いってらっしゃい
目覚ましの音が鳴る。いつもより一時間早い目覚めの合図に眠気を押さえながら僕は起きあがった。
うるさく鳴動する目覚ましを叩き、音を止める。
『機嫌悪そうだな、月』
横から眠らない死神が声をかけてきた。
僕はそれに答えずため息を付いて自分の現在の状況を呪った。
自分の状況……
あの竜崎の奥さんだ!!
最悪すぎる。
心の中のつぶやきはそのまま表情にでてしまったらしい。
リュークが呆れたように僕を見た。
『月が結婚して良いって言ったんじゃないか。嫌ならしなきゃ良いのに』
死ぬほど嫌だったけど相手がLじゃ断れないんだよ!
怒鳴り散らしたい心をなんとか押さえた。
リュークとの会話も気を付けないといけない。
隣の部屋にはLがいるのだから。
僕は部屋を出ると顔を洗うために洗面所に向かった。
冷たい水をかぶると頭の方も切り替わる。
ついでに目の前の鏡に向かってにっこり笑ってやった。
我ながら完璧な笑顔だ。
大丈夫、自分はやっていける。
自己暗示のように自分の心に言い聞かせると、本当に大したことはないように思えた。
第一結婚だと考えるから悪いのだ。
ただの同居。
そう考えればLに取り入るのには好都合な状況でもある。
「とりあえず朝ご飯作るか……」
何にしても今は予定通りに行動する事が大事だ。
僕は朝食を作るべくキッチンへと向かった。
二人で住むことになったのは一般的な団地だった。間取りは3LDK。
ごく普通の物になったのは飽くまで一般家庭を学ぶという目的の為らしい。
だが天下のLがこんな所に無防備に住んでいて良いのだろうか?
そんな事を一瞬思ったが、なんで自分がLの危機管理を気にしなきゃいけないんだと思い直すように頭を振る。
『ライト!あそこに監視カメラあるぞ』
僕より一段高い所に眼を持つリュークが窓上の棚に隠れた異物を見つけて言った。
顔を上げてリュークが指し示した場所を良く見れば、確かにレンズらしき物が顔をのぞかせている。
これはあらゆる所に監視カメラがついていると考えて良いだろう。
もしかしたら盗聴機もあるかも知れない。
一緒に住むと決まったからには絶対にLはこれを仕掛けてくると考えていたので、今更驚くことではなかった。
驚く様子のない僕に、リュークは僕がこの事態を予想していたと悟る。
そして昨日の出来事を思い出したらしい。ぼそりと呟いた。
『昨日月がやけにリンゴくれたのはこのせいか……』
そうだよリューク。食い溜めさせてやっただけ有り難く思えよ。
口に出しては言えないので代わりにリュークに向けて少し意地の悪い笑みを向ける。
ふと時計の長針が動くのを目の端で捕えた。
時間が過ぎるのは早い。
早く朝ご飯の用意をしなければと僕は冷蔵庫をあけた。
とりあえず中には一般的な食材が入ってはいる。
だが一週間を過ごすには量が少ない。
あとで買い物に行かなければならないだろう。
何を作るか決めかねていると横からリュークが口を出してくる。
『で、何作るんだ?』
「そう。何を作るかが問題……」
その時ふとある事を思い出して僕はいったん冷蔵庫を閉めた。
1週間だけの自室として与えられた部屋に戻って一冊の冊子を持ってくる。
タイトルは結婚生活シミュレートマニュアル。
二人の(疑似)結婚が決定した後、Lの指示によって松田さんとと相原さんによって作成されたこの本。
これは結婚生活を恙無くこなす為の『教科書』だ。
これを元に僕とLは完璧な結婚生活を送る。
何ごともやるからには妥協してはならないという僕とLの共通意見から生まれたマニュアルだ。
発案はLの方。その提案を聞いた時「流石だ」と感心し心から賛同した。
しかし何故か作成を命じられた松田さん達は微妙な表情をしていた。
理由は分からないが。
(この時松田さんが「結構似たもの同士なんだね」と僕らに言っていた。
Lと似ているだなんて不本意だが一応「そうですか」と笑って返してやった)
とにかく今はこのマニュアルが有効だろうと。僕は急いで朝に関する項目を読んだ。
朝、キッチンにはいった時に
コーヒーメーカーのたてる音とコーヒーの匂いがすると新婚っぽい気がする。
この教科書は一般的な人間(松田及び相沢)が考える結婚生活に関するイメージをもとに生み出された物だ。
抽象的なのはその為だと思いたい。
どこがマニュアルだと突っ込みたくなるこの記述をしたのは松田さんだろうと、僕は頭の中で断定する。
分かる様な分からない様な文だが、要するにコーヒーを用意すべきなのだと読み取った。
必然的に朝ご飯はパンがいいだろう。
コーヒーメーカーをセットして、パンにあわせる為の卵などの下準備を始める。
用意していると、だんだん何故自分がこんな事をしているのかとイライラが募った。
ふと何気なく視線を上にあげるとそこにはまた監視カメラ。
僕はイライラをすべて極上の笑みに変えてカメラのレンズを見つめた。
「お早うございます。
監視大変ですよね。頑張って下さい」
カメラの向こうで驚く誰かを想像して気が幾分か晴れた。
これで自分がカメラに気付いている事も知らせる事が出来たし、牽制になるだろう。
『ライト〜。もうLの奴起こさないといけない時間だぞ』
リュークの言葉に壁掛けの時計を覗き込む。
思った以上に長針は針を進めていた。
「嘘!もうこんな時間?」
朝食の用意に手間取りすぎた。
これを毎日そつなくこなしている母に改めて尊敬の念が沸く。
急いでLの使っている部屋の前まで来たが、一瞬ドアを開くのをとどまる。
なんかあいつがベッドで寝ている姿が思い描けない。
リュークと同じで僕にとっては現実離れしてる存在なんだ。あの男は。
一応ノックをして、そっと中に入る。
今から起こすのに静かに入るのも矛盾した感じがした。
中は僕にあてがわれた部屋とだいたい同じ作りをしていたが、その中で一つだけ違うもの。
Lの持ち込んだパソコンが放置されていた。
「電源付けっぱなし」
誰に聞かせるわけでもないつぶやきにリュークが言葉を返した。
『勿体ないな』
「勿体無い」
独り言を装ってリュークに言葉を返す。
Lはベッドの上で布団を巻き込みながら丸まっていた。
寝汚い子供みたいな体勢に苦笑する。
「起きろ、竜崎。もう朝だよ」
その子供じみた寝方のせいか、なんとなく無理矢理に起こすのがはばかれた。
自分でも驚くほど優しい声で起こす。
「竜崎、朝だって……」
呼びながら体を少し揺り動かすとぴくりと竜崎の体が震えた。
明らかに目覚めていると思うがちっとも起きようとしない。
「りゅうざき?」
嫌な予感。
僕は先刻までの優しい気持ちを忘れ、思いっきり蒲団を引っ張り返した。
それに引きずられるようにマットレスの上でごろりと転がったLは、腹を抱えてぴくぴくと痙攣するように動いていた。
「竜崎!起きてたな!?」
また転がって今度は仰向けになったLは、腹を抱える事で笑いの衝動を必死に押さえ様としている。
「何笑ってるんだ」
「すみません。余りにも月くんが優しかったので……」
「煩いっ!」
喉奥で笑うLに先刻までの自分の態度を思い出して一気に赤くなる。
「いつから起きてた!」
「月くんが入ってくる前からです」
「だったら早くリビングに来いっ!」
「駄目ですよ。だってマニュアルに2回目の呼び声で眼を覚ますってあるんです」
だから蒲団の中で僕が起こすのを待っていたという。
マニュアル式だからって融通が聞かなすぎではないだろうか?
「しかし起きているのにベッドにいると言うのは不思議な感覚です」
「あぁそう……」
「月くん、言い忘れました」
「何?」
「お早うございます」
どこまでもマイペースなLに呆れて、心の中いっぱいの怒りが萎えてしまう。
「……おはよう竜崎。顔洗って来てくれ」
「はい」
独特の歩き方でのそのそと移動するLを見ながら、僕はこんなことで本当に2人で生活できるのだろうかとため息を付いた。
Lが身支度を終えるくらいの良いタイミングで卵が焼き上がる。
一般的な朝食を作り上げて僕はLが席に付くのを待っていた。
「みっともない」
漸くやって来たLが椅子の上に例の体育座りみたいな格好で座ったので、その足を手で押して普通に座らせる。
「これだと推理力が下がります」
「ご飯食べてる間は推理なんてしなくて良い」
Lの意見を封殺して僕も椅子に座る。
コーヒーの良い匂いが香る。
僕の前にはブラックコーヒー、Lの前にはミルクと砂糖を入れたカフェオレ。
テーブルには適度に焼けたトーストと卵が並んでいて、極一般的な朝食の景色と言えた。
「ところで竜崎は普通のご飯って食べられるの?」
「努力します」
暗に食べられないと告白したような台詞に更にため息を付く。
普通の食事だ。酷く不味い物を作った訳でもない。
それでも残されてしまう可能性があると言うのは実に不愉快な話だった。
Lはのろのろと食事をすすめる。
残されるのも不快だが、嫌々食べられるのも不快だった。
「食べられないんだったら残して良いよ」
「いえ。これが普通なんでしょう?食べます」
飽くまで普通の生活を送ると決めている為か無理矢理に口に押し込んでいく。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
漸く食べ終わった、と言うのが感想。
本当にお粗末な結果だった。こんなにあからさまに嫌々食べられるとは予想外すぎる。
あまりにゆっくり食べたせいでもう時間も無い。
「歯磨いてこいよ。支度は出来てるか?」
「身一つで十分です」
「あぁそう。じゃあ早くする!」
ダイニングからLを追い立ててからティッシュやハンカチを用意する。
こう言った小物の場所もすでに昨夜来たときにチェックしてあった。
身一つといってもこれくらいは持っていた方が良いだろう。
適当な鞄に詰めてLが洗面所から出るのを待つ。
テキパキとしたその動作にリュークが感心したような声を上げた。
『ライト本当にLの奥さんみたいだな』
馬鹿なこと言うな!
怒鳴りそうになるのを咄嗟に口を抑えて防いだ。
両の手が離れてどさっと鞄が廊下に落ちる。
「何をしてるんです?」
音を聞きとがめたのか洗面所からLが顔を出す。
「いや、なんでもないから気にしないでくれ。準備は終わったか?」
「はい」
「じゃあこれ」
落ちた鞄をLの胸に押しつけて、玄関まで連れだって歩く。
靴を履くLを見ながら、この引っかける様な靴の履き方は不快だと改めて感じた。
「いってらっしゃい、竜崎」
「はい」
答えた癖に出ていこうとしない。もう時間も無いというのに何を考えているのか。
苛々しながらLが外に出るのを待っていると、逆に向こうから声を掛けられた。
「月くん、マニュアルに従わないんですか?」
その言葉は予想外だった。
正直マニュアルに完璧に眼を通してるとは言い難い。
基本的な生活くらいは分かっているので疑問に思う所だけをその度に読もうと思っていたのだ。
その方が効率的だろうから。
「玄関先でやるような事あったか?」
「はい。いってらっしゃいの後にキスするらしいですよ」
「はっ……何を馬鹿な事を言ってるんだ?」
「でもマニュアルにありました」
あのマニュアルは何故こんなにも新婚仕様なんだ!
どうせなら冷えきった夫婦にしてくれればここまで屈辱を感じる事なかったのに!
「竜崎、夫婦にも個人差と言う物がある事くらい少しの想像で分かる物だろう?」
「月くん、私は完璧な夫婦生活のシミュレーションを望んでいます。妥協するなと言ったのも君です」
「だけど……」
『いってらっしゃいのキス』なんてしない新婚夫婦だって多いだろう。
別にこれがないからと言って完璧な夫婦じゃなくなる訳ではない。
そして何より僕とLは同性だ。
同性でキスするなんて普通嫌悪感を伴わないだろうか?
少なくとも自分には出来れば避けたいくらいの嫌悪がある。
「……男同士でキスしたいか?」
「別にそれを理由に絶対に嫌だと思うほどではないです」
Lの方は平気らしい。だけど僕は嫌だ。
男とキスするのを我慢してもシチュエーションが気恥ずかしすぎる。
「ごっこ遊びみたいな物と御自分で評したじゃないですか。
キスくらい何ともないでしょう?それともファーストキスですか?」
だったら妥協しますが、なんて言われて黙っていられるはずがない。
ちゃんと女の子とファーストキスな済ましているし、男とだって中学高校の友人同士の馬鹿騒ぎの時に罰ゲームでこなした。
「分かった……」
覚悟を決めて、一度息を吐き出す。
自分ならできると自己暗示を掛けて、Lの肩に手を置いた。
「いってらっしゃい」
少し回り込むようにして、僕はLの頬に触れるだけのキスを落とした。
一度触れてしまえば、意外に嫌悪感はない。
「頬に、ですか……」
言いながらLは唇が触れたあたりをそっと撫でている。
その仕種に意識してしまって頬が紅潮するのを感じた。
「何か問題でも?」
頬にキスだって立派に『いってらっしゃいのキス』の役目は果たせているはずだ。
「いえ、問題はありません。いってきます」
これでやっとLを家から追い出す事ができる。
しかしほっとしたのも束の間でしかなかった。
油断していた僕の頬に妙に柔らかい感覚が触れた。
Lの右手が僕の頭を抱えるようにして引き寄せている。
眼前には黒くて硬質な髪が触れあいそうな近さにあった。
触れたらちくちくして、少し痛そうだ。そんな暢気な思考が頭を掠める。
すっとLの唇が頬から離れていった。
あまりの事に呆然としてしまい、何も行動が起こせなくなる。 そしてそのまま耳もとに囁きかけられる。
「熱かったですよ、頬」
手玉に取られたような感があった。
恥ずかしさよりも手の内で踊ってしまったような屈辱感が僕を襲う。
しかしここで醜態を晒してしまう方が屈辱的である。
飽くまで今の自分は『友達の我が儘に付き合って変わった形の同居に付き合っている気の良い友人』だ。
僕は鋼の自制心を持って穏やかな表情を作った。
しかし血が巡って赤くなった頬まで隠し通せる物じゃない。
ガチャンと金属製の扉が開く独特の音がして、外の空気が入り込んできた。
頬に触れる風邪が冷たさを帯びていて気持ちが良かった。
「では、いってきます」
「いってらっしゃい」
屈辱感を殺しながらなんとか普通の調子でその言葉を言うと、やっとLが仕事をしに出ていった。
色々な事に疲れ果てて呆然としてしまったが『忙しい朝だったな〜』というリュークの呟きで、漸くLが家を出ていった事を実感した。
今迄の苛々を全て一言に集約する。
「くそっ!Lめ」