眠気



 四月二日、春。亜久津の誕生日であった。


「行って来るよ」
 昼が過ぎると河村は自転車に乗り、亜久津へと走らせる。
 今日は暖かく天気も良く、自転車の速さで受ける風がとても心地が良い。
 広い通路へ出ると、彼は“あっ”と声を上げた。


 前の歩道を同年代だろう少年たちが歩いている。
 近付けてよく見ると、それは菊丸と桃城。彼らが行く道の脇から越前がやって来て、そのまま並んで同行した。三人は同じ大きさのスポーツバックを下げている。恐らく、ストリートテニス場などで打ちに行くのだろう。
 河村はテニス部を引退してから、板前の修業に入り、高校からは本格的なものになる。己のけじめとして、あまりボールには触っていない。仲間も彼を思ってか、あまり誘っては来ない。
 ただ気軽に、声や挨拶一言でもかければ良いだけなのに。
 なぜだか良い言葉は思い浮かばず、通り過ぎてしまった。


 亜久津の家へ辿り着くと、彼は眠そうな顔で河村を招き入れた。
 欠伸を一つして、ババアは仕事に出かけたからいないと言う。
 ババアじゃないでしょうと、嗜めようとするが今まで言った回数を思い出して無駄だとやめる。
 冷蔵庫を開け、飲み物を漁りながら亜久津は呟く。
「河村、お前も今日は遅く起きたのか」
「え?」
 河村は動きを止め、瞬きさせた。特に普段通りに今日は起きたからだ。
「締まらない顔をしてやがる。何か言いたい事でもあるのか」
「あるよ。今日は亜久津の誕生日だろう?おめでとう」
「…………それとは別の事だ。まあ良い、適当に座ってろ」
 バタン。やや大き目の音を立てて、冷蔵庫の蓋が閉まった。






 一方その頃。亜久津の家へ続く横断道路を壇が体に似合わない大きさの箱を抱え、危なっかしい足取りで渡っていた。
「あれえ」
 丁度、偶然かラッキーなのか、道を通りかかった千石が壇を見つける。
 一緒にいた南と東方を呼び、指を差す。
「ねえ、壇くんだよね」
「本当だ。お前、目ぇ良いよな」
「あれ前見えてないんじゃないか。危ないぞ」
 彼らは小走りで壇の元へ行き、箱を上から持ち上げた。
 急に軽くなった箱と持ち上げた先輩の顔を、壇は見上げる。
「先輩!」
「やあ奇遇だね。大荷物でどうしたんだい」
 横断歩道を渡り終えると、壇は事情を話した。
 箱の荷物はケーキで、誕生日である亜久津へ届けるつもりだったらしい。
「今日は亜久津の誕生日なんだ。知らなかった。二人は知っていた?」
 千石が南と東方を見ると、二人は同時に首を横に振る。
 亜久津は自分の事をあまり話さない上に、聞ける雰囲気も作らないので謎が多い人物であった。
「先輩たちはどこへ行くんです?」
「俺たちはストリートテニス場へ行くつもりだったんだけど……俺も亜久津の家に行きたいなー」
「千石お前、亜久津じゃなくて亜久津のお母さんが目当てなんじゃないか?」
 南が素早く意見を放つ。伊達に部長を務めていた訳ではない。千石の気まぐれはほぼ八割女絡みであった。
「残念だな千石。この時間はたぶん仕事でいないと思うぞ」
 続いて東方が追い討ちをかける。
「そっか残念。じゃあテニスを」
「やっぱ母親目当てかよ」
 すかさず二人がかりの突っ込みが入った。
「結局、どうするんです?」
 壇が話を元に戻した。口調が若干尖ったようにも聞こえる。
 優柔不断さに予定を狂わされているのだから無理もないだろう。結果、何かの縁だと千石、南、東方は壇と共に亜久津の家へ向かった。
 彼らがインターホンを押すまで、そう時間はかからない。
 レンズを覗き込んだ亜久津の“ゲッ”という呟きは河村の耳にも聞こえた。


「亜久津先輩、お誕生日おめでとうですダーン!」
 ドアを開けるなり、壇が箱を突き出すように亜久津に手渡し、その後ろでは千石、南、東方が生暖かい目で拍手を送る。罰ゲームさえも思えてくる、実に恥ずかしい光景であった。
「山吹の皆、こんにちは」
 そんな亜久津の後ろから、河村が顔を覗かせる。
「お、河村くんも来ていたんだー。やあ」
 千石が手を振り、次に南と東方も手を振った。
 河村の瞳は無意識に彼らが下げていたスポーツバックに向けられる。
 彼の視線に気付いた東方はストリートテニス場へ行く途中だったと答えた。
「へえ」
 相槌を打つものの、河村の視線は動かない。
「行くか」
「え?」
 亜久津の一言に、五人は彼に注目する。
「コイツを冷蔵庫にしまって、行くぞ」
「亜久津、テニス……するの?」
 千石が目を丸くさせた。
「しちゃ悪いのか。ラケットを取るのは面倒だから、誰か貸せよ」
「良いけど……さ」
 南は東方と顔を合わせた後、壇に問う。
「壇も行くか?」
「はい!」
「河村も行くだろ」
「ん、ああ」
 一息置いて、河村も賛同する。
 こうして六人はストリートテニス場へと向かう事になった。
 道を歩く途中、河村はいきなりテニスをすると言い出した亜久津の背をぼんやりと眺める。


「なんだよ」
 振り返り、面倒くさそうに亜久津は河村の顔を睨むように凝視した。
「眠気は取れたみたいだな」
「だから俺は」
「お前はその方が良い」
 言い終えると視線を逸らして前を向く。
 何も言い返す言葉は無い。妙に気恥ずかしい思いが込み上げた。







タカさんの理解者・亜久津を目指すと、なぜか電波になります。
Back