夜の生活(1)
朝起きたらLが変だった。奥さんの2回めの呼び声で起きる。
そんなよく分からないマニュアルの指示に従っているLは、いつも起きているのに僕が声をかけるまでベッドでだらだらとしている。
僕は朝食の用意を一通り終わらせると、Lを起こす為に部屋のドアノブに手を掛けた。
しかし力を加えようとした瞬間に逆にノブが捻られ、僕を押し退けるようにして勢いよくドアが開かれた。
「うわっ」
突然開いたドアの勢いに飲まれ思わず後ろに下がった僕を、開かれた扉の向こうからLが無表情に見つめていた。
謝罪も朝の挨拶も一言もない。
「おはよう。今日は起こさないでも出てくるんだな」
先に話しかけるのはなんだか負けの様な気がして嫌だった。
だが忙しい朝の時間にそんな事を言っている訳にも行かない。
何故か無表情のLは僕の言葉には何も返さず、そのまま無言で洗面所の奥に引っ込んだ。
「なんだよ、あの態度」
盗聴機の存在を忘れて思わずリュークに愚痴る言葉を吐く。
『機嫌が悪いんじゃないか?』
「機嫌が悪い訳じゃないんだろうけど……」
今度はちゃんと独り言を装ってリュークに答えた。
機嫌が悪いと言う事はないだろう。
あれでLは感情を偽ったりしない。
もし本当に機嫌が悪いならもっと目に見えて荒むはずだ。
「まあ、放っとくか」
『それで良いのか?』
リュークはいやにLを気にするが気にしたところでどうなるものでもない。
どうやら意図した行動であるようだし何か目的があるのだろう。
僕はとりあえず朝食の支度を再開した。
キッチンで用意を進めて暫くすると背後でLが席につく気配を感じた。
僕はコーヒーにたっぷりのミルクと砂糖を加えてLの前に置く。
「足は上に上げるなって前に言っただろう?」
見てみればLがいつもの体育座りで椅子の上に居た。
前に食事中には推理の必要はないと足を下ろして座ることに納得していたのに。
「月くんに指図される筋合いはありません」
「行儀が悪いだろ?」
僕はLをちゃんと座らせようと思い、立てられた膝を手で無理矢理下に押した。
その瞬間乾いた音が付けっぱなしのニュースの雑音に紛れて響いた。
Lに手を叩かれたのだ。
「おいっ!」
「先に物理的な力で強制しようとしたのは月くんですよ」
確かに足を無理矢理押したのは事実だがそれは叩くほどの行為ではないだろう。
ひりひりする手を空気に晒しながら、僕はLの座り方の矯正を諦め料理に戻ろうとした。
「月くん」
僕が踵を返したと同時にLが名前を呼ぶ。
叩いておきながらよくこんなに親しげに呼べるものだ。
呼び掛けを無視する訳にも行かず、僕は嫌々ながらLの方に振り返った。
「……何?」
「砂糖はありますか?」
「コーヒーにはもう入ってるよ」
「私は有るか無いかを聞いています」
尊大な物言いに苛苛しながら僕はキッチンから角砂糖の入った瓶を持って来てLの前に置いた。
乱暴な扱いに瓶が机と触れあって嫌な音を立てる。
割れなかったのが不思議なくらいだ。
僕の物に対する粗雑な扱いも全く気にせず、角砂糖を手にしたLは既に大量の砂糖が入ったコーヒーに更に大量の砂糖を加えた。
あまりの量に溶け切れていないらしい。
コーヒーをのみ始めたLの口の中で砂糖が砂の様な音を立てていた。
味を想像するだに恐ろしいそのコーヒーを見ない振りをして、僕は焼きあがったパンに注意を向けた。
バターの良い匂いがする、よく焼けたパン。
だがそれをLの前に差し出すと、たちまち甘ったるい苺ジャムの固まりになってしまった。
今までもLはジャムを塗っていたが、こんな赤い固まりになるほどの量ではなかった。
普通の食事も食べれる様になったって昨日言ったばかりじゃないか!
昨日の今日でこれかと僕があからさまに嫌な顔をしても、Lは見ない振りを決め込んでジャムの固まりを勢い良く口に詰め込んでいた。
食事の雑音とTVから洩れるニュース音声だけが響く。
異様に悪い空気の中の食事があらかた片付いた時、がたっと椅子が揺れる音がした。
立ち上がったLに反応して時計を見るとLが出発する時間になっていたらしい。
毎回嫌と言うほど忙しなくてすぐに時間が経ってしまうのに、今日は恐ろしく長く感じた。
漸く訪れたLの出発時間に無意識に安堵のため息が出る。
洗面所で最後の支度を整えるLを僕はいつも通りに用意してやった鞄を持って待っていた。
今までの様子だと受け取らないのではとも思ったのだが、それでも一応用意はした。
マニュアル通りに物事を進める事は有る種の保険だ。
こうしている事がこの嫌なやり取りに自分は非がないと証明する事に繋がる。
洗面所から出て来たLに僕は用意した鞄を無理矢理ぎみに押し付けた。
黙ったままだったが何故か素直に受け取る。
Lが何をしたいのかさっぱり分からない。
僕はLの一定しない行動に苛々しながらもマニュアルに従って玄関先まで付いて行った。
靴を引っ掛ける様にして履いたLがくるりと僕の方を振り返ってじっと見つめてくる。
いつも通りのLの行動に僕はいつも通りの言葉をかけた。
「いってらっしゃい」
軽く言った見送りの言葉は不機嫌さを全く隠していないおざなりさ。
Lはそれに不満だと言う様に眉を寄せた。
そもそもこの男の行動がこうして僕を不機嫌にしているというのに。
僕は不愉快なLの表情を塞ぐように瞼を閉じて、唇に一瞬だけ触れるキスを落とした。
これ迄Lとのキスはマニュアルだからと言うよりこの男の執拗な嫌がらせへの対抗策だった。
しかし今この男にキスをするのはシミュレーション用のマニュアルにそった行動。
義務感から行うキスは初めてで対抗心とか羞恥心とかは何も感じなかった。
唇を離すと僕は段差を埋める為の屈んだ姿勢のままLからのキスを待つ。
「いってきます」
Lの唇はその言葉を紡ぐと僕に触れることなくドアの向こうに消えていった。
がしゃんとドアが金属の触れ合う嫌な音をたてた後に、漸く僕はL出ていったことを知覚した。
「なんなんだ!あいつは!!」
思わず大声を出して壁を思いっきり殴る。
近所迷惑だとかはしたない真似だと分かっていたが、それくらいしないと我慢出来ない。
それほど頭に血が上っている。
「くそっ!屈辱だっ!」
あれでは僕がLとキスしたいみたいだ。
毎回キスをするから屈んでやっただけだと言うのに、その体勢で放っておかれたら僕がLにキスをねだったみたいで気に食わない。
『Lは月に嫌がらせをしたいのか?』
僕のいきなりの激高に多少狼狽えながらもリュークが聞いてくる。
リュークの姿を見る事で、僕は多少冷静さを取り戻した。
Lの行動に関してはそうとしか思えない。
今までの阿呆な夫婦ごっこもこの嫌がらせの為の布石だったのだろうか?
苛苛しながら僕はあの不愉快な男と触れ合った唇を徹底的に洗う為に洗面所に足を踏み入れた。
「くそっ!くそっ!くそっ!!」
洗面所に入るなり叫んだ僕をリュークが驚いて見る。
「ど、どうしたんだ月!」
「Lの奴!嫌がらせがしたいなら徹底的にしろよっ!!」
なんで洗濯物はしっかり籠の中に入れとくんだ!
僕の嫌がる事をしようとしているのなら徹底的に今迄の生活全てを台無しにしてくれれば良いのに。
中途半端なLの振る舞いになんだか急速に怒りが萎んでしまった。
僕は籠に溜まっていた洗濯物を一気に洗濯機に放り込んだ。
ボタンを押すと微弱な機械音をたてて洗濯機が動き出す。
昨日より簡単な作業だ。Lがちゃんと片づけてから出ていったから。
結局僕は当初の目的である口の洗浄をせずに洗面所を後にした。
いつもより遅いペースで家事をこなしていく。
特に意識したわけでなく自然と遅くなってしまったのだ。
つまりやる気がない。出ない。
その理由はLでしかなかった。
いつもと違うLに僕の頭の中には様々な疑問が浮かんでは消える。
昨日の事を思い出せばLはどちらかと言えばこの生活に満足しているようであり、嫌がらせをする理由等ないように思える。
つまり現状に満足しているのにそれを打ち壊して不満のある状態にしたいと言う事なんだろうか?
何の為に?
不可解なLの行動に、始めのうちは苛々が募るだけだったが落ち着いてくると次第に悲しい気持ちになってきた。
僕だって結構Lにも慣れて来たし、あの傍若無人な男が僕に気遣いを見せるのは嬉しいものがあった。
上手くやれていたはずだったのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう?
『ライト〜。Lの奴がムカつくんなら、もう2人でいるの止めれば良いんじゃないか?』
悩む僕にリュークが提案してくる。
お前はどうせ自由に林檎が食べれないこの状態が嫌なだけだろう?
僕はまだここから逃げる気なんてない!
否定の意味でリュークに視線を投げかけると、それを理解したリュークが呆れたように溜め息を付いた。
『嫌いな奴と一緒に暮らすなんてライトは良く分からないな』
嫌いな奴と暮らす?
そんなの僕だってごめんだ。
Lの事はこうして苛立つ事をされて嫌いな時もあるけど、一緒に話すのは会話が合って好きだし優しくされた時は嬉しい。好きな時もある。
改めて思うと僕はLの事、結構好きなんじゃないだろうか?嫌いより好きの比率が高い。
嫌な時は嫌がらせをされる時ばかりだし、昨日なんてそう言う意味では全く不満がなかった。
竜崎の異様な『おかえりなさい』の要求はちょっと変だったが、僕に甘えるような仕種だったので「あのLが……」という意外な気持ちと、恐らくこの男がこんな風にするなんて僕だけだろうと言う優越感で嬉しくて仕方なかった。
もし本当にLが結婚したら相手の女性にあんなふうに甘えるのかな……
自分の想像に一気に不快になる。
あいつが僕以外のやつに弱味を見せるなんて嫌だ。
どうせ甘えるんなら僕にすれば良いんだ。
そこ迄考えて今度は自分の思考に一気に不快になった。
自分は一体Lのなんなんだ。敵だろう?表向きには友達だろう?
それなのにこれじゃ嫉妬する女そのものだ。
しかももしLに女が出来たらなんて言う想像の物に対する嫉妬。
『ラ、ライト。顔が赤くなったり青くなったりして大丈夫か?』
リュークにそう言われて改めて自分の頬が酷く紅潮している事に気付いた。
なんて状態だ。Lの行動に振り回されてこんな醜態を晒してしまうなんて。
「買い物に行こう……」
リュークに照れ隠しの様にそう言って外に出る準備をする。
僕の後ろに付いて行きながら『あんな風にされたのにLにご飯作るのか?』と聞いて来た。
確かに今朝のあいつの料理に対する行為を見ると、食事を出さないとか買ってくる等の選択肢も浮かんでくる。
けれど料理を作らなかった時のあの男の拗ね方を思うとそれをするのは可哀想に感じた。
何故いきなりLがこの生活を壊すような真似をしたのか分からない。
けれど喧嘩をした時の本当に夫婦をしたがっていたLの為に、僕は奥さんの真似事を続けても良いと思えていた。