夜の生活(2)
部屋に響くチャイムの音がLの帰宅を知らせた。その音が僕の気分を沈めさせる。今朝のやり取りを考えればLに会うのが憂鬱な気分になるのも仕方ないと言えるだろう。
暗くなっていく気持ちを押さえながら僕はLを出迎える為に玄関に向かった。
「お帰り」
ドアを開けるとLは無言で部屋の中へと入っていった。
ある程度の時間を置いても結局直らなかったLの態度に自然と溜め息が出る。
態度の事は諦めてさっさとリビングへ戻ろうとしたが、ふと部屋に入ったLが玄関先からまったく動こうとしていない事に気付いた。
何をしているのかと思えばただぼうっとして僕の方を見つめている。
その不可思議な行動に訝しんだ表情でLを見ると、Lも僕と同じ様な表情でこちらを見ている事に気が付いた。
お互い黙り込んで見つめあう形になってしまう。
こういう風に無意味な意地の張り合いのような状態になった時は、どうしても先に行動するのが負けのような気がしてしまい苦手だ。
だからと言って2人して見つめあっていても埒が明かないと思い仕方なく僕は口を開いた。
「どうしたんだ?」
「月くんの応対がいつもと違うので」
Lの言葉に「それはこちらの台詞だ」と言いたくなった。
しかしLの言うそれは僕の出迎え方の事の様だ。
いつもなら僕はドアを開けたらすぐにお帰りの言葉と共にキスをしていた。
それがない事をLは言っているのだ。
不可抗力とはいえLからのキスを待つ形になってしまった僕を完璧に無視したのに、この男は僕からのキスを待っているらしい。図々しいにも程がある。
「先に竜崎がするんなら、僕もするよ」
今朝の様にまた僕だけが醜態を晒す事になったら堪ったものじゃない。
僕はそんな事態を回避する為に逆にLに要求してみた。
Lは僕からの言葉にしかめ面の表情で答えて、結局無言で奥の方に引っ込んで行ってしまった。
僕からのキスは要求するが自分からはしたくないという事か。
「月くん」
さっさと廊下を進み、先にリビングに行っていたLから声が投げかけられた。
その声音からは僅かだが狼狽の色が見て取れる。
「何?」
「どうして食事の用意したんです?」
Lはキッチンの作り掛けの料理を指差しながら僕に問いかけてくる。
僕はリュークに宣言した通りにしっかりと食事を用意していた。
用意された料理を見たLの表情は少し歪んでいて、そこからは不満がと少しの苛々が見え隠れしていた。
「私は今朝君の作った食事に大して酷いことをしました。不快だったでしょう?でしたら以前の様に買ってきてしまえば良かったのに」
Lの言葉に僕は眉を寄せた。
つまり今朝の行動は僕に夕食を買わせる為にやった事なのだろうか?
そんな事をしてLに何か利益があるとは思えない。
他に目的があるはずだが、一体どんな理由が有ればこの僕の料理を台無しにして良い?
「わざわざ作った理由はなんですか?」
更に問いかけてくるLに僕は呆れた。
あんなに買って来た食事を拒否していたのはL自身だと言うのに。
「前に買って来て嫌がっていたのは君だろう?」
「それは夫婦として普通のことではないからです」
指摘するとLはまるでそれが当然の事だと言うようにきっぱりと言った。
そう、確かにこの男はその理由で僕が食事を買って来た事に怒っていた。
だがそれを言うのなら今だって僕達が夫婦である事は続いているはずだ。
竜崎の突然の行動に阻害されているとはいえ僕に夫婦ごっこを辞めた記憶はない。
「今も僕らは夫婦だろ。だったら君のために食事を作るのは普通のことだ」
「不快なのを我慢してまですることではありません」
夫婦ごっこをしたがった張本人だというのによく言えたものだ。
呆れる僕をLはいつもの上目遣いで覗き込んできた。
「私のしたこと不快じゃありませんでしたか?どうすれば一番嫌ですか?」
「あんなに夫婦ごっこに乗り気だった癖にどうしたんだ?もう止めたいのか?」
「そう言う訳ではありませんが……」
飽くまで夫婦をしていたいと言うのなら嫌がらせをしたがる理由は何なのだろうか。
和やかに過ごした昨日からのいきなりの豹変は僕に不快よりも疑問と不安を与える。
「ちょっと変だぞ、竜崎。何か不満があるのか?」
「君が私を嫌ってくれれば、不満は解消します」
「……君は僕に嫌われたいのか?」
「はい。嫌ってください」
事も無げに言う。
だがそう言われたからといって簡単に感情を変える事なんて出来ない。
そもそも僕がお前を好きだなんて勝手に決めつけられても困るだろう。
いくらお前が感情を読むのが長けているといっても間違うことだってあるかもしれない。
今回は非常に認め難くも真実だが。
「いきなりそんな事言われても無理だ」
「何故です?不快なら苛つくでしょう。嫌いになりませんか?」
「不快だからじゃなくて、君が何を考えてるか分からないから苛苛するよ」
僕に気遣う様にしながら嫌がらせをする矛盾した行為。
昨日までの気遣いとそこから導き出されるLの家族を知りたいという純粋な気持ち。
それらが僕を戸惑わせる。
Lが僕に嫌いになって欲しい理由が掴めない。
「じゃあどうすれば嫌いになりますか?切実な問題なんです」
ちっとも切実そうに見えない表情で、とても切実だとは思えない下らない事を言う。
余りにしつこい目の前の男に僕は荒い口調で吐き捨てた。
「そんな事分からない!お前が僕の事を嫌いになればいいだろ!」
「それが出来ないから問題なんです!」
声を荒らげる竜崎に驚き、思わず体を強張らせてしまった。
以前の諍いでも聞いているとはいえ、やはり滅多にこんな言い方はしない分驚きも大きい。
僕が狼狽える間に竜崎は足を進め自分の部屋のドアに手を掛けていた。
ドアの開く音に僕はようやく意識を取り戻し、そのまま入ったら永遠に出てこなそうな雰囲気の竜崎に向かって僕は叫んだ。
「夕飯は!?」
「食べてきました」
平坦としたその声とは裏腹の乱暴さでLは自分の部屋の扉を閉めた。
嫌な音を響かせながら閉まる扉に向かって僕は吐き捨てるように言った。
「今のが今日の嫌がらせの中で一番不快だったよ、竜崎」
本当は夕食を食べる気なんて全くなかったのか。
もし僕が食事を買って来ていたらそれをネタに僕を非難するつもりだったのだろう。
そうして何度も繰り替えされた嫌がらせに僕が耐えられなくなれば、奴の目的は達成だ。
しかし僕がLの事を嫌いになるとLに何のメリットがあるのだろうか。
『Lは難しい奴なんだな』
しみじみと言うリュークの言葉に少し笑いそうになるのを何とか耐える。
本当に難しい男だ。でも放っておく事も出来ない。
危ないかと思って火を止めてしまった鍋の中でスープが完全に冷たくなってしまっていた。冷えきってどろどろとしたそれはあまり美味しそうに見えない。
僕は料理を暖めずに結局片付けてしまった。
脇からリュークが『食べないのか』と聞いてくる。
それに僕はさり気なく頭を振り頷いてみせた。
せっかく作った料理だがLが気になって食事なんて出来そうもない。
しかも今日は家事をするのが遅くなってしまったせいで昼食を取ったのもいつもより遅い。
あまり空腹感はないし、この料理は明日にでも片付ければ良い。
『月、これからどうするんだ?』
その問いかけに独り言を装ってリュークと監視カメラで見ているだろうLに向かって言う。
「竜崎と話がしたいな。このままじゃ一緒に暮らせない」
『まだ一緒に暮らす気でいるのか?』
心底呆れたようなリュークの言葉に僕は溜め息を付いた。
あぁ、そのつもりだよ。
Lの奴、僕に嫌われたい癖に一緒に暮らしたいらしいからね。
僕はリュークへの答えとしてLの部屋へと向かった。
閉じられた扉に向かって声をかける。
「竜崎、入るよ」
「入らないで下さい」
すかさず拒絶の言葉を言われるが僕はそれを無視してLの部屋の扉を開けた。
Lは電気の消された真っ暗な部屋でベッドの上に体育座りをしてこちらを見ていた。
怒られて拗ねる子供みたいで思わず小さく笑ってしまう。
そんな情けない姿を松田さんとかには絶対見せられないな。
でも、それで良い。そんな姿見せるのは僕だけで良いんだ。
「人の部屋に入らないで下さい」
改めて言う子供みたいな男に、僕は意図して質の悪い笑みを浮かべて言った。
「夫の部屋に妻が入るのに、何か問題でも?」
その言葉にLは意外なものでも見たように呆然として僕の顔を見つめた。
僕が一歩足を踏み出すとLがそのままの体勢で後ずさるようにベッドの上を移動する。
しかしベッドの先は壁でしかないし、僕が歩く方が圧倒的に早い。
僕はLの真横にあたるベッドの端に腰掛けた。
こんな狭い空間、しかも一緒に暮らしているのだから逃げ切れないと分かっている。
それなのに僕から逃げようとするのは精神的な問題なのだろう。
「なんでそうやって僕を異様に嫌がっているんだ?」
「言う必要がありません」
「いきなり態度が変わったら驚くだろう?」
おかげで僕は今日一日感情が振り回されている。
怒ったり嫉妬したり好きだと思ったり。
「今日はお前に振り回されてばっかりだ」
「月くん……」
「調子が狂うよ」
疲れたような僕の言葉にLが手を伸ばして慰めるように肩に触れた。
どうして気遣うような仕種を見せるんだ。
嫌がらせをしたいんだろう?嫌って欲しいんだろう?
それなのにこうして優しさを見せて振り回す。
「竜崎、僕はやられたらやり返したい性格なんだ」
「そうでしょうね。嫌がらせを返しますか?」
むしろそれを望んでいるような表情だった。
確かにLを嫌った振る舞いをする事は奴の狙い通りの事だろう。
しかしそれでは面白くない。Lの思い通りに振る舞うだなんて冗談じゃない。
僕はくるりと反転するとベッドの上に乗り上げた。
2人分の重みでベッドがぎしりと音をたてる。
竜崎はいきなりの僕の行動に訳が分からないという表情をして惚けていた。
その間抜けな表情のLの体をベッドにぐっと押し付ける。
乱暴な僕の振る舞いに漸くLがもがき抵抗らしき事をしだすがもう遅い。
僕はLの上に素早く跨がってそのまま体重を掛けてやった。
同じくらいの体格をしているのだから流石に抜け出す事は出来ないだろう。
それでももがくLにぐっと顔を近付けてとっておきの台詞を言ってやる。
「おかえりのキスが今日はまだだ。しよう、竜崎」
嫌って欲しいのなら逆に好意を持った者の振る舞いをしてやる。
僕のあまりに意外だったろう言葉に、只でさえ大きいLの目が驚愕に更に見開かれた。
それを見て僕は少し満足する。もっと動揺すれば良い。
僕はLの唇に自分のそれを強く押し付けた。
そういえば昨夜は唇を舐められたという事を思い出し、僕も舌でLの唇をなぞってみる。
するとLがびくっと震えて、意趣返しに成功したと僕は内心ほくそ笑んでいた。
しかし笑っていられたのも束の間。
すっとLの唇が開き舌が僕の口に入り込んで来た。
舌を出していた為薄く開かれていた僕の口に難無く侵入したLの舌は、僕の舌を搦め取ろうとするように中を動いていった。
しかしLが口内を蹂躙するのを只黙って見ているような自分ではない。
怯んだりする事は自尊心が許せない為Lに応えようと自分も舌を動かした。
2人とも負けず嫌いの性格だったのが災いしてか、かなり長い時間お互いの口内を貪りあった。
やっと離れた時には僕はかなり息が上がっていて、思わず腕の力が抜けてしまいLの上に倒れこんでしまった。
Lの方も僕にいきなりのしかかられた事に動揺してか表情がいつもと違う。
「……なんて真似をするんですか?君は」
Lの質問に答えようとしたけれど体がそれに付いて行かず話せない。
Lの上で暫く寝転がって体を休めているとやっと息の方が整ってくる。
「……その割に舌入れたりしてきたけどね。君も」
漸く出した言葉は憎まれ口に近かった。
せっかくのキスは振り回したし振り回された五分五分の結果となってしまった。
それに酷く疲れている。
しかしこれはキスのせい等ではなく、いつもと違う今日という一日の疲れに近かった。
この疑似夫婦を始めた一日目もこんな疲れ方だった。
せっかくこの変な生活になれて来ていたのにLが変な振る舞いをするから、調子が崩れて疲れ果ててしまったのだ。
Lの上というのが微妙な状態だったが、それでも寝転がっているのは疲れた体には気持ちが良い。
しかも下敷きにしているのはLのシャツ。
何故だか分からないが僕は洗濯物、というかLのシャツの匂いに弱い。
酷く安心して眠りたくなるのだ。
それと同じ匂いのするものが目の前にある。眠たくなってしまうのも仕方ないと言えるだろう。
うつらうつらとして来た意識の向こうでLの声が聞こえる。
「月くん、どうしたんですか?」
「あぁ……ごめん眠くて。この匂い安心するから眠くなるんだよね」
「匂い……私のですか?」
Lの?
考えてみればシャツだってLの物だからLの匂いがする訳で、つまり僕の安心する匂いはこの男の匂いと言う事か?
自分の事ながら変な趣味だ。
「うん。そう言う事みたいだ」
だからと言って否定するのも変な話なので正直に言ってやる。
するとLが急に動くので僕は身体から落っこちてベッドの上に倒れこんでしまった。
「いきなり動くなよ」
段差がほとんどない上に柔らかいベッドの上に落ちたのだから大した事はない。
だがそれでもなんとなく避難の声を浴びせた。するとLが珍しく動揺した声で僕に訴える。
「月くんが変な事を言うからです!」
そう強く言われると自分でも変だと分かっているので少し苛立つ。
しかしそれでもLを動揺させたと言う事実が面白くて、僕はLの胸に体を寄せた。
思わず後ろに下がろうとしたらしいが、それ以上進むとLは確実にベッドから落ちてしまう。
それなのでLはその場で僕を受け止めざるを得ない。
嫌がらせとしてLにしがみついたのだが、どっちにしろ僕に取って安心する匂いだと言う事実は変わらない。疲れていた事もありそのまま眠りたくなってしまった。
「……月くん、このまま寝る気ですか?」
そんな僕の様子に気付いてかLが話し掛けてくる。
迷惑そうな物言いに僕はここで寝てやろうという決意を固めた。
「そういえば月くん、食事してないでしょう?」
だからここから出て行けと目が言っている。
そんな態度をされて僕が素直に出て行くと思うか、L?
「いらない」
今更食事の為にリビングに戻る気もない。
それに何よりせっかく2人分の食事を用意したのにそれを僕1人が食べるなんて嫌だった。
硬化した僕の態度にLが呆れた様な声を出す。
「月くん……」
「1人じゃ食べたくないんだ。気にするなら今度からは外で食べないで僕と一緒に食事をしてくれ」
今日の食事は僕の為と言うよりLの為に作っているような所があった。
昨日の夜、竜崎が普通の食事を食べれるようになったと知って今日の食事はいつもより力を入れようと思ったのだ。
Lに食べてもらえなくなってしまったLの為の料理を自分で食べるなんて空しすぎる。
Lは暫く何か考えた後に僕に対して溜め息を付いた。
勘だがおそらく僕の言葉を了承したと言う意思表示だろう。嫌われたい癖に我が儘であるその言葉を聞いてしまうLに僕は呆れて笑った。
「今日の食事はどうするんです?」
明日からは一緒に食べるから今日はさっさとこの部屋から出て食事をしろとLは言っているのだ。しかし既に宣言した通り食事をする気はない。しかも今はとにかく身体に残る疲れが忌わしかった。
「食事より睡眠が取りたい……今日は疲れた」
「だったら御自分の部屋に戻って寝て下さい」
「理想的な夫婦なら夜、一緒に寝るものだと思うけど」
そう冗談を言って笑うと何故かLは黙り込んでしまった。
どうやら僕と同じでこの男も『夫婦なら』という言葉に弱いようだ。
Lの突然の暴挙に、もうマニュアルを放棄したというか夫婦ごっこを止めたと言っても良い状態になっている。それでもその言葉を気にしていると言う事は、つまりLはまだ僕と夫婦でいたいと思って良いのだろうか。
一緒に暮らす事は止めたくないと言うこの男が嫌がらせをする理由はますます分からないが、それでも僕がこのまま眠る事に困っている様だからひとまずそれで満足しておく。
「……月くん、このままだと少し寒いです」
僕がLの胸に顔を埋めている為に蒲団を僕にあわせるとLの上半身がほとんど入らないのだ。
さすがにそれは可哀相なので僕は身体をずらしLと同じくらいの場所に移動した。
しかしそれだけでは済まさない。
Lの肩に手を伸ばして抱き締めるような形を取って笑う。
「2人で暖かくなる事でもする?」
男が男に言うなんて普通気味の悪い冗談だとしか思えないが、予想に反してLは只驚いているだけだった。
気持ち悪いとかそう言う嫌悪でなく純粋に本気かと問うような目。
考えてみれば男同士のキスにそれほど抵抗がなかった様だし同性で行うそれに対する嫌悪は少ないのだろう。自分が狙ったのとは違う意味でだが十分嫌がらせにはなったらしい。
僕は抱き締めるようにしてLの首筋の辺りに顔を埋めた。
抱き枕と化した男が心底困惑した声で話し掛けてくる。
「月くんは何がしたいんですか?」
「……嫌がらせだよ」
はっきり言ってやるとLが溜め息を付いた。
僕の嫌がらせはしっかりと成功している様だった。
正直この嫌がらせは自分にもダメージがくる作戦ではないかと思ったが、やってみれば意外と平気なものだった。何度もキスしていたおかげで接触に慣れていたせいかも知れない。
こんな真似が出来るのは慣れているL以外にはあり得ないが。
そう思うと不思議な感じがして、僕は腕の力を強めて更にLにしがみついた。
そうすると何故かLが僕の髪を撫でてくる。
もうこういった行為は僕への嫌がらせになり得ないのに。
Lという大きな安堵に包まれて、僕は眠る為にそっと瞼を閉じた。