」
「そ、六角のアイツ」
 “俺、恋に目覚めちゃったかも”と、この後惚気てやろうと思うと、つい顔がニヤけてしまう。


 不二は箸の先を銜えて、目をパチクリとさせ




「ああ、佐伯の恋人か」
 思い出したように微笑む。




「……………………え……」
 菊丸の顔が硬直した。


「佐伯さ、ずっと幼馴染みの樹くんの事が好きだったんだよ。試合中とっても仲が良かったし、付き合い出したんじゃないかな?」
「ええ、ああ、仲良かったかもね」
 菊丸は相槌を打つのがやっとであった。


「で、樹くんと会ってどうしたのさ?」
「っと、なんでもにゃいにゃい」
 微笑んで見せるが、目は笑っていない。




 なんだ………………。
 そうだったんだ………………。


 そういうの、言っておけってんだよな………………。


 期待、しそうになっちまったじゃん。




 愚かな勘違いが、早く笑い話になってしまえば良いと思った。







「君を想う」の中の、空白の時間を書いた菊丸サイドのお話です。
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