手塚。お前がドイツへ行ってしまう前は、しつこいぐらいに俺は言っていた。


 毎日メールするから。


 けれども実際、新生活が始まれば忙しくて、毎日なんて無理だった。



十六歳



 全国大会に優勝した青学テニス部。三年生は高校生となり、手塚はプロテニス選手になる為にドイツへ、その他は青春学園高等部へ進学をした。河村は寿司屋になる為の修行に入り、テニス部には入らなかった。二年生は部長が海堂、副部長は桃城となり、超ルーキーの越前は海外へ旅立った。
 皆が皆、目指す道を歩んでいく。共にいられた時間は少ないかもしれないが、同じ夢を見て、叶えようと精一杯足掻いた絆は色濃く残っているはずだ。


 大事な思い出だった。ちゃんとそう思っている。
 それなのに。
 高校一年生になった元青春学園中等部テニス部副部長の大石は憂鬱であった。
「はあ」
 授業中、一人溜め息を吐く。


 最近、よく思い出す。
 小学生だった頃や、関東大会後半戦の頃を。
 手塚がいなかった頃を思い出そうとしていた。
 手塚がいなかった時、自分はどう過ごしていたのかを思い出そうとしていた。
 手塚がドイツへ行ってしまった喪失感は、予想を超えていた。
 やりきれない寂しさで、美しい思い出が辛いのだ。


 ドイツは遠い。
 まず本州じゃない。次に日本じゃない。海を越えた海外にある。
 そんなのは地図を見れば一目瞭然だし、わかりきっていた。
 けれどどんなに遠くても、絆は絶対だと信じていた。
 それがただの精神論だと打ちのめされるのは早かった。
 高校生になってまだ一ヶ月も経っていない。
 なのに、もう昔は良かった……などと思い出にすがり始めている。
 情けなさに、大石は自己嫌悪に陥っていた。






 昼休みに入ると、別のクラスから仲間が昼食を誘いに来てくれた。
「大石」
 不二と乾が教室の入り口で笑いかけて、大石は席を立って彼らと共に屋上へ向かう。
 屋上の方では、先に菊丸と河村が待っており、集ると弁当を開けて食べ始めた。
「ねえ、手塚からメール来ていない?」
 不二が皆を見回して問うと、遅れて大石が軽く手を上げる。
「昨日来たよ」
「どんなの?見て良い?」
「ああ」
 大石は携帯を取り出し、不二に見せてやる。
 メールの文面はいかにも手塚らしい、シンプルな一文だった。
「あー……変わってないね」
「だろ」
「俺にも見せてよ」
「ほら」
「本当だ」
 皆で大石の携帯を眺め、苦笑を浮かべながらも安堵している。
「僕もメールを出したんだけど、返信は大石が一番早いようだね」
「こうして俺たちに伝わり易いからじゃないか?」
「それはあるかもね」
 不二、乾、河村は顔を見合わせて頷きあう。
「俺は出さないからわかんない」
 菊丸は肩を竦めて見せた。


「それで」
「そうなんだよ」
 不二が、乾が、大石に注目して声を揃える。
「頼みごとがあるっ」
「え?なに?」
 面を食らいながら、大石は返事をした。
「なにって、手塚がどんな練習しているのか聞きだしてくれないか」
 自分で聞けば良いんじゃないか。そんな答えが返ってくると予想したのか、乾が続ける。
「俺たちだと警戒されるんだよね。大石だったらナチュラルに教えてくれそうだからさ」
 あの手塚が警戒するとは思えないが、ライバル視している不二やデータ目的の乾に問われれば、無意識に身構えてしまうのは想像できた。
「わかった。今度聞いてみるよ」
 了承する大石。
「助かるよ。目標っていうのは、目に見えていないと把握し辛いし」
 不二の目つきは、試合の時のように鋭くなる。
「手塚も越前も海外へ行ってしまったけれど、僕はこの地で強くなって見せる」
「その意気だ、不二」
 意気込む不二を励ます乾。彼は今、不二の練習のサポートによくあたっていた。不二が強くなれば乾も強くなる、二人三脚で高みを目指しているのだ。ダブルスとはまた異なる、協力の形である。


「そうだ。もうすぐ大石の誕生日だったね」
「そうそう。いち早く年取るんだ」
 河村が新たな話題を出して菊丸が乗り、二人して大石の方を向く。
「おいおい。そういう言い方はやめてくれって」
「だってホントの事じゃん」
「そうだよ長兄」
「じゃあ僕は末っ子だね兄さん」
 手をパタパタと振る大石に、菊丸、乾、不二が茶化してきた。
「手塚はどうするんだろう」
「まさか帰ってきたり?」
「何かしてきそう」
「サプライズって奴か」
 大石を他所に手塚の大石へのプレゼントで盛り上がる四人。
 ふと大石は思う。心なしか、中学の時よりも仲良くなった気がする。別れがあったからこそ、深めようとする絆の力とでも言うのか。良い事だと思うのに、時の流れの寂しさを感じていた。
「大石、手塚からリアクションあったら報告宜しく〜」
「お前らなあ」
 丁度良いタイミングで予鈴が鳴った。






 放課後。部活が終わって仲間たちと別れた大石は、なんとなく帰りの道を遠回りがしたくなった。
 手塚の家の前を通りたくなったのだ。
 一人道を歩く中、昼休みでの会話を思い出していた。
 手塚は仲間。その中で不二と乾にとっては、一人のテニスプレイヤーという興味対象でもある。菊丸は苦手ではあるが実力は認めているだろう。河村は将来の為に別の道を進んだ事に共感を抱いているかもしれない。
 では、俺は――――
 大石は自身へ問いかける。
 手塚に勝とうなどとは思わなかった。手塚と同じ夢が見たいと思っていただけ。
 手塚はいつも眩しくて憧れて、ずっと追いかけていたかっただけ。
 夢の終わりの後、行き場を失い、途方に暮れていた。
 また高校で全国を目指すは目指すが、あれは手塚と見た夢だったからこその価値の違いに、大石は板ばさみを感じていた。
「あら?」
 不意に声をかけられ、大石は振り返る。
「大石くんじゃない」
「あっ。どうも」
 出会ったのは手塚の母・彩菜。買い物帰りらしく、手には袋を持っていた。
 大石は礼儀正しく頭を下げる。手塚はドイツにいるので、家へ行く理由がなくなってしまった為、彼女に会う機会も無くなってしまっていた。
「国光がね、青学の皆さんからメールが来ると喜んでいたわ。特に貴方にはとても感謝していて」
「いえ……そんな」
「時間ある?国光から写真が届いたの。大石くんにも見て欲しいわ」
「は、はいっ」
 彩菜に招かれて、大石は手塚の家へ入る。つい数ヶ月前の事なのに、随分と久しぶりのような気がした。


 居間に通され、紅茶と菓子を用意された。
「そんな、お構いなく……」
 恐縮する大石に彩菜から写真の入ったファイルを渡される。
「わあ」
 ファイルの中には、ドイツの景色とときどき手塚本人の入ったものもある。手塚のドイツでの生活の様子が見えてくるようだ。
「良かったら、貰ってくれないかしら」
「え?」
「これ、皆にも送りたかったらしいんだけど、メールの添付の仕方がわからないとかで家に郵送で届いたのよ。しょうがないわね、あの子ったら」
「はは……」
「前は出来ていたのにどうしてって聞いたら、大石くんが教えてくれていたからですって。すっかりやり方を忘れちゃったみたいなのよ」
「そうなんですか……。本当に良いんですか」
「ええ。もし機会があったら、また教えてあげてくれないかしら。これからも国光と仲良くしてくださいね。貴方の事を話す時のあの子、とても嬉しそうなの。きっと貴方の事が好きなのね」
「僕の方こそ、国光くんには……」
 感極まったのか、声が裏返りそうになって言葉が途切れてしまう。
 その後、雑談を交わして大石は手塚の家を出た。


 自宅へ帰り部屋に入ると、彩菜から貰い受けたファイルを机の上に置く。
 その横には日本以外の時刻がわかる時計と、独語の本が置いてあった。
 もしドイツへ行った手塚に困った事があった時に、助けてやりたかったからだ。ふと冷静に考え直せば、それはどんな事態だと突っ込まずにはいられない。本はいつかドイツへ行く時にでも活用する事にした。
 椅子に座ってパソコンの電源を入れる。さっそく写真添付の仕方を手塚に教えようと思った。
 彩菜に言われるまで、手塚にパソコンの操作を教えていた事を忘れていた。機械音痴の菊丸に教えようとしたが、野性の勘で危ないものには近付かないのか、逃げられた事の方が記憶に残っているくらいである。大石が忘れてしまったように、手塚もまた忘れていたようだ。


 また手塚の力になれる。


 そう考えると嬉しくなる気がした。
 その次に、それで良いのかと自問する。
 夢でも目標でもなく、手塚だけを追おうとしている。
「手塚……」
 声に出して、彼の名前を呼んでいた。


 パソコンの待ち時間の間、大石は携帯で手塚へメールを打ち始める。
 内容は彩菜に会った事や、写真の話だ。最後の一文に余計と思いながらも付け加える。
 “手塚の力になっても良いか?”と。
 返信は“頼む”と一言。相変わらずシンプルであった。
 たったそれだけなのに、心の奥の閉じられていた何かが開けたような気がした。
 まだ自分が“これで良い”というはっきりしたものは見えてこない。
 だが、手塚の存在を傍に感じ続けても良いのだと思えたら、本来の自分というものが戻って来た気持ちになった。






 数日後の四月三十日である大石の誕生日。
 彼の家に一つの宅配物が届いた。送ってきたのは手塚、大石への誕生日プレゼントだという。
 しかし問題は中身だった。ビールが数本入っていたのだ。
 添えてあった手紙にはドイツはビールが有名だから、という至ってシンプルな理由。
 有難いけれど未成年は飲んじゃいけないんですけど、と皮肉をこめてメールを送った。
 そうしたら、二十歳を過ぎたら一緒に飲もうと返してくる。これではこの年の誕生日の意味がない気もするが、大石はその時に備えて取っておく事にした。
 この日から大石には一つの新しい夢が出来た。
 いつか、手塚と向かい合って酒を交わす事だ。
「行ってきます」
 大石は扉を開けて学校へ向かう。
 十六歳。新たな夢を抱いての始まりであった。







大石は高校になったらどうするんだろう、というのはある。
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