おかえりなさい
夜神月と喧嘩をした。お互いの不満が噴出したと言うそれは、結果良い方向に向かった。
一緒に住むには気遣いと言うものが必要らしい。
夜神は私が彼の料理を食べたいのなら、嫌そうな食べ方は我慢すると言った。
その代わり外で妻としての役割を求めるのは止めろ、と。
私はそれに頷いた。
お互い我慢する。実にフェアな話だ。
しかし私に不可解な感情の動きがあった。
やはり他者に私を友人として紹介されるのは不快だと思う。
私の食べ方が嫌ならばそれを直したい思う。
この感情の動きはなんなのだろう?
私は思った以上この夫婦ごっこを気にしているんだろうか?
カチリと長針が動き時計は6時を指した。
目の前にある監視画面の中で夜神が夕食の支度を始める。
それを見て声を発した。
「今日の捜査はこれで終わりにします」
私のその言葉を合図に捜査員皆が肩の力を抜く。
夜神と生活してからこの捜査の時間もだいぶ規則的になった。
というより規則的にしないと夜神と時間が合わない。
「では松田さん。私が連絡したらいつも通りに」
監視は基本的に私が行うが移動中や私が仮眠を取るときは他人に頼むざるを得ない。
私の指示に松田が少し不満を表した。
「監視、僕ばっかりですよね」
「相沢さんには家族がいますから」
自然と出た言葉に内心自分で驚く。
相沢にも妻がいる訳だから、彼女と合うようにするには不規則な時間は良くないだろうと考えた。
そう自然に思えたのは夜神との生活のせいだろうか。
「わかりましたよ!竜崎は月くん手作りのご飯でも食べていて下さい!」
松田がいい歳をして拗ねた口調で言う。
居残ると食事は必然的にルームサービスを利用することになる。
それが不満なのだろう。
一流のシェフに作られた料理の何が不満なのか。しかし何より……
「松田さんは帰っても手作りの食事は望めないのでは?」
「失礼ですよ竜崎!」
私の言葉に憤慨した様に言っているが真実のはずだ。
松田に恋人がいるという話も聞かないし。
「では月くんの作った食事の為に帰ります」
わざと当てつける様に言って私は立ち上がった。
今日の食事は何だろうと思ったところで改めて自分の変化を感じた。
玄関のドアを開くと少し慌ただしい音をたてて夜神がやって来た。
「お帰りなさい」
その言葉とともに私の唇にキスをする。
どうやらこの自分からキスをするという行為が、自分にはそれが嫌がらせにならないと言う意思表示であるらしい。
負けず嫌いの彼らしい行為だ。
しかし私も負けず嫌いなのでもう少し彼の嫌がることをしてしまいたいと思う。
舌を入れてしまおうか。そんな考えが頭を掠める。
しかしそれをすると確実に夜神は怒る。
同居するには気遣いの心が必要だと言うし、ここは諦めておこう。
私は「ただいま」と言って夜神の唇にキスをした。
しかし夜神の唇の感じがいつもと違う。
確かめようと舌で唇をなぞる様に嘗めると、嫌悪からか夜神がびくりと体を震わせ後ずさった。
勝ったな。
「何するんだ!」
嫌悪にか頬を紅潮させて夜神が言う。
「なんか唇が甘いんですけど甘いものでも食べたんですか?」
「僕が甘い物食べちゃ駄目?」
「そういう訳では」
しかし彼が甘いものを食べるとは珍しい。
その私の疑問は今日の夕食のメニューで解決した。
和食のそれの中には甘く煮付けた豆とか南瓜とかそう言った物が含まれていた。
これが彼なりの気遣いというものなのだろうか?
「甘いのばっかり食べるなよ」
「分かりました」
即答しながらも真っ先に甘い煮豆に箸を伸ばす私に夜神が呆れた様に小さく笑った。
自然に出た笑みに一瞬だけ箸を止めた。
いつもはこんな風に笑わない。もう少し快活な印象を与える笑みだ。
控えめなこれが彼の本来の笑い方なのだろう。
「何見てるんだよ」
「いえ」
誤魔化すように煮豆を口に放り込むと慣れ親しんだ甘さが広がった。
やはり自分は甘いものの方が好きらしい。
連続して食べたかったが夜神が煩そうなので次は普通の焼き魚を食べる。
しかし不思議なことにあまり不味いとは思わない。
他の物にも手を出してみるが普通に食べることができる。
「竜崎、なんだか食べるスピードがいつもより早くないか?」
私の食べる様子がいつもと違うことに気付いた夜神が問う。
「はい。どうやら普通の食事の味に慣れた様です」
「そう?良かった」
夜神がまた自然に笑う。今迄は頑なと言っても良いほど作り笑顔だけだったのに。
ただ私が食事をとっていると言うことだけで笑う。
私は何となく逆に甘いものを避けて食事を続けた。
普通のものを無理せずに食べたと言うだけで彼の機嫌が向上するのなら、そうしたいと思ったからだ。
しかし逆に夜神の表情が曇る。
「食べないならわざわざ甘いの作らなくても良かったかな?」
しまった。逆効果だったか。
「いえ、食べます。せっかく月くんが作ってくれたんですから」
彼の料理を無駄にする。
それは料理だけでなく作る手間や私を気遣ってくれた感情まで捨てる行為だ。
そんな事は出来ない。『夫婦は気遣いが大事。』だ。
「それが普通の事だから食べる、じゃないんだ」
そういえばこの間の喧嘩ではその理由から夜神に食事を作る様に強要したのだ。
可笑しな事に今私の行動を決定するのはマニュアルではなく夜神の感情だ。
私は宣言通り夜神の作ってくれた煮つけを口にした。
「ありがとうございます」
「何が?」
「私の為に甘いもの作ってくれたでしょう?」
南瓜を咀嚼しながら言う私を見て彼は眉を少し寄せた。
「別に僕が作ったものを嫌そうに食べられるのが嫌だっただけだ」
夜神は私を冷たくあしらったが、それを嬉しく思った。
もしその言葉が真実なら彼なら逆に私の言葉を肯定しただろう。
負けず嫌いの彼の性格を考えれば照れて誤魔化した可能性が高い。
彼の小さな好意がくすぐったかった。
「そうですか」
私が嬉しそうに言うとますます嫌そうな顏を見せる。
「ごちそうさま」
食べるのが早い彼は言うが早いか自分の皿を持ってさっさと流しへ向かってしまった。
流しに皿を置くカシャンと言う音が響いた。続いて蛇口をひねる音と流水音。
「ご飯食べ終わったら、林檎剥くよ」
背を見せながらぽつりと呟かれた一言。
私に感情を読まれたのに照れ隠しの様な言葉を言う辺り、彼も少し変わったかも知れない。
目の前には夜神が剥いてくれた林檎が皿の上に乗っていた。
それを定期的に口に放りながら、私はノートパソコンを部屋から持ち出して夜神の監視を続けていた。
彼は今風呂に入っている。
風呂の中で殺人を犯す可能性は限り無く低いとは思うが、それでも念のためだ。
今までも夜神が風呂に入っている所は仕事として見たことがあるが今は妙な罪悪感がある。
おそらく気遣い気遣いと意識しすぎたせいだろう。
私は顔を振って頭を仕事に切り替えようとした。
仕事とプライベートを混同するなどとは言語道断だ。
と、そこまで考えて今この状況はプライベートなのだろうかと改めて疑問が湧いた。
もともとは夜神を監視する適当な名目が欲しかっただけだし、家族を知ると言うのもそれなりに気になってはいたが本来おまけの様なものだ。
つまりこの生活自体がもともと仕事で始めたはずなのに、今の私はプライベートとして認識していると言うことだ。
そもそもの目的に反しているこの状態はあまり誉められたものではない。
何故プライベートと認識するようになってしまったのか。
「竜崎、お前髪が濡れたままだぞ」
後ろから不意打ちで声を掛けられた。
いつの間にか夜神が風呂から上がって来ている。
ぼうっとしてしまったらしく夜神の行動を見のがしていた。
本格的に自己嫌悪に陥る。
「僕が入ってる間ずっと放っておいたのか?風邪引くぞ」
頭の上にふわっとタオルが乗せられて、その上から夜神の手が私の頭を掻き回した。
水分を拭き取ろうと頭の上で動く手を捕まえる。
「自分でやります」
「そう?」
あっさりと夜神は引いて冷蔵庫からミネラルをウォーターを取りに行った。
おかしい。こんなに穏やかな状態で良いのだろうか?
思考を探る事も牽制しあう事も媚を売る事も2人でいるのに全くしていない。
「ところで竜崎」
「なんでしょう?」
「風呂に入る時は脱いだ服を洗濯篭にでも入れておいてくれ。
脱ぎっぱなしは駄目だ」
ペットボトル片手に夜神が私に説教をする。
一緒に暮らしていくと言うことはとても手間が掛かるものだ。
ホテルならば従業員が分散して行うことを夜神が一挙に引き受けていて、しかし彼1人では大変なので私もそれを考慮しなければいけない。
夜神は同年代の大抵の人間より料理の出来る男だったが、それでもプロの作るものには流石に適わないだろう。
部屋に1人で居ても誰もいないホテルと隣に夜神がいる自室では随分異なる。
完全なプライベートが確立されないのは私のような神経質な人間には向かない場所だ。
夜神と暮らすこの家は、私が今まで暮らして来たホテルという場所から考えるとかなり劣っている場所の筈だ。
なのにここはホテルよりよほど居心地が良い。
不満な事も多いはずなのにここに居たいと思わせる何かがあるのだ。
「月くんこちらへ来て下さい。隣へ」
私の呼び掛けに夜神はそっとそばまで寄って来て2人掛けのソファの端に座った。
妙に隙間の空いた空間が私と彼との間にできる。
「そんなに離れる事ないでしょう?もう少しこちらへ」
「男同士がそんなにひっつく必要ないだろう?」
「私達は夫婦ですから問題ないです」
この言葉は免罪符だな。と思った。
これを言えば夜神は多少嫌なことでもすぐさま実行してくれる。
肩が触れあうくらいの近さに夜神が座る場所をずらした。
こんなに近くに他人がいると言うのに嫌だと思わない。
私は元来あまり他者との接触を好まない性質だったはずなのに。
「月くん。この生活は楽しいですか?」
「……つまらなくはないよ」
楽しいと即答されるよりよほど信用できる言葉だった。
「私も結構まあまあだと思ってます」
これが家と言う感覚なのだろうか?
どんなに便利な空間よりも帰りたいと思わせるほどの人物を家族と呼ぶのなら、私は夜神と家族になったのだろうか?
「月くん。お願いがあります」
「何?」
「おかえりなさい、って言って下さい」
「は?」
変なものを見るような表情で私を見る。
明らかに引いた様子の彼に構わず私は要求する。
「言って下さい」
訳が分からないと行った表情で彼はぽつりと呟いた。
「おかえりなさい」
「もう一度」
「おかえりなさい」
「あと一回だけ」
「……おかえりなさい」
気が違えたように夜神の言葉を求める私を哀れに思ったのか、最後のそれは酷く優しい響きを持っていた。
耳に残る夜神の声を反芻しながら改めて思う。
ここが私の帰る場所なのか……
酷く可笑しな気分だった。
心は穏やかなのに昂揚している不思議な感覚。
これを幸せとでも呼ぶのだろうか?
だが頭の中で警鐘が響いた。
こんな風に馴れ合って良いと思っているのか?
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