両手首に付けられた手錠が鈍く光を放った。
それを繋ぐ銀の鎖は必要最低限の長さ。
足首は革のベルトで固定されて動くことは出来ない。
ベッドの上で月は竜崎の手によって次々に拘束具をつけられていた。
急遽竜崎がLとして外に出なければならなくなったのだ。
月を連れていく訳には行かないので、Lのいない間だけもう一度拘束される事となった。
今日の午後、今から出発して帰ってくるのは明後日の朝。
たいして長い時間ではない。
「今度は後ろ手にしないんだ?」
「不便でしょう?本も置いていくので暇つぶしにどうぞ」
「待遇が向上してるね」
「そうする程度には信頼しているんです。決して裏切らないで下さい」
足首を繋ぐベルトに鍵が掛けられた。
これで必要時以外はベッドの上で過ごすことになる。
「食事と排泄の時だけ拘束を解かせます。鍵は松田さんに預けておきますので」
「監視も松田さん?」
「いえ、あくまで鍵だけです。監視の方は私がパソコンを通じて行います」
「そう」
月は気のない返事を返した。誰が監視をしようとも見られている事には変わらない。
「では行ってきます」
Lが覗き込むように顔を近づけて言った。
月は拘束された両手をあげ、片方だけで手をふる。
「行ってらっしゃい」
Lに見送りの言葉をかけるのが、妙にくすぐったかった。
ドアの向こうにLが消えていく。
ガチャンとドアの閉まる音が響いた。
手持ちぶたさに月は文庫本をめくった。
今回の拘束は短期間であるし、両手も前に拘束されているせいで多少自由だ。
監視されているとはいえ久々の一人の時間を充実しようと思っていたのに、どうにも気が乗らない。
本を読もうとしても全身をとりまく妙な違和感に集中できなかった。
結局読むことを放棄した本を置いて、月は違う本を取ろうとした。
そのとき手錠がすれてしまい、左手首にちいさな痛みが走った。
左手を見れば当然だが手錠の銀の輪がはまっている。
そこから繋がれた鎖は短く、すぐ近くの己の右手首とつながっている。
それを知覚したとき、どうしようもなく月の胸が強く鳴った。
心臓が刻む鼓動が早い。
脂汗が背中をすっと流れた。
怖い。
月は深く呼吸して冷静になるよう努めた。
だがそう思えば思うほど体は言うことを聞かない。
原因は分からないが、月は現在の自分の状況に恐怖を感じていた。
自分の手から繋がる鎖にLがいないと改めて感じた、その瞬間から突如違和感が恐怖に変わったのだ。
いくらでも沸いて出てくるそれを振り払う様に月はベッドの上でめちゃくちゃに暴れ回った。
「月くん!?」
どれくらいの時間が暴れ回ったのか。
松田の声に月はやっと我に返った。
部屋も月もひどい有様だった。
暴れた疲労で憔悴し、髪はボサボサに乱れて、手首は手錠がすれて切り傷を作りうっすら血がにじんでいた。
部屋の方もベッドで暴れたためシーツはグシャグシャだし、床にはたくさんの本が散乱している。
ベッド脇の小さな棚の上にあった照明機具は床に落ちて無惨な姿をさらしていた。
「ど、どうしたの?」
松田の心配げな声にやっとの思いで月は答えた。
「すみません……一人が落ち着かなくて」
落ち着かないとか、そういう問題じゃないなと月は自嘲した。
考えてみれば月はずっとLと一緒に行動してきた。
完全な一人など監禁されてからまったくない。
監禁されたときだってなにか言葉を言えばLは答えたし、向こうから尋問されたりもした。
牢では一人だったが、決して一人ではなかった。
そのため自分しかいないと言うこの状況をおかしく感じてしまう。
「今までずっと竜崎と一緒だったしね。環境が変わって慣れないのかも」
いかにも人の良さそうな笑みを浮かべて松田は言った。
「食事の間ここにいるよ。竜崎も向こうで監視してるだろうし、たぶん大丈夫」
「ありがとう……ございます」
食事のために松田は月の拘束を解こうと右手を手にとった。
手錠が外れて左手から釣り下げられる。
もう片方も外そうとした松田の手を、月の手が拒絶した。
「こっちは外さなくても大丈夫です」
「でも不便だよ?」
「いえ、大丈夫です」
穏やかな口調ではあったが、月の言葉には明らかな拒絶が含まれていた。
不精ながら納得した松田は、食事を運びそのまま部屋でずっと月と話した。
捜査の話から始まってだんだんとたわいない世間話になって行く。
その間月は暴れる事はしなかった。
だがそれは松田の前で不様な姿は見せられないという月の必死の自制あってのものだった。
恐怖や不安は薄れる事がなく、松田の言葉を聞き流しながら自身の手錠をずっと見つめていた。
二日目の月の姿はさらに悲惨だった。
夜は降り掛かる不安感に苛まれ、月はほとんど眠る事が出来なかった。
松田が皆に話したのか、暴れる月を心配して代わる代わるの人が月の部屋を訪れてきた。
ベッドの上で憔悴した表情と虚ろな目をしてうなだれる月の姿は痛々しかった。
周囲のものたちはその様子に心配したが、月の方はすでに恐怖と戦う術を見煮付けていた。
まず1つ目、己の右手にある手錠を見る事。
左手首は見てはいけない。あくまで右手だけを見る。
2つ目が思い出す事。その対象はただひとり、L。
顔とか、普段の行動とか思い出せる限りを思い出す。
特に有効だったのが声だった。
あの顔に似合わない低めの声を思い出すと、多少神経が休まった。
この2つを行い、外界からの情報はなるべく遮断するようにした。
この場にLがいない事を知覚しないようにして、己の感覚にまるで隣にLがいるように錯覚させる。
そうしてようやく平静を保てるようになった。
父親である総一郎はなんとか月の心を浮上させようと、普段はなかなかしない母親や粧裕の話もした。
2ヶ月近く会っていない家族の話はを聞いても、月にとって意味はなかった。
父親達がこの場にいる事も意味がない。
今の月にとって価値があるのはたった一人だけだ。
何の話にも反応しない月に気づかう大人達は暗い気持ちになり、結局その場を後にした。
自分達にできる事はないと悟ってしまったのだ。
既に二日目の夜も大分ふけてきた。
取りあえず月が暴れる事をしなくなったので、皆元の部屋で捜査作業を行っていた。
ただ月の様子が気になりなかなか作業は進まなかった。
とくに総一郎はさらに心労が嵩んだらしい。いつも以上に疲労の見える表情だった。
「月くん、大丈夫かな」
松田の言葉に皆顔をあげた。
誰もが思いながら口にしなかった言葉だ。
重い空気が流れる。捜査本部の人間達はおおむね月に好感を抱いていた。
そして出来るなら彼がこうなった原因を取り除いてあげたいと感じているのだ。
そんな重苦しい沈黙を破ったのはドアの開く音だった。
扉の向こうから現れた人物に皆驚きの表情をかくせなかった。
「竜崎!!」
「みなさん夜遅くまでお疲れ様です」
「明日帰ってくるんじゃ……」
「用事が早く終わったので帰ってきたのです」
Lはさらりとそう言って、いつものずるずると足を引きずるような歩き方でこちらに向かった。
飄々としたLの様子に松田は声を張り上げた。
「そんな事より月くんが大変なんです!」
「知ってますよ、監視してたのは私ですから」
いつもの淡々とした調子の言葉に松田は声を失った。
分かっているのなら対処法に付いてとか、何か連絡して欲しかったのだ。
「夜神くんの今の状態は依存症のようなものです。心配はいりません」
「依存症?」
「アルコール依存症の人は酒がきれると暴れたりするでしょう?あれと同じです」
その言葉に総一郎は立ち上がった。顔にはうっすら脂汗をかいている。
「月の依存するものとは……まさか」
「今、夜神さんが想像している通りの物です」
「まさか……そんな状態あり得るのか?」
Lと総一郎の言葉に察した相沢が思わず呟く。
普通なら常習性のある酒や煙草とは訳が違う。
「監禁と言ういわば極限状態において、夜神くんと接触していたのは私だけでした」
確かに監禁されている間、月と話したのはLただひとりだった。
世話をする者も、捜査本部の者も彼と会話する事はなかった。
外界を繋ぐ唯一のものがLだったのだから、そうなっても仕方はなかったのかも知れない。
一応納得の形を見せた捜査本部の者達をLは黙って見つめていた。
依存を監禁が原因とすれば、ミサだって同じ条件の筈だ。
それなのに月だけがそんな風になってしまったのは、Lがそうなるように仕向けたからだ。
Lという存在を忘れないように、いなければ駄目だと錯覚させるように月の精神を誘導した。
もし彼がキラであるならばLに依存した事は屈辱的だろう。
そのうえ依存が解けなければLにとっては身を守る事にも繋がる。
「それでは私は夜神くんの元に戻ります」
「あぁ、息子を頼む……L」
Lの言葉に総一郎は苦渋に満ちた顔で言った。大切な息子がそんな状態になったら無理もないだろう。
「大丈夫ですよ。夜神くんはきっと立ち直ります」
慰めの言葉は事実を知っていれば白々しいものでしかなかった。
月のいる部屋に向かうLに総一郎は「すまない」とLの労いの言葉に感謝した。
Lは振り返らずに歩いて行った。
月はベッドの上で横たわっていた。
扉の開く音にも人の気配にも反応する様子はない。
Lはそっと音をたてないように月の横まで歩いて行った。
まだ気付かない。月の目はただひたすらに右手首の手錠に向かっている。
「夜神くん」
Lの言葉を聞いた瞬間、月の目にふっと生気がともった。
そっと首を動かしてLの方を見る。
「え・・る」
「早めに帰ってきました。手錠をするので右手をどうぞ」
月は縛られた身体を無理矢理動かし、そのままLの胸の中になだれ込んだ。
「夜神くんらしくないですよ。どうしましたか?」
「うるさい!どうせお前のことだから、分かって言ってるんだろ?」
「えぇ、そうですね」
Lはそのまま月の柔らかい髪に包まれた頭を撫でた。
子供にするような態度に普段の月ならば怒ったところだろう。
だが今の月はむしろ穏やかな表情をしている。Lは月を自分の手中におさめた様な優越感を感じた。
月がそっと右手を差し出した。手首は既に傷だらけになっている。
傷に触れないようにそっといつもの手錠をかけた。手錠の反対側は自分の左手につける。
そして月の手首を傷つけた短い手錠と足首を拘束するベルトを外す。
シーツの上に落ちたそれらをLは摘まみ上げてベッドの下に落とした。
月の目の下あたり、隈ができて色素が変化してしまってる部分をそっと指で撫でる。
「疲れているのでしょう?私も疲れましたから眠ってしまいませんか?」
Lは別段疲れなどを感じていなかったが、そう言わないと月の性分では眠らないだろう。
月はLがベッドに入れるように移動する。寝転がったLと月の隙間はほとんどない。
いつもならこんなに密接して眠ろうとする事はない。
それだけ月は自分の元にいたいと思っているのだ。たった1日離れただけで。
だが総一郎に言った「きっと立ち直る」という言葉もまたLの本心だった。
キラならこの状態を乗り越えて、きっと自分を殺そうとするはずだ。そうキラを信じている。
そしてもし月がキラではなく、依存から立ち直ることが出来ないのならばそれはそれで良い。
Lは夜神月を手に入れることが出来る。
「おかえり、竜崎」
「ただいま、夜神くん」
月の言葉にLはかすかに笑った。
月の手は手錠の鎖を握っている。それほどまでにLの不在を恐れていたと言う事だ。
このまま自分の物でいるか、Lから離れて行くのかはまだ分からない。
だが今はまだ自分の元にある月を楽しむ時だろう。
Lは月の額に口づけた。
いつも悪態ばかりつく月が安堵したように穏やかに笑った。