早朝。遠山金太郎は勢い良く自宅を出た。
「じゃあ行ってくるでえ!」
「待ち、金太郎」
 母が呼びとめ、学生鞄を彼に向かって投げつける。
「勉強忘れとる」
 遠山は鞄を受け止め、学校へ向かって走って行く。
 入学し、テニス部へ入ったらこれだ。テニスが楽しくて楽しくて仕方ないらしい。朝起きるとすぐに身支度を整えて朝練へ行こうとする。あまり早すぎても部室は空いていないだろうに。
「困った子やね」
 腕を組み、溜め息を吐く母。
 けれども苦いながらも顔は嬉しそうであった。



四月の憂鬱



 遠山にとってテニス部は来る度に新鮮な何かを感じる事ができた。
 今日は何が起こるんやろ。
 わくわくして、走る速度も上がっていく。
 学校に着き、校門を潜って部室を目指した。そうして見つけたドアを一気に開ける。
「おはよー!」
 満面の笑みで挨拶をした。
「おお、おはよう」
 既に来ていた部長の白石を初めとする先輩たちがにこやかに笑う。練習開始時間からはまだ余裕はあるのに、レギュラーはほぼ勢揃いであった。
「………………………………」
 急に黙り込む遠山。怪訝そうな表情で彼らに歩み寄る。
 いつも何かが起こる四天宝寺テニス部だが、今日はまた一段と異様な雰囲気を感じ取った。
「何、しとるん?」
「今日は俺の誕生日やねん」
 白石はどっかりと椅子に腰掛け、照れながら答える。
「………………………………」
 おめでとうと、すぐに返せなかった。
 白石の後ろには石田が立ち、前には忍足がひざまずき、肩揉みと足裏マッサージを施しているのだから。
「俺は健康マニアさかい、皆こうして揉んだりしてくれてん。んー、そこそこ」
 石田の肘が白石のツボを程よく刺激して、心地よさに彼は身震いする。
「お、おう」
 ようやく遠山も理解し始めた。
「ご主人様、お待ちいたしました」
 遠山の後ろから財前がトレイを持って、上に載った青汁のグラスを丁寧に白石へ渡す。
「おおきに。キンキンに冷えとるなあ」
 くーっ。グラスを傾け、一気に飲み干す白石。
 ちなみにこの青汁。果物の果汁が入っているので飲み心地バツグンなのだ。
「凄かとね。去年もやったらしいばい」
 テニスウェアに着替え終えた千歳が遠山に声をかける。
「………………………………」
 遠山はぽかんと口を開けて、王様気分の白石とその家来たちを眺めた。
 やがて我に返ると、呟くように言う。


「白石、今日が誕生日やったなんて、教えて欲しかったわ」
「堪忍な金ちゃん。自分から言い出すもんやないやろ」
「そうやって四月生まれは祝われんまま過ぎるっちゅーもんなんやなぁ」
 忍足が白石の脹脛を揉みながら茶々を入れる。
「ワイも四月やからわかる」
「金ちゃんにも四月生まれの哀愁があったんか。親近感湧くわー」
 くすくすと白石は笑う。上機嫌だけあって彼はずっとにこにこと嬉しそうだった。
 遠山と白石、二人は遠山の入部早々意気投合して親しくなり、もっと仲良くなれたような気分になる。
「ワイ一日や」
「ホンマ?もう会った頃には過ぎとったんやな。なんなら一緒に祝おうか?」
「それはええ。せやけど、ワイも皆と白石を祝いたいんや」
 息を吸い込み、言い放つ。


「ワイもマッサージしたい」


 ………………………………。
 ………………………………。
 ………………………………。
 和気藹々とした雰囲気が一瞬で凍りついた。
 笑顔のままで硬直し、沈黙する先輩たちに遠山はキョロキョロと周りを見回す。
 遠山の怪力は入部して数日でも部員は熟知していた。
 手加減のなさも当然熟知していた。
 本当に恐ろしいものは性質の悪い冗談に聞こえてしまうもの。
 本当に恐ろしいものを前にした時、人は却って笑ってしまうもの。
 へ、へへ、へへ。
 喉で低く音を出す、気色の悪い笑いが部室を包み込む。
 とっさに何を返せば良いのか、上級生は言葉を失っていた。
「あかんの?」
 しゅんと眉を下げ、遠山は聞く。
「あ、あかん訳やないけど」
 遠山は好意で言ってくれているのだ。無下には出来ない。
「じゃあ」
 遠山の顔が輝く。
「いやいやいやいやいやいや。ほらマッサージは銀と謙也にやってもろたし」
「ワイ、テレビで観たで。こう、頭のマッサージあるやろ?まだやろ?」
 ぎゅーっ。胸の前で手をジェスチャーさせる。
 おんどれ人のどたま潰す気か。
 関西人必殺の突っ込みも、ここはなんとか心の内だけにしまっておく。
「金ちゃん。気持ちだけでええよ。十分や」
「けど…………」
「そろそろ時間や、着替えなさい金太郎。な?」
 白石は石田と忍足にマッサージをやめさせ、礼を言って立ち上がる。
「先にコート行ってるでえ」
 ははは。乾いた笑いをしながら部室を出て行った。


 残って着替えだす遠山だが、気落ちが見られる。
 まだ部屋にいた千歳は元気付けようとした。
「金ちゃん。白石に金ちゃんの気持ちは伝わっとるよ」
「千歳ぇ」
 遠山は目を潤ませて振り返る。泣きつきそうな勢いであったが、彼は千歳の後ろにあったテーブルに手をついた。
「白石には入った早々迷惑かけっぱなしやから」
 そこに置いてあったハンドグリップをおもむろに掴む。誰か狙って置いたとしか考えられない。
「ワイの手で喜んで欲しかったんや」
 歯がゆそうに力をこめる。
 メリメリメリメリ…………ボキン!
 軋んで金具が折れた。
 この子恐ろしか――っ!おっとりした千歳も恐怖する。
 遠山金太郎。入部一ヶ月も経たずに、超新人への片鱗を見せていた。




 一方。コートで練習をする上級生たち。
 彼らの視線は部室の入り口に集まっていた。遠山がなかなか出てこないのだ。
「ちいとばかし、きつすぎたかな」
 白石に申し訳ない気持ちがこみあげてくる。
 マッサージは絶対に断るにしても、もっと気の利いた事でも言えば良かったのかもしれない。他にどうとでも替わりの提案は出来たはず。彼は後悔する。
「部長」
 いつの間にか横に立っていた財前が耳打ちした。
「油断はあきまへん。忠告しときますわ。あいつは一度決めたもんはそうそう諦めません」
「せやけど金ちゃんに悪気はないやろ。邪険に出来んわ」
 話を続けようと財前が口を開けた時、丁度遠山と千歳が部室から出てきた。
 白石は軽く手を上げて財前に詫び、彼らの元へ駆けて行ってしまう。
「部長。ご愁傷さんです」
 財前は石田の真似事のように手を合わせる。
「貴方の意志はようわかりました。どうぞその深い心であいつを受け入れてやってください」
 財前と遠山は同じ小学校の出身であった。彼の気に入ったものにかける情熱は、違う学年でも良く知っていた。
 遠山の“白石の誕生日に何かをしてやりたい”思いはそうそう揺らがない。
 単純な彼の事。マッサージ以外の選択まで考えは回らない。何が何でも彼はやりきる。
 考えれば考えるほど、明日の部活は部長が不在の予感がした。




 昼休み。白石は中庭のベンチに寄りかかり、昼飯のパンを頬張っていた。
 教室の中でも散々クラスメイトにマッサージをさせられた。さすがに健康にこだわっていても、ああいうのは程ほどが丁度良いのだ。皆、老人への肩叩き感覚とでも思っているような気がしないでもない。四月生まれは同じ学年でも年寄り扱いされてしまう。
「白石ぃ」
 聞き慣れた声がして、辺りを見回そうとした首が捉えられた。
「ワイや、金太郎や」
 白石の頭を両手で掴み、遠山が後ろから顔を出して名乗る。
「金ちゃん。どうしてここが」
 身に危険がある時は人の多い場所に逃げ込んだほうが良い。
 いつかのテレビの特集でやっていたような。そんな事を思い返した。まるで走馬灯である。
「謙也や。白石、クラスでもマッサージされてたんやろ?なんで皆は良くてワイはあかんの?」
「あー、その、金ちゃんは一年やろ。入ったばかりの後輩にそんな事はさせられん」
「ワイはかまわへん。部長さんにはこれからも世話になるしなっ!」
 ぐっ。指に力が入った。
 ツボもへったくれもなく、痛い。
「痛っ、痛いわ金ちゃん」
「堪忍。頭のマッサージ初めてやねん」
 怖くなる事をさらりと言ってのける。
「じゃあ金ちゃんの慣れた揉み方でお願いするわ」
 最悪の事態をこれで抜け出せた気がした。
「肩叩くわ」
 とん、とん、と肩を叩き出した。やや強いが、耐えられる力であった。それに絶妙な加減が意外と効く。
「金ちゃん上手いな」
 はー。頬を上気させ、悦に入る。
 これぞまさしく祖父と孫のような姿だが、二人とも喜んでいるので通る生徒は誰も突っ込まない。
「んー、もうちょい左……そうそう、首の方も」
 つい要求を出してしまう。
「あ」
 遠山は何かを閃く。
「ワイ、この圧し方は知っとる」
 親指を出して首の骨の間、柔らかい肉を圧し込む。
 ごりっ。白石に悪寒が走る。
 ごりごりっ。ぐぎっ。首が力なく傾き、白石は撃沈された。


 ついさっき二人の姿を見かけた生徒は、遠山が白石を担いで校舎へ向かうのを目撃し、目を白黒させていたという。
 保健室の先生の判断によると、安静にしていれば治るとの事。だが、放課後の練習は止められて、指導のみとなった。


「白石、堪忍」
 遠山は何度も白石に詫びていた。
「今度は気をつけような」
 首を曲げずに遠山の頭に手を置く。財前の忠告が痛い程身に染みていた。
「今度こそはちゃんとやる」
 顔を上げる遠山は輝いていた。
「は?」
「任せとき、最高のマッサージしたるわ」
「………………………………」
 身体ごと横に曲げ、他のメンバーを見ようとすると、彼らは皆視線を逸らす。
「部長は健康が一番や。白石の健康はワイが支えたる!」
 十五歳の幕開け。前途多難な荒波が目に見えるようであった。







四月生まれの哀愁をこめてみた。
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