関東大会で起きた小さな出来事が、もう思い出に変わってしまったある日、佐伯の携帯が鳴った。相手は幼馴染みの不二であった。



繋がらなくて



「やあ佐伯」
「しばらくだね、不二」
 電話の向こうで、不二の笑う声がする。
「ねえ今度の日曜日、久しぶりに打とうよ。あのコートでさ」
 あのコート
 佐伯は頭の中で不二と昔テニスをした、六角中の近くにある広いコート場を思い浮かべた。
「良いね」
「2人だけじゃ何だし、佐伯も来れる人呼んでよ。僕も呼ぶからさ」
「ああ、わかった」
 約束をして、簡単な雑談をした後、電話を切る。佐伯はすぐに誘う人間を考えた。


 剣太郎は確か、デートがあるとか言ってたな。上手く行けば良いけど。
 バネあたりなら、来てくれるかな?
 亮はどうだろう?


 もちろん、樹ちゃんは絶対に誘ってと。


 頭の中であれこれ計算しながら、日曜日を待ち遠しく思った。




 一方、不二は不二でメンバーを集めようとしていた。まずは身近のクラスメイトである菊丸を誘おうと思い、昼休みに話を持ち出す。
「ん?良いよ」
 弁当を箸で突付きながら、菊丸は返事をする。
「大石も一緒に行こうぜ」
 隣で弁当を食べる大石に声をかけると、彼は顔を上げた。
「どうせ手塚とデート無いから暇だろ?」
「デートの時間は手紙を書いているんだ」
 九州にいる恋人の名前を出され、大石はムッとした表情で暇では無い事を言う。
「ま、まあ大石。手塚へ宛てる手紙のネタになるかもしれないよ?」
 慌てて不二がフォローを入れた。
「そうだな!」
 ぽむ、と手を合わせて大石の顔が輝く。
 見えない所で不二は親指を上げた。


 これで2人ゲット。この調子で行こう。佐伯と同様に、日曜日を待ち遠しく思った。








 日曜日、現地で彼らは顔を合わせる。
「よっ」
「ふふ」
 佐伯と不二は口元を綻ばせて、再会を喜んだ。
「樹ちゃんとバネを連れてきたよ」
「僕は英二と大石」
 一歩横へ動いて、後ろにいるメンバーを紹介した。
「丁度2人ずつ連れてきたって訳か」
「あは、奇遇だ」
 クスクスと笑う不二に合わせるように笑う佐伯だが、瞳は何かを思い出したように細められる。


 樹ちゃんは、まだ菊丸の事を特別に思っているかもしれない…………


「やあ大会以来だね」
 大石は爽やかな笑顔を浮かべて、黒羽と樹と握手を交わす。
「ああ、久しぶりだにゃー」
 彼の隣で菊丸が笑う。
「今日は宜しく」
 ニッと黒羽は口の端を上げる。
「宜しくなのね」
 のほほんとした顔で樹が菊丸を見た。
 ずっと笑っていた菊丸の表情が一瞬強張る。
 そして何事も無かったように、大石に声を掛けて雑談を始めた。


 忘れていたはずなのに、
 あいつの顔を見ただけで吸い込まれそうになってしまった。


「……………」
 樹は菊丸ではなく、大石の方に視線を動かす。


 あれが前、サエが言っていた大石。
 菊丸ととても仲のいい人。
 そうなのね、とても仲が良さそうなのね。


 なぜか、ガッカリした気分になる。
 何を期待していたのかは、考えたくも無かった。




 それから簡単に組み合わせをして、試合を始めた。その最中、菊丸、樹、佐伯の3人の視線が探るように、伺うように行き交う。それは合わさる事無く、不揃いな三角形を作っていた。忘れていた想い、忘れたかった想い、思い出した所で動き出すことが出来ない。咲かずに枯れた花に、水を注いでも息を吹き返すことが無いように。水を含んだ分だけ汚く黒ずみ、だらしなく地に水を落とすしかない。


「英二、どうした?」
 ぽむ。
 大石が菊丸の肩に手を置いた。
「ひっ!ど、どうもしないけど?」
 大袈裟に首を横に振って、菊丸は笑って見せる。樹を見ていたなんて口が裂けても言えない。
「…………………」
 大石がジト目になり、明らかに疑いを向け出す。長年組んできたパートナーに嘘をつく事は難しい。そもそも菊丸は元々隠し事が得意では無い。
「どうもしないっつの」
 一歩後ろへ下がって、大石の視線から逃れようとする。
「…………………」
「ほらぁ……詮索が激しいと、手塚に嫌われちまうぞ?」
「…………………」
 こればっかりは勘弁してくれよ。菊丸は心の中で涙した。
「そういや、大石はずっと連勝じゃんっ。す、凄いにゃー…さすがだにゃー…」
 話題の変更しか道は無く、菊丸は棒読み状態で大石を褒め出す。スキンシップでぎこちなさを誤魔化そうと、彼に抱きついた。
 それはもちろん最悪の行動で、そっと菊丸を見続けていた樹は追い討ちをかけられるように、この秘めやかな想いが決して叶う事が無い事を知らされて、泣き出したい気分だった。傷ついた分だけ、彼にどれだけ自分が惹かれていたかがわかってくるとは、なんて皮肉なのだろうと樹は思う。忘れる事なんて出来ない、嫌いになる事なんて出来ない、普通を保つ事で精一杯、仮面の下で想い続ける事しか出来ない。


「樹ちゃん?」
「サエ?」
 隣に立っていた佐伯が顔を覗き込んでくる。樹は僅かに驚いた。
 いつの間に隣にいたんだろう?
 最初から隣にいたかもしれない。
 幼馴染みの存在が気付かないくらい、彼に心奪われていたとでも言うのだろうか。
「どうもしませんよー」
 ニッコリと、笑う。
 その笑顔に、佐伯の頬に赤みがさす。
「そう」
 同じように佐伯は笑顔で返した。
 佐伯とはずっと一緒だった。
 だから嘘や誤魔化しくらい、一つや二つ、言ったことぐらいある。
 けれど、これが一番酷い嘘だと思った。そんな気がした。








 時間が経つのはあっという間で、コートがオレンジ色に染まっていく。テニスをして楽しかった時間も、色々考え込んでしまった時間も、終わりを告げる。
「ふぃ〜〜〜っ、熱い」
 汗をかいて胸元をパタパタとさせて風を送る黒羽の顔は晴れやかだった。
「君たち強すぎだよ、悔しいなぁ」
 タオルで顔を拭って不二が笑う。
「面白かったぁ」
 額に張り付いた前髪を指で払い、大石は黒羽と不二にドリンクを手渡す。
 試合を通して、彼らの絆は深まっていた。
「大石、俺にも」
「ほら」
「サンキュ」
「はい樹ちゃん。喉が渇いたでしょう」
「有難うサエ」
 菊丸と樹もドリンクに口を付けた。心の中でどんなに思い巡らせても、発する事が出来なかった。当たり障りの無い言葉しか発する事が出来なかった。このまま君と、別れてしまうのだろう。時計が一秒刻む度に、心が何かを急かす。
「…………………」
 佐伯は汗を拭う振りをして横目で樹の様子を伺う。真意が聞きたい。軽い感じでやんわりと問えばいい、そう心は囁くけれど。どんな答えを望んでいるのだろう、どんな答えだったら耐えられるのだろう、それがわからない。




 駅まで送るよと、6人はコートを出た。
「あ」
 信号を待っていた時、突然菊丸が声を上げる。
「悪ぃっ、忘れもんだ。ごめん先に帰ってて良いからっ」
 そう言って1人で来た道を戻って行ってしまう。
「英二?」
「ったく、そそっかしいんだから。英二〜〜っ、待ってるからなぁ〜〜」
 手をメガホンにして、大石は菊丸の背中に向けて声を掛けた。
「英二は突き放す振りして、寂しがり屋なんだよな。駅前のどこかの店で待つ事にするよ」
「はは、さすが大石。うん、僕も待ってるよ」
「せっかくだし、俺も待ってるかぁ。もっと話したいし。サエと樹ちゃんはどうする?」
「「え」」
 黒羽に話を振られ、佐伯と樹は肩を上下させる。
「ん〜〜〜っ、ごめん。俺は帰るよ」
 申し訳無さそうに佐伯は苦笑いをした。
「俺も帰るのね。サエ、一緒に帰りましょう」
「そっか。じゃあ」
「じゃあね」
「また」
 黒羽、不二、大石が手を振り、佐伯と樹は彼らと別れた。2人だけになって、ぽつりぽつりと話し始める。
「樹ちゃん、今日は楽しかったね」
「そうですね、とても楽しかったです」
「今日はあまり樹ちゃんと話せなかったね」
「そうですね、明日からまたいっぱい話しましょう」
「うん」
 佐伯は口元を綻ばせて、頷いた。


 そう、明日からはまたいつもの生活が待っている。いつものように樹ちゃんは俺の側にいてくれて、いつものように俺は君に恋心なんて寄せているんだ。
 それで良いよ、それが良いよ、俺はそのままでいたいよ。
 俺と同じ気持ちを寄せてくれなくても良いよ。
 俺の気持ちに気付いてくれなくても良いよ。
 ただ、俺の知っている君のままでいてよ。
 知らないうちに、誰かに心揺り動かされないでよ。


「…………………」
「…………………」
 いつの間にか会話は途切れ、無言のまま道を歩いていた。
 ふいに樹が立ち止まる。
「サエ、用事を思い出したのね。ここでさよならです」
「っ………」
 佐伯から離れようとした樹の服の裾を、反射的に彼は掴んだ。
「サエ?」
「…………………」
 視線が交差する。開かれた瞳に互いの姿が映った。
「また…………明日、だよ」
 キュッ。
 掴んだ布が擦れて音を出す。
「そうですね。明日、また会いましょう」
「…………………」
 こくりと、佐伯は小さく頷き、手を離した。
 樹が見えなくなるまでその場に立っていた。触れた感触を確かめるように、その手を握ったり離したりを繰り返しながら。








 誰もいなくなったコートで、菊丸は1人忘れ物を拾い、鞄の中に詰めていた。人の気配がして、そっと後ろを振り向く。
「まだいて、良かったです」
「…………お前かよ」
 その先には、息を切らした樹が立っていた。菊丸がまだいた事を喜び、微笑んでいる。
「俺も忘れ物しました」
「ドジだな」
 ふっと菊丸も笑う。こうして笑えば、何も考える事は無かったのだと今更に思う。


「菊丸を公園の高台へつれていく事、忘れていましたっ」
 真っ赤な顔で、樹は声を張り上げる。
「…………………」
 菊丸はポカンと口を開けて、呆気に取られてしまう。


「駄目………………………………ですか?」
 がくっと項垂れる。
「駄目、なもんか。俺は……………忘れていないから、駄目にゃんかじゃ……無い」
 口をパクつかせながら、何とか言葉を紡ぎ合わせる。顔はきっと真っ赤だろう。


「さ、こっちですよ。ついて来て下さい」
「はいはい」
 いつものテンションを取り戻した樹の後を、菊丸はトボトボとついて行く。




 公園へ着くのと、ほぼ同時刻だった。
 ザアアアアアア――――――――――ッ……………
 突然の夕立ち。空の色が急におかしくなったと思った時には遅かった。
 高台へ行く事はやめ、屋根のあるベンチに2人は雨宿りをする。
「…………………」
「…………………」
 こんな事になるなんて、考えもしなかった。どんな言葉をかければ良いのかわからず、黙り込んでしまう。様子を伺うのが何だか怖くて、視線は正面にある草木に向けられる。降り注ぐ雨に耐え、鮮やかな緑を彩らせ、艶やかに水を受け流していた。
「……………ごめんなさい……」
 消え去りそうな声で、樹が謝った。
「別に………悪くねぇよ………」
 菊丸は僅かに顔を横に振る。
「………………でも……………」
 雨を吸った髪から流れる滴と同じ道を、涙が通る。
「泣くなよ……………」
 チラリと樹の横顔を見て、菊丸は呟くように言った。
「………………でも……………」


「また、来るよ」


「え?」
 樹は菊丸を見た。
「また雨が降っても、また来るよ、晴れるまで、来るよ。だから、泣くなっつの」
「ホント、ですか?」
「お前が忘れていたら、無理になるけど」
「もう、意地悪ですね」
 ムスッとした樹は菊丸の顔の前に小指を突きつける。
「にゃんだよっ」
「約束」
「は?」
「約束、して下さい」
「……………お、おうよ」
 ゆっくりと手を上げて、そっと小指を絡めた。


 絡めたまま、2人は再び無言となる。
 雨が周りを遮断して、この場所を2人だけの世界のような気分にさせた。








 その頃、自宅で佐伯は窓をぼんやりと眺めていた。
 樹ちゃん、振る前に家に帰ったかなぁ。
 心配と、同じ時間を共有したい気持ちで、佐伯は携帯を取り出し、樹に電話をかける。


 ……………………………………。
「あれ?繋がらないや。電波悪いのかな」
 意味のない行動であるが携帯を振ったりして、繋げようとする。
「あれ……………」
 表情に苛立ちが見え始め、場所を移動するなどして電波の良い所を探す。
「あれぇ…………」
 切ったり、かけたりを繰り返しながら、樹と連絡を取ろうとする。
「繋がらないよ…………」
 無性に、樹の声が聞きたかった。




 携帯がけたたましい着信メロディを流し、驚くのと同時に2人の指が離れる。
 慌てて手に取り、電話を取った。
「はい?」


「あ、大石?」
 雨音がうるさいので、菊丸はボリュームを上げて大石と会話を始める。
 横で聞く樹は夢から醒めたように、寂しそうな顔をしていた。
「にゃんだよ―――――っ、帰って良いって言ったじゃん。ああ?だいじょうぶ、雨宿りしてる。だから帰って良いって…………ってオイ!黒羽たちとの話が盛り上がっているって……俺はついでかよっ!少し治まって来たからそっち行くよ……………………ああ…………うん……………………わかった。じゃ」
 パチン。
 菊丸は携帯を閉じる。
「俺、そろそろ帰るわ。雨、治まってきたし」
「はい、今がチャンスかもしれませんね」


「そんな顔で言うなよな」
 思わず指差してしまう樹の顔は、泣いていた。
「超泣き虫だよな、お前」
 菊丸は袖でぐしぐしと樹の涙を拭う。
「ありがと…………」
 それでも涙は堪え切れず、彼の肩口に顔を埋める。
「ごめんなさい…………」
「どっちだよ」
 ぶっきらぼうに呟くだけで、菊丸は動かず、ただ樹を受け止めていた。







「君を想う」「期待」の続きです。あと、塚石は標準装備です。
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