Fall Down 03
ウエディに連れられてエルは彼女の住む家に向かった。微かに風が吹いていて心地よくエルの頬を撫でていく。彼女の家の洗濯物も風に揺られいて、実に長閑な光景だった。
「どうぞ」
笑ってウエディがドアを開ける。
「あぁ、エルじゃないですか。ようこそいらっしゃいました」
そう答えたのはウエディとよく組んで仕事をしている詐欺師のアイバーだった。
彼がこの家にいることはそう珍しくはない。
しかしその横にいるさらなる人物にエルは軽く目を見張った。
そこには手と足を椅子にぐるぐる巻きに縛り付けられた上、猿轡を噛ませられている青年がいたからだ。
青年はエルを見た瞬間がたがたと椅子を揺らして暴れる。怯えている様にも見えた。
「ついに誘拐も仕事の範疇にしましたか?」
「馬鹿な事言わないで私腕しか縛ってないわ」
エルの言葉にウエディは口をとがらせてアイバーに視線を向ける。
「彼、暴れる上に口うるさくてね」
アイバーはさらりと言いのけた。アイバーもウエディもそこらの犯罪者とは比べ物にならないくらい紳士的だろうが、それでも犯罪者は犯罪者か。結構粗暴な真似もする。
「なぜこんな事を……」
「それは彼が盗みを働こうとしたから」
未遂だけどと付け加えながらウエディは言った。それにアイバーが陽気な笑みを見せながら補足する。
「それも彼女のスカートをだよ。まぁ彼なら似合うかも知れないけど」
そのアイバーの軽口に反論するように椅子の上で青年が暴れた。反論したくとも猿轡がある状態ではとても無理だからだろう。
「外しましょう。これでは話が出来ない」
エルの言葉にアイバーがせっかく縛ったのにと軽く残念そうにしながら拘束を解いた。
猿轡や手に巻き付く縄が外れて、初めてエルはその青年を子細に見た。
不思議な男だった。男とも女とも見えそうな中性的な雰囲気。
人に愛されるために精巧に作られた人形のように作られたかたちをしている。
とても只の人間には見えない。
青年は暴れてぼさぼさになった髪を掻き上げてこちらを睨んだ。
視線が合った瞬間エルの肌がぞくりと粟だつ。不思議な感覚に戸惑いながらエルは青年を改めて見た。
すると彼の格好がひどく不自然なものだと気づいた。
喪に服している様な黒い服。その所々に白が見えていて、何かと観察すれば彼の肌だった。
男の癖に艶めかしさすら感じさせる肌をわざとらしく着れ目の入った服で見せている。
女にする様な表現だが一言で言うとふしだらな格好だった。エルは急いで纏っていたマントを脱ぐと彼の身体を隠すように巻かせた。
「貴方達少しは彼の格好を気にしなさい」
「ははは、こんな格好が不本意なら彼が服を盗もうとしたのも道理だと思いませんか」
アイバーはこともなげに笑っている。確かに彼の格好は外をうろつくにはそぐわな過ぎて、こんな格好で居たくないのならスカートの方がましかと思うかもしれない。幸い彼ならばスカートをはいてもそこまでの違和感はないだろう。
「君の名前は?」
エルが問いかけると彼は意外にも素直に答えた。
「……ライト」
「分かりました。ライトくん」
そう名前を呼んだだけなのに、彼はぴくりと身体を揺らす。妙に警戒されているようだ。
「貴方エルのところから物を盗んだんですって?」
「おやおや、なんて事だ。どうしてそんな事を……」
アイバーとウエディの白々しい追求にライトは無言だった。決して話すまいと堅く口を噤んでいる。
その攻防は暫く続いて埒があかない。だが彼から事情を聞くほか道はなかった。
「ライトくん。何故教会の本を盗みました?懺悔を」
「……あれは僕にとって大事なものだ。残して行けなかった」
ついさっきまで断固として喋らないという決意を見せていたのに、エルの言葉にはあっさり従う。
妙な態度だった。
エルはライトの『大事なもの』という言葉に惹かれて側に置かれてあった黒い本を取った。初めて触れた本のはずだが何故か手に馴染むような感覚があった。ぱらりと中を開けばニアが言った通り悪魔について書かれた本のようだ。
「これが何故大事なんです?」
正直たいした本ではないと思う。本は高価だがこのような内容ではとても価値があるとはいえない。
悪魔の本など、金持ちや教会の道楽者が戯れに書いたものにしかエルには思えなかった。
価値を見出せていないエルとは打って変わってライトは真剣な表情でその本を見つめていた。
「僕を封じていた……いや、それより重要なのはそれが契約書だと言うことだ」
「契約書?」
「お前が現れて初めて気付いた」
ライトは形の良い指を伸ばしてエルの手の中の本に触れた。その一挙一動から妙に目が離せなかった。
「あの神父、封じるだけでは飽きたらずこの僕を使い魔などという地位に貶めた……」
悪魔の本、神父に封じられた、使い魔……それらが指し示す事実は到底信じ難いものだった。
だが目の前の青年が嘘をついているようにも見えなかった。もちろん気が狂っているようにも見えない。
「お前は何者だ」
アイバーが問いかけると同時に衣服に隠し持っていたのだろうナイフをウエディが月に突きつける。
一歩間違えば命さえ奪われかねない状況下だがライトは余裕を持ってそれを眺めていた。
「僕は魔に属する者」
「悪魔……!?」
アイバーとウエディは驚きの声を上げる。
エルは呆然としていた。そんな存在が本当に存在するだなんて信じられなかった。
だが目の前の青年は明らかにおかしい。その容姿も話す言葉に込められた異様な圧迫感もとても人間とは思えない。
「証拠を見せてやろうか?」
バサッという大きな鳥が翼を広げて風を切るような、そんな音がした。
ライトが身に着けていたエルのマントを擦り抜けて彼の背から大きな蝙蝠の様な羽根が現れる。
非現実的な光景に皆息を呑んだ。本当に目の前の青年は人間ではないのだ。認めざるを得ない。
ライトはエルの手の中で本を開いた。丁度真ん中くらいのそのページには仰々しい魔方陣が描かれている。
「この文が読めるか?僕を封印したあの男、随分と用心深かったらしい」
彼の指がさす文字列。ラテン語で書かれたそれが彼を使い魔へと変化させた契約の証らしい。
わざとらしく仰々しく飾られた文は意訳すれば『この本を開いた者が封印された悪魔を使役する事ができる』と、そういうことが書いてあった。
これならば確かに彼を封印したという者は用意周到だ。
本は教会に置かれていたのだから、もしライトが本から抜け出ればいつの時代でもほぼ確実に教会関係者が主人となる。
「契約者に僕は逆らえない。本を開いたお前が僕の主人だ」
ライトの指はエルをまっすぐに指した。
形の良い唇が開かれて本能に直接訴えるような官能的な響きを伴ったで宣言する。
マイロード
「ご命令を。御主人様」
唐突で非現実な展開に戸惑いを隠せないエルをからかう様に彼は口端で笑った。
エルはライトを連れて教会への道を戻っていた。
アイバーとウエディに彼が悪魔である事をしゃべらないように口止めをすると「貴方も大変ね」などと同情の言葉をかけられる。
エルはライトを手元に置くしか道はなかった。
おそらく彼を封印したという神父は彼を再度封印するために教会関係者が主人となる様にしたのだろう。
しかしエルには悪魔を払う能力も封印する能力もない。そもそも悪魔の存在自体信じていなかった。
もし中央に連絡を取ればエクソシストでも呼び寄せられるかもしれないが、エルは中央に連絡を取りたくないと考えていた。だからといって彼を野に放つわけにもいかない。
「使い魔なんていらないんですけどね……」
エルはぼそりと呟いた。その声を聞き取ったらしいライトが後ろから口を挟む。
「いらないなら契約を破棄すると言って本を始末してくれ。そうすれば僕は晴れて自由の身だ」
「それは出来ません。悪魔を自由にするなど神に仕える者として拒否します」
「じゃあ我慢するんだね」
常に後ろから聞こえる声。エルは振り返ってライトがエルに追いつくのを待った。
彼はエルからかなり離れた場所で立ち止まった。そこはちょうど夕日で伸びたエルの影の手前だ。
「何で後ろについて歩くんですか。少し話し難いんですが」
「お前の影を踏まないようにしてる」
「何故?」
「僕がお前の下僕だから」
尊大な態度と言い方はとても召使いのそれではない。しかしそんな態度だからこそ彼が力で強制的に僕にされていると証明する。
「影を踏まれても人にはなんら影響はありません。隣へ」
そう言うと彼は従うように頷き、ふわりと宙に浮いた。隠していた羽根を再度羽ばたかせ一瞬で隣へと降り立つ。
「空は飛ばないでください。人間でないと丸わかりです」
「分かった」
素直にいう事を聞くライトに満足する。
悪魔とか使い魔だとか普通なら信じられない存在だが、馴染んでしまっている自分に驚いた。
そして少しどきどきと胸が高鳴っている。退屈だと感じていた心にとって、人間でないその存在は酷く魅力的だった。
「他に何か出来ますか?」
「色々出来たが封印されてる間に能力を失った。回復まで時間がかかるかも知れない」
「では人間と変わりませんか?」
「飛べる以外は。それもたった今封じられたけど」
だったら使い魔といっても住み込みの手伝いが増えたのと同じだ。今までワタリに全て任せていたのを彼にもやらせればいい。
そう考えればただの同居人が増えたのと変わらなかった。メロやニアと同じだ。
「で、僕に何をさせるの?御主人様」
「とりあえずその呼び方をやめてもらいましょうか」
関係性からは妥当とも言えたが彼が悪魔であるせいか妙に性的な意味合いが込められているような感覚があり、後ろめたい。
彼の容姿が悪魔という響きから遠く離れた美しい物であるのもその要因だろう。
「私のことは主人とかそういうことを考えなくて良いです。同格の者として接してください」
「良いの?そんな事言ってて。自分の意思で行動するよ」
「構いません」
彼自身が示唆したとおり其れは危険な話でもあった。
相手は悪魔なのだから人間であるエルには何が起こるかわからない。
「それにスカートを盗むような悪魔は怖るるに足りません」
「それは能力が使えなくなってたから仕方なくっ!」
かっと頬を染めて反論する姿はとても人外とは思えない。
どんなに魔の者だと偉そうに振舞っていても、アイバーたちに捕まってた姿でそれは消え去ってしまう。
こうして挑発にも簡単に乗ってきて結構子供っぽい性格のようだ。
そうこうしている内にあっという間に教会にたどり着く。小さな集落だ。とても狭い、箱庭のような町だ。
「今日からここに住んでいただきます」
「お前より長く住んでるけど……」
「住んでたのは本の中でしょう?」
エルは扉を開けてライトを促すよう手を差し出した。
「ではこれからよろしくお願いします。ライトくん」
「わかった。よろしく、エル」
悪魔との出会いはいつもと少し違う日々の始まりだった。
エルの中から倦怠と退屈が遠く抜け出て行った。