世界へ
しらしらと夜が明けた早朝。
青春学園の校門は半分だけ開いて、早くに登校する生徒を待っていた。人気の無い学校へ、手塚は静かに入る。朝練まではまだ時間があり、鍵当番の大石が来ていないので部室には入れない。
手塚はコートの見えるフェンスを素通りし、校舎脇に荷物を置いた。そうして角を曲がって水場へ行き、戻ってくる。彼の手には如雨露があり、中には水がたっぷり入っている。手塚が視線を落とす先には、校舎周りに植えられた花壇の花。如雨露を傾け、水をまき始めた。
一通り花に水をやり終えると如雨露を戻して鞄を持ち、部室へと向かう。
部室の入り口の前には、丁度大石が鍵を差し込んでいる所であった。
「やあ手塚、おはよう。今、開けるからな」
「おはよう。いつも早いな。有難う」
「え?……あ……うん」
不意に礼を言われ、大石は照れ臭くなり意識を鍵に集中させる。なのに、なかなか鍵は開いてくれない。こういうのは横に人がいると駄目なんだ。そう自分に言い聞かせた。
「どうした。開かないのか」
「開くよ、開くから。ほら、開いた」
鍵の外れたドアを押し開けて見せる。
「……………………………」
「開いたぞ。入らないのか手塚」
「入るが。どうした大石、怒っているのか」
手塚は瞬きさせ、無表情で大石の顔を見やる。
「怒ってないよ」
そもそも手塚が変な事を言い出すから調子が狂ってしまったのだ。
「疲れているのか。たまには鍵当番を交代制にするか」
「しなくても良いよ」
どうしてすぐそうなるかな。交代制は心配で出来ないって言ったはずなのに。
大石はぶつぶつ呟きながら部室へ入っていく。そんな彼に、手塚は首を傾げて続いて入った。
二人の後に続いて海堂と河村、他の部員も加わり、すぐに部室は賑やかになって朝練が始まる。
「大石」
練習中、大石は乾に呼び止められた。
「なんだ?」
「今日、誕生日だろう」
「ああ、そうだったな」
思い出して相槌を打つ。
胃薬服用の生活で、つい忘れかけていた。
「おめでとう。これでも飲んで健康にな」
牛乳の瓶を大石の手に持たせ、彼は去っていく。
せっかくなのでベンチに座って頂く事にした。牛乳を飲みながら、部の練習を眺める。
中学三年生――――十五歳――――学年が一つ上がり、様子もまた変わった。手塚と交わした夢をぼんやりと思い返し、反芻させる。視線は無意識に手塚ばかりを追っていた。後輩指導に当たり、淡々と教えているようだった。
あの頃の手塚も今の手塚も、いつもあんな感じだった。無愛想で、無表情で、ときどき笑う。何を考えているのかわからないけれど、こうと決めたものには揺ぎ無い意志を見せる。冷たくは無い、寧ろ熱く、優しい、けれどよくわからない。温度を見せない熱い男であった。
惹かれていた。どうしようもなく惹かれていた。
同じ夢を見る時、少しだけ近付けた気がした。隣に並んだ時、さらに少しだけ近付けた気がした。
夢を叶えた時は、もっと近付けそうな気がした。
絶対に叶えて喜びを分かち合いたい。目で、そっと手塚へ語りかける。牛乳は手の温度で温くなっていた。
朝練が終わり、午前の授業も終わった昼休み。大石は菊丸と不二の教室で弁当を一緒に食べていた。
「なー大石、聞いてくれって」
菊丸は箸を大石に向けて言う。
「英二、行儀悪い」
「そうそう」
すかさず大石と不二の注意が入り、彼は引っ込める。
「それでさ、今日はうっかり英語の」
「貸さないぞ」
のっけから大石は拒否を示す。
「課題忘れちゃって」
「貸さないからな」
「いやだからそうじゃないから。もう本当にヤバくって、駄目元で同じ教師担当の手塚に頼んだんだよ。そしたらさ。あっさり貸してくれちゃって」
「ま……」
まさか。
マジ?
大石と不二は"ま"の発音で口をぽっかり開けて菊丸に注目した。
「俺自身が吃驚だった」
「えー、じゃあ僕も貸してもらおっかな」
「おいおい」
菊丸に便乗しようとする不二に苦笑する大石。
大石は思う。朝の礼の言葉といい、今日の手塚は少し可笑しい。
理由を、訳を、巡らせながら昼食を済ませた。
そうして放課後。ホームルームを終えると、テニス部の生徒は部室へ向かう。
そんな中、手塚は朝と同じようにまた校舎脇花壇の前に立っていた。
手には如雨露。同じようにまた水をまく。
「手塚」
背後から聞き慣れた声がして振り返れば、大石がいた。
「なにしているんだ?」
「花に、水をやっている」
呟くように手塚は言う。
「花?」
大石は歩み寄り、手塚の背の後ろから花を眺める。
「係りなのか?」
顔を見上げ、手塚の反応を伺う。
「いいや」
「じゃあどうして」
手塚は横へ動き、隣の花壇に移った。
「今日は、大石の誕生日だろう」
花を見下ろしたまま、手塚は語りだす。
「大石が生まれてきてくれた事、大石に出会えた事を、世界に感謝する日だ」
あっ。手塚は声を漏らし、前のめりによろけそうになり、慌てて堪える。
手も傾いて、如雨露の注入口から水が零れて足を濡らした。
大石が後ろから強く抱き締めてきたのだ。
「どうした」
振り向かずに問う。
「なんでもない」
頭の感触がする。顔を埋めているのだろう。
「だったら離せ」
「嫌だ」
「だからなんだと言うんだ」
「なんでもないっ」
「わからない奴だな」
呆れたように言うが、口元は笑っていた。
しばらく動けそうに無い。
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