出張
身体より先に意識が覚醒する。眠りからさめようと意図的に重く張り付いた瞼を開くと、目に見慣れない色彩が飛び込んできた。
上質な紅茶に似た品のある茶色のそれ。
何だろうかと思い、触れてみようと手を伸ばす。
あと少しで触れるという瞬間、その物が動いて私の目の前に寝返りをうった夜神月の顔が現れた。
突然のことに瞬間息が止まる。
何故ここに彼がいるのかと頭の中に疑問が駆け巡ったが、そういえば彼は昨夜強引に私のベッドで眠りについたのだった。
見てみると夜神の瞼は閉ざされており、彼がまだ眠りの国の住人である事が分かる。
容疑者である夜神より先に起きれた事にほっとしたのも束の間、ふと恐ろしい事実に思い至ってしまった。そう、今起きたと言う事は当然ながらついさっきまで眠っていたと言う事。
(気付かない内に寝ていて、しかも熟睡してしまった……)
この私が、夜神の前で。
なんたる失態だ。容疑者の前で無防備になるなどL失格だ。
しかも気付かないうちに眠ってしまったので松田に夜神の監視をさせるのを忘れてしまった。これでは私が寝ている間に何が起こったかまったく分からない。致命的ミスだ。
あまりのことに思わず暗い溜め息が出る。
その空気の流れに反応してか夜神が少し身じろぎをした。起きるかと何故か戦々恐々とする私だったが、それには構わず夜神はまた穏やかな寝息を立てはじめた。
ほっとして肩の力を抜く。
眼前の夜神はあの力強い目が伏せられているせいか、やけに幼く見える。ここまでの至近距離で顔を観察した事はなかったので、思わずまじまじと観てしまった。
しかし顔を観察していてもキラに繋がる事等出てくるはずもない。分かる事と言ったらせいぜい睫毛が予想以上に長い事とか、規則正しい生活によって作られた健康的な肌とか、既に慣れ親しんだ柔らかい唇の些細な色合いとかそんな事だ。
彼の唇を酷く意識してしまって私は観察する事をすぐさま切り上げた。
心臓に悪い。
私がここまで腑抜けになる程夜神に好意的感情を抱いていているのは否定し難い事実だ。今の所まだ支障はわずかだが、そこからどんな事態に発展するかは分からない。
彼に好意を持つ様になってしまったのは、恐らく私が直接的な好意の表現をされた事が少なく、またする事も少なかったからだと思われた。ごっこ遊びと分かっていてもその今まで触れたことのない心地良さに酔ってしまったのだろう。そうに決まっている。
このままではいけないと私は強く感じて彼に嫌われる様な行動をとった。
好意を示す行動に絆されたのが原因なら、逆の行為をしてもらえばすぐに醒めるであろうと考えての事だ。それなのに彼は逆に私に好意を抱いているように振るまう。
これでは全く意味がない。これなら下手な事をしないでマニュアル通りを貫いた方が良さそうだ。
しかし私の事を嫌っている筈なのに、嫌がらせと言ってもよくあんな事ができるものだ。
「本当に何を考えてるのか……」
隣の夜神はよく眠っている。
私のせいで疲れたと言っていた。
嫌いにはなっては欲しいが迷惑をかけたくはなかったのに。失敗した。
「お前はキラなんだろう?」
だったら私へ好意を抱こうとするな。殺したいのだろう?
「僕はキラじゃない、竜崎」
独り言に返って来た声に私は驚く。
「起きたんですか?」
「かなり悪い目覚めだけどね」
起き上がって目に掛かる前髪が煩わしかったのか頭を振る。
乱暴な仕種だったがそんなに機嫌が悪い訳でもない様だ。
彼らしく目覚めは良いらしい。
「おはよう」
「おはようございます」
朝の挨拶に反射的に返すと彼は少しほっとしたような表情を見せた。
「今日は嫌がらせしなくて良いのか?」
「嫌がらせをすると月くんから嫌がらせが返って来て、本末転倒です。いつも通りにします」
「分かってるじゃないか。もうするなよ」
自分の勝利だと得意げな笑みを見せる。
とても悔しいが彼を好きになっている次点で私は勝利に最初から遠のいている。
いや、まだ負けた訳ではない。後戻りできる段階だ。
改めて決意を固めていると夜神が私の方に身を乗り出して被さってくる。
「月くんっ!」
「大きい声を出すな。時計見るだけだろ?」
焦った私に呆れたような声を出す。ベッドサイドに置かれた時計を見ようとしていたらしい。
身を乗り出してテーブルから拳サイズの時計を取る。
「もうこんな時間じゃないか。本部に行くのが遅れる!」
「別に遅れたって構わないじゃないですか。私が行かなければ仕事になりませんし」
「そういう問題じゃないだろう!?」
彼が私の手を掴んで引っ張り起こす。そのまま手を引かれてリビングまで連れ去られた。
「さっさと顔洗って着替えて来い。ご飯すぐ作るから!」
彼は清潔を好むから、本当は自分が先に支度をしたいだろうに。
私は彼の指示する通りに洗面台へ向かった。
顔を洗おうとしてふと先ほど夜神が私の手を掴んでリビングに向かった事を思い出した。
キスはするがそれ以外の接触をしようとはしないので彼の身体に触れる事はあまりない。
昨日などは迫られて伸しかられたが、それ以外の日常での何気ない接触は初めてだと思う。
洗うのが勿体無いか……と少し思った。
しかしすぐに馬鹿馬鹿しいと切り捨てて私は思いきり水を出して手を洗った。
別に触るのが初めてな訳でもない。第一に触りたいのならまた触れば良いだけの話だ。
身支度を終えてリビングに戻ると夜神が忙しなく動いて朝食の準備をしていた。
手伝おうかと思ったが何から手をつけるべきか分からない。
どうしようかと思案し、立ち止まっていると唐突に電話の音が部屋中に響いた。
一応電話線は引いてあるが番号を知っている者は限られた者しかいないはず。
「朝から非常識だな。竜崎出てくれ」
「私がですか?」
「僕は今忙しい」
確かに彼は料理に忙しそうだ。
料理ではないが漸く手伝いができると受話器を取ると無駄に明るい声が鼓膜を揺らした。
「おはようございます!竜崎」
ハキハキとした受け答えは松田以外の何者でもない。
「緊急時以外電話などしないでください」
構っている暇はないと電話を切ろうとした私に松田が慌てた声を出す。
「ちょ、ちょっと待って下さい! ワタリさんから連絡があったんですよ!」
「ワタリから?」
それこそ緊急時以外は掛けてこない人物だろう。
つまり何かあったと言う事だ。それもキラ関係ではなく私自身の問題で。
「ワタリと繋いで下さい」
「はいっ」
松田の声から電子音に切り替わる。暫く待つとその電子音も途切れやがて「おはようございます。竜崎」と言うワタリの声が聞こえた。相変わらず年齢を感じさせない声だ。だからこそ正体不明の仲介人として活動できるのだが。
「どうした?」
「依然解決した事件の事でどうしても竜崎の顔が必要になりました」
「私は忙しい」
これから夜神の朝食作りを手伝って、いってきますのキスをして、捜査本部で夜神の監視を行わなくてはいけないのだから。
「竜崎がキラ事件を取り扱っている事は先方も承知です。しかしこれを蔑ろにすると後々動き難くなります」
つまり相手のメンツに関わると言う事か。これだから自分で外に出るのは面倒臭いのだ。
しかしここで断ってキラ事件の協力を打ち切られるのも困る。キラ……夜神月を追う為に一時的に彼を見のがす事も仕方がないと納得しよう。
「で、いつ行けば良い?」
「今からです」
あっさりと告げられたワタリの言葉に一瞬声を失う。しかしすぐに平静を取り戻して私はすぐに拒否の言葉を吐いた。
「いきなりすぎる。私は今キラの最有力容疑者の直接監視をしているんだ」
「先方の都合もありますが、今は割と穏やかな時間だと私は判断したので」
暗に今の私達の夫婦ごっこの事を言っているのだろう。確かに普通の捜査と比べたら馬鹿馬鹿しい事この上ないのだろうが、それでも容疑者の監視と言うもっとも重要な点は抑えている。文句を言われるほどの脱線はしていないはずだ。
ワタリは私のする事に絶対に従う優秀な人材だが何の文句も言わない訳ではない。こうして意思表示を示すということは今の状態には反対なのだろう。
「私としましては今のままでいる事がLにとって良い事だとは思えません」
気付いていたか……。
私の夜神に対する感情をワタリは見抜いていたらしい。いつ知られたのか。
しかし付き合いの長いワタリなら知っていても可笑しくないだろう。
特に今回は松田への指示を忘れるなど客観的に見ても不備が大きかった。
そんな私の状態を見ての結論は、事実であるうえに自覚もあるので反論出来ない。
「分かった、行こう」
「では用意をしてお待ちしております」
私が折れると満足げな様子でワタリが言った。出発の詳細を聞き終えて電話を切る。
結局ワタリの望んだ通りの展開になってしまった。
「誰だ?捜査本部の人か?」
「えぇ……月くん、食事の用意はゆっくりしても大丈夫そうですよ」
「何故?」
「捜査本部に行けなくなりました。米国に用事が出来たので」
「アメリカに?」
「面倒な事です」
「そんな事言うな。仕事はちゃんとしろよ」
キラの癖に私が精力的に仕事をするのが望みらしい。と言うよりたとえ他人であっても怠惰なのが許せない質なのだろう。
「じゃあ夫婦ごっこももうおしまいか」
夜神が出来上がった料理を皿に盛りながら言った。
私は彼の言葉に思わず目を見張った。何故そういう結論になるのか。
「だってお前がいないのにここに居たって意味ないだろう?帰るよ」
聞いて来た私に彼は当然のように応えた。それに対して私も強く反論する。
「駄目です。私がいなくても、ここに居て下さい」
「海外に出るんだったらなかなか帰ってこられないだろう?」
最大でも一週間だと言う夫婦生活だった。私が海外に出ていればすぐにその期間は終わってしまう。だったら先に切り上げていても良いだろうと彼は言う。夜神はまだ学生だから一週間以上この生活を大学を休んでまで続けるつもりがない。そもそも彼はこの生活に元々乗り気ではなかったのだから、早く切り上げたい気持ちも分かる。しかしそれでも……
「明後日までに絶対帰って来ます。そうしたら一週間の期間内です。だったら月くんがここに居ても問題ないでしょう?」
「理論的には問題ないけど……」
夜神は少し考え込む。彼は私の矛盾した行動に大分嫌気が差しているだろうから、断る可能性の方が高かった。
「まぁ、良いよ。ここまで来たら一週間、ずっと夫婦でいよう」
「本当に良いんですか?」
予想とは違う答えに驚く。その反応に逆に「嫌ならいいけど」と意地悪な事を彼は言う。
「私から申し出たのにそんな事言うはずありません。ありがとうございます」
「竜崎の我が儘にも大分慣れたからね。それに竜崎としては都合の良い出張じゃないか」
「都合の良い?」
「だって君は僕に嫌われたい……つまり離れていたいって事だろう?キラ事件以外の仕事なら僕に関わる事もないだろうし」
「成る程」
確かに夜神と距離を置くのは私に取って良い事だと思われた。幸いにも私は仕事に集中していると一切を忘れるてしまうタイプだし。
この出張を機会に夜神のすべてを私の中から取り払ってしまおう。容疑者であり以外の夜神を捨ててしまえば良い。
「とにかく今はご飯を食べようか。昨日食べてないからお腹好いてるし」
「そうですね。頂きましょう」
それから出発までは穏やかな時を過ごした。昨日の喧嘩とかそう言ったものは微塵も感じさせない。一昨日の事を思い出す。夫婦生活が一番うまく言った日。私にとって夜神が家族に、帰る場所になってしまった日だ。
今回米国に向かうにあたって夜神をここに引き止めてしまったのは、今の私に取って夜神のいる場所が帰る場所になってしまっているからだ。
本来なら許されない事態でワタリが知ったら眉を潜めるだろう。それでも引き止めてしまったのだから仕方がない。むしろ帰ってくる時には彼が家族であるとかそんな感情を抱かないようになっていないと行けない。
食事をしたり珍しく彼とたわいない会話に興じているうちに、ワタリに告げられた約束の時間まですぐにたってしまった。
彼は私の話、今回米国に向かう事となった原因の事件のてん末に興味を引かれているようだったが、もう時間がないと知ると帰ってきた時に出張内容を含めて聞くと言って来た。今の私の予定では帰って来た後に夜神と楽しく会話するなんて状況にはなりたくないのだが。
いつも通り玄関まで見送りに来た夜神は少し考えた後私に少し困ったように尋ねた。
「いってらしゃいのキスはするのか?」
昨日のやり取りや嫌いになって欲しいという言葉に悩んでいるのだろう。
私が「します」と即答すると彼は笑った。呆れたようなそれは私をまるで子供扱いしている。
だが不思議と嫌な気持ちにはならなかった。確かにプライドは刺激されるのだが、そうして許されるのは心地が良いものだ。そこまで思っていけない、と私は自分の心を戒める。また夜神に絆されていた。
もう行ってきますのキスはこれで最後なのだから、と言い訳じみた事を考えながら初めて私から夜神に口付けた。
昨夜の様に貪る真似は決してしない、触れるだけのそれ。
唇が離れると当然のように今度は夜神が私にキスをしようとする。
「月くんからのキスはいりません」
「どうしてだ?」
昨日さんざん嫌われたいと言ったのだから、察してくれても良いのに。本当はキスをしたいと思うが夜神からの好意の表現は徹底的に排除したいのだ。
「どうしても、です。それに月くんは私とのキス嫌がっていたでしょう?」
「確かに最初は嫌だったが別に今は……」
「それとも月くんは私とキスしたいんですか?」
夜神の頬が一気に紅潮する。こう言えば彼は引くだろうと分かっての言葉だった。案の定彼は「そんなことはない!」と大きな声で否定した。
「さっさと行けよ」
「はい……帰ってくるまで帰らないで下さいね」
「ちゃんと一週間はお前の妻でいるよ。それ以降は知らないけどね」
明後日まではちゃんと居てくれる。その言葉だけで今は十分だった。後は自分がどれだけ仕事をこなせるかの能力問題だ。絶対に彼がいるうちに帰ってくる。
私はドアを開き外に出て「行ってきます」と彼に向かって言った。先程のやり取りのせいかまだ不機嫌そうにこちらを睨んでいる。最後くらい笑ってくれても良いのに。
そんな無理のある想像をしながら私はドアを閉める。
完全にドアが閉め切る瞬間、小さな声が私の耳に響いた。
「いってらっしゃい」
バタンとドアが閉まって夜神の姿は見えなくなった。
反則だろう。ドア向こうの夜神に向かって心の中で叫ぶ。
どうして最後にあんな寂しそうな声と表情をするんだ。
笑顔で送られるよりもよっぽど堪えた。
あんな表情されてしまったら仕事の間忘れる事なんて出来ない。
意図して忘れようとすると逆に彼の表情が散らつくので、何も考えないようにしようと私は思考する事すらも放棄してしまった。