ことの始まり
古めかしいアンティーク時計の鐘の音が深夜十二時を告げた。捜査資料の密集した細かい文字列を追いすぎて、疲れを訴える目をこする。
「月くん、そろそろお帰りになりますか?」
月が疲労を見せたのをすぐに察知してLが声をかけてくる。
「いや、明日は休みだしもう少しいるよ」
にっこりと外行きの笑顔で答える月に、体を伸ばしながら松田が言った。
「偉いなぁ、月くん。僕なら喜んで帰っちゃうよ。もうずっと家に帰ってないし」
笑いながら言ってはいるが、松田の顔の疲労の色は濃かった。
確かにもうかなりの長い間、月は家で父に会っていなかった。
母さんも粧裕も心配している。
そう月が総一郎に伝えると無意識なのか深いため息が漏れた。
「捜査のためだからな。仕方ない」
「家族より仕事ってわけですね」
相沢がそう言いながら持っていた資料を整えて松田に渡す。
受け取った松田はじっと相沢を見つめた。
「なんだよ?」
「いや、相原さんって確か結婚してましたよね?」
「まぁな……最近は帰る度にけんかだよ」
今の相沢の生活を考えると、すぐにけんかになるのも仕方のない状況だった。
不定期に、それも寝るためだけに帰る様な生活では家族に不満も出ると言うものだ。
不満は不和を呼び、相沢もその家族もストレスが溜まっている。
「竜崎、定期的な休みって取らせてあげられないの?」
月の言葉に皆顔をあげた。
出来ればそういう休みが欲しいと考えても、なかなかLに対して言えるものではない。
月はLに正面から意見を言える貴重な存在でもあった。
「…………それをするメリットってあります?」
いぶかしげな表情でLは月を見やる。
Lとしては月が捜査本部の弱体化を狙っているように見えるのだろう。
もっともそんなつもりの発言でもなく純粋に捜査本部員を労っての言葉だったが。
「定期的な休暇のメリット……作業能率の向上、かな?」
適度に休まないと人にはストレスが溜まる。
生活環境が変わったうえ家族までイライラしていれば、それだけのストレスが加算されるというものだ。
ストレスが作業効率を悪くするのは周知のこと。
しかしLの方は眉間にしわを寄せて悩むような仕種をしている。
「ストレスと作業効率はわかります。
ですが相原さんが帰らないことによって家族にストレスが溜まる関連性。
そしてそれが何故相原さんに影響するかの因果関係が分かりません」
説明を求めるLに皆呆気にとられてしまった。
なかなか帰ってこない事への不安、それを受けての不和。
割合良くある話の筈だ。その2つを結び付けられないLに耳を疑う。
「家族なら普通じゃないか?」
なんとか月がそう言っても、Lはきょとんとして首を横に振っている。
どうやら根本的に理解していないようだった。
「竜崎って家族は?」
「そういう話は黙秘します」
そんなことを言われても態度が普通の家族環境で育ったことを否定している。
「竜崎、一般的な家族の繋がりとかを知っておくべきだよ」
「……正直この年齢だと今更な気がしますが」
月の言葉にLは否定的だ。
幾つだか知らないが少なくとも月よりは年上だろう。
それでごく一般の家族関係を知らないのなら同情すると月は思った。
Lは同情なんてされたくもないだろうが。
「でも竜崎の年齢だったらこれから結婚って年齢でしょう?」
年齢不詳の男に向かって暢気に松田が言う。
「だったらむしろこれからって感じじゃないですか!
結婚して家族を知れば良いんですよ!!」
努めて陽気に振る舞う松田はLの境遇に思いっきり同情しているのだろう。
しかしとうのL本人には通じていない気遣いだった。
松田の意図した陽気さを不審に見ている。
「まぁ早く結婚して、俺や局長みたいな家庭人の苦しみを分かって下さい」
相沢もLに気を使ってか、この話はもうこれで終わりと冗談の様な切り上げる言葉を言った。
だが予想外にもそこでLが口を開いた。
「確かに家庭を知るというのも良いかもしれませんね。
相原さん達の采配にもこれから先の捜査にも使えそうです」
意外なほど積極的な言葉に月は笑う。
「何?結婚する気にでもなったの? 」
それを聞いて相変わらずの表情が読めない顔でLが言った。
「はい。月くん、結婚してください」
「は?」
「結婚です。して下さい」
誰もが固まったまま身動きとれなかった。
月が混乱する思考を抑えてやっとの思いで口を開く。
「おもしろい冗談だね」
いつもなら当然付いてくる作り笑いも、この状況じゃひきつった笑いしかでてこない。
「冗談じゃありませんよ」
「真面目な話か?」
「真面目な話です」
あまりにきっぱりとLが言うので月は居住まいを正した。
すると月が真剣に聞く気になったのを察したLもきちんと椅子に座る。
あまり見ることのない普通の状態で座るLに皆真剣になる。
「竜崎、理由を述べてくれ」
「前述した捜査をする上での有効性です」
「僕である理由は?竜崎と結婚したい女性なんて、いくらでもいるだろう?」
「あくまで知りたいだけなので。
極端な話、理解したらすぐに止めるつもりですから。長くても一週間程度です。
ただそれだけのために女性と結婚するのは気が進みません。
相手を傷つけますし」
つまり僕だったら別に傷つけても良いということか。
そう言われたような気分になって少し苛つく。
しかし傷付くというのは竜崎の事が好きであると言うのが前提だ。
そんな事あるはずがない!
月は心の中で先程のいら立ちを思いっきり否定して、それをお首にも出さない穏やかな笑みで竜崎に確認する。
「つまり一般家庭のシミュレーションをしたい訳か。僕相手に」
「そういうことです」
家族をシミュレートしたいのならば普通に兄弟でも良いだろう。
それだったら父さん相手に親子のシミュレートもできる。
提案してみるも、Lは首を横に振った。
理由を問えば、自分の年令では幼い頃に過ごす事がもっとも重要な家族体系である兄弟というシミュレートには無理があると言う事。そして月が嫁にくればその父親である総一郎は自動的に『お養父さん』になるからという。だったら『嫁』の方が一石二鳥と言う考えらしい。
それを聞きぴくりと月のこめかみが歪んだ。
Lは普通に話しているが、端から見ていると月は怒りが視覚的に認識できるんじゃないかというくらい、あからさまに怒っている。
しかしLはそんな事を気にしなかった。
「ですから私と結婚して下さい、月くん」
再度Lの口から放たれたプロポーズに皆遠い目になってしまっている。
すっと月の形の良い口が開かれた。
どんな怒りの言葉が出てくるのかとギャラリーがどぎまぎする中、月はLに極上の笑顔を向けた。
「良いよ。結婚する」
「えぇっ!?」
あまりに意外な言葉に思わず皆声をあげた。
あんなに怒っていたのにあっさりと承諾する月が意味不明だ。
「ただし、やるなら徹底的に」
「了解しました」
「本気か!?月!」
総一郎の驚きの声に月は笑って答える。
「うん」
「しかし、結婚だぞ!?」
「父さん真剣に取りすぎだよ。
シミュレーションなんだし、ごっこ遊びみたいなものだ」
「いや、しかし……」
総一郎はなおも良い募る。
突然の息子の嫁入りという意味不明の事態に混乱しているらしい。
もう傍観することしかできないと遠目に見守る松田に突然Lが話し掛けてきた。
「松井さん」
「な、なんでしょう?竜崎」
「父親に結婚を認めてもらう時にはなんて言うのが一般的ですか?」
「えっ?そうですね…………
たぶん『娘さんを僕に下さい!幸せにします!』
って感じじゃないですか?」
「なるほど」
Lの唐突な質問によく分からないながらもきちんと答える。
納得の言葉になんとか期待に添えた答えを出せたとほっとする。
「馬鹿」
だがそんな安心する松田に向かって相原がつぶやいたのが聞こえた。
なんでそんな事を言われなくてはいけないのか聞こうとしたが、その前にLが総一郎に向かって言う。
「夜神さん、息子さんを私に下さい。幸せにします」
松田の言葉を引用して、実にスタンダードな両親への告白をLは言った。
「竜崎!冗談も程々に……」
「ありがとう、竜崎。幸せにしてね」
反論する総一郎の言葉を遮って月が言った。
あまりの事態に総一郎の方は言葉を失い茫然としている。
だがすぐに復活してがみがみとLと月に考え直すように迫り続けた。
「だから言っただろ……」
竜崎の行動が想像ついていた為に相沢は深いため息を吐く。
何を考えて入るのか良く分からない上司だが、今は完全に夜神局長をからかう為に行動している。
態度とは裏腹にやけにノリの良い月もそうなのだろう。
結局気があっているのだ、この2人は。
「ごめんなさい、相原さん」
自分の一言が騒ぎを大きくしたと思った松田が素直に謝る。
「いや、どっちにしろ避けられなかったろう。これは」
竜崎が提案した時点でどう足掻いても実行に移すに決まっているのだから。
しかし相変わらず常識に囚われないと言うより奇抜な人間だ。
「どうなるんでしょうね、これ」
「さぁ……」
松田の問いかけに、答える事が出来ない相沢は思った。
絶対なにか起こる。
言い知れぬ不安に苛まれながら相沢はため息を付いた。