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少年期の邂逅





「松井は何を見てるんだ?」
全員が捜査のため書類に向かっているとは思っていた私は相沢の一言に顔をあげた。
確かに松田一人が書類ではない何やら小さなものを持って、それを眺めている。
「サボりはいけませんよ」
 私の一言に松田がすぐさま謝った。
「すいません」
「いや、それより松田が持っているのは警察手帳だ。あまり気軽に出して良いものではない」
 夜神さんの叱る言葉に松田は更に申し訳なさそう身を縮めた。それに追い討ちを掛けるように私も注意を促す言葉を言う。
「確かにそういう命に関わる大切な物は無闇に出して良い物じゃないですよ」
 特に……
「特に夜神月の前ではね」
 私が心の中で付け加えた台詞をそのまま音に出したのは、当の夜神月本人だった。
そう。夜神の前で偽名でない警察手帳を見るなんて不用意すぎる。
 私が見やると夜神は「そう言いたかったんだろう?」とばかりに自信ありげに笑ってみせた。
不穏な空気を感じ取ったのだろう。松田がおどけた調子で言い訳話を始める。
「これ見てると頑張ろうって気になるんですよ。初心に返るって感じで」
 松田の言葉に夜神さんと相沢は少し気を緩める様にした。松田と同じように二人も警察手帳に似たような思い入れがあるのだろう。
「竜崎にはないんですか?そういう初心に返るって物は」
「あるにはあります」
 調子良く話す松田に釣られて私は不覚にも素直に答えてしまった。途端に松田が興味津々という顔で覗き込んでくる。
 本当に失敗したと目を反らすと夜神と目があった。意外なことに夜神もまた好奇心いっぱいといった顔で私を見ていた。珍しい事だ。
「……見たいですか?」
 試しに伺うようにして見ると松田が勢い良く頷いた。どちらかと言えば私が知りたいのは夜神の方なので彼の方を見てみる。すると期待するような表情でこちらを見ていた。
珍しく素直な態度だ。
「息抜きに……見せますか」
 立ち上がりながらそう言うと夜神が微かにだが嬉しそうに笑った。
それに奇妙な満足感を感じながら私は自室へと向かった。
 それは部屋の奥に置かれてある小さめのスーツケースに入れてあった。
何かあった時にすぐ移動できる様に備えられたそれに常に入れて置いていた。松田の様に出して眺めるなんて事は滅多にしないが、どんな国にあっても常に手元に置いて来ていた。
 それは小さな子供用のハンカチだった。
鮮やかだっただろうブルーは時間がくすんだ色に変えてしまっている。
 これは私が初めて得た探偵としての報酬だった。
このハンカチやその持ち主同様に事件とも言えない可愛らしい話だったのだが。






 その出来事は私が初めて日本に来たときの事だった。
それは表向きは見聞を広めるための旅行だったのだが実際には最後のご褒美の旅だった。
 私はもうLになることが決まっていて、そうなれば自由が失われる事が決まっていた。
Lとして生きるのに必要な代償だ。
 もうその旅も終わるという日本の地で私は無性に全ての事柄から隔離されたくなった。
今思えば只の現実逃避だったのだろう。
Lという存在のプレッシャーを柄にもなく感じていたのだ。
 私は宿泊先のホテルの近くに森を見つけると真っ先にそこへと向かった。


静かな場所ならば独りに成れるだろう。


 森と行ってもそう深いものではなく、手前の方は地元の人間の憩いの場となっていた。なので私は一人になる為にひたすら奥まで進んで行った。
 家族団欒の喧噪から離れ、漸く落ち着けるという所で目の前にそれは現れたのだ。
木陰に佇む小さな子供。
 私は見た瞬間にそれを妖精か何かの空想上の生き物の様に感じた。
私の目は別に節穴ではないので捉えたそれが子供の姿であることは分かっていたが、それが余りに自分の知る子供という生き物とは違って見えたのだ。
森に溶け込むような静けさと凛とした空気を纏う子供。私の知る子供という生き物は感情の侭に泣き、わめき、笑う、そういった煩さを持った生き物だった。
 そういった煩わしさとは無縁そうなその子供はまさしく未知の生き物に見えた。
だんだん距離が近付くと子供の方も私に気が付く。すると子供は木陰から小走りに私の方へ近付いて来て口を開いた。
「すみません。迷ってしまったんです。森の出口まではどう行けばいいのか分かりますか?」
 子供の癖に流暢な敬語で話すものだ。
しかし私はこの子供が只の迷子であったことにひどく落胆していた。
 私は別にロマンチストではないが、こんな場所で出会った不思議な子供に何か運命的な物を期待をしてしまっていたらしい。これも現実逃避の一種だろう。
「私はここまで適当に進んできたので正しい道を教えるのは無理です。ついでに言うと私はこの先に用がありますので貴方を送ったりはしません」
 私の事務的な言葉に子供は呆然としていた。
年齢を考えると言った意味をよく理解できていないのかも知れない。しかし雰囲気から断られた事は分かったのだろう。子供は顔を歪ませた。
 小さいすすり泣く声が聞こえる。
失敗だ。私は面倒はごめんだとさっさとその場から立ち去ろうとした。
 そうして子供に背を向けた瞬間、すすり泣きの声は一気に大音量の泣き声に変わった。森の心地よい静寂がまさに音をたてて破られる。
結局『これ』も只の子供か!
「五月蠅いです!黙りなさい!」
 かなり強く言っても子供はまったく聞いていなかった。泣く自分の事しか見えていないのだ。
「黙りなさいと、言ってるでしょう!」
 目元を抑える手を強引に掴む。
そのまま引っ張るとまだ体重の軽い子供はいとも簡単に引きずられて道に放り出された。
 あまりに軽い感覚に私は狼狽えた。
道を転がった子供は動かない。私は慌てて駆け寄った。
頭でも打ったのか……
 しかし近づくと小さなぐずり声が聞こえた。
連続した予想外の展開にふてくされてしまったらしい。丸まって只泣いている。特に異常がないと知り思わず安堵の溜め息が出た。
「怪我がないか見ますから立ってくれます?」
 私の言葉に動作はゆっくりながらも子供は素直に立ち上がった。
どうやら外傷もない。この様子なら頭を打ったりもしてないだろう。
問題はどちらかと言えば泣きはらした顔に泥だらけの姿だろう。
 そうして子供の顔を間近に見て初めて、私はこの子供の外見が美しいと褒めるに足るものであると知った。あまり子供に美しいと言う表現は似合わないと思うが、それでもその言葉で褒めるのが正しいように思える造型だ。
「大丈夫ですか?」
 子供が頷くのを見て私は彼の汚れを拭おうとハンカチを求めポケットに手を突っ込んだ。
しかし生憎ながら持ってきていない。
「ハンカチあります?」
 聞けば几帳面にも綺麗に折り畳まれたハンカチを差し出してきた。それを受け取って顔を拭いてやる。体の埃も払えばだいぶマシになった。
「悪いことしたらあやまらなきゃだめってお父さんがいってた」
 ぽつりと呟く。悪いこととは私が彼に乱暴したことだろう。
「君が我が儘を言うからです」
「わがままなんて言ってない!」
 意外な程強く反論された。しかし私は自分の意見を否定されるのがとても嫌いだ。
「君に優しくしなかったのは私の我が儘ですが、君が駄目だと言われたのに泣いて言うことを聞かせようとしたのも我が儘です」
 私の言葉にまた泣きそうな表情をする。
また同じ事をくり返すなんて不毛だと、私は気を反らすべくすぐさま話題を変えた。
「ただ乱暴にしたのは私が悪いですから謝ります。すみませんでした」
 軽くお辞儀をして言うと子供は少し満足そうに頷いた。
幼い視野の狭さではやはり目先の事を優先してしまうらしい。簡単に誤魔化せる。
「では行きましょうか」
 子供は大きな目をさらに見開いて私を見た。
薄茶の目がどこへ?と問いかけていた。
「森の出口まで。連れていってあげます」
 手を差し出すと子供は嬉しそうに笑って私の指先を掴んだ。握られた手は小さく暖かかった。




「君の名前はなんと言うんです」
 歩きだした私が始めに聞いたのはそれだった。
名前を聞くという当たり前の行為にしかし彼は文句をつける。
「お父さんがなまえを聞くときは先になまえを言わなきゃって」
 また『お父さん』か。随分と父親に懐いているらしい。
しかし私は彼に簡単に名前を言うわけにはいけなかった。これからLとなる私が本名を名乗るのは抵抗がある。だからと言ってLと言うわけにもいかない。
「私は探偵なので無闇に名乗れないんです」
「お兄ちゃんは探偵さんなの?」
「はい」
「本物の探偵さんってはじめて見た!」
 にっこりと喜色満面に笑う。子供の旺盛な好奇心には魅力的な職業だったのだろう。
「でも名前おしえてくれないならぼくもおしえない」
 楽しそうにそっぽを向いて、理屈の通った屁理屈を子供は言った。
「では親と離れたのは何時ですか?」
 少しでも情報はあったほうが良い。
森の中で親に会えればその場でこの子供を引き取ってもらえる。そう考えての言葉だった。
「お父さんたちは森の前の広場だよ」
「森ではぐれたのではないんですか?」
「だってぼくひとりで来たもん」
 こんな小さな子供が一人で森の奥へ?
小さいと言っても子供にとってはそこそこの広さのある森だ。
しかも特に遊ぶものもないこんな場所にわざわざ来るとは変わっている。
「何故一人で?」
「ひとりになりたかったから」
 思わず吹き出してしまった。私と同じ理由じゃないか。
だが笑われたのが気に食わないのか子供は口を尖らせた。
「一人が良いのに帰るんですね」
「だって帰らなきゃ悪い子になっちゃう!」
「悪い子は厭ですか?」
「ぼく悪い子じゃない!」
 すっと指先に絡まる暖かさが離れた。
子供は今にも泣きそうな顔でそこに立ち尽くしている。
何か気に触ることでもあったのか……
「ぼくは……わがまま言わないし、悪い子じゃないもん……」
 訴える声は弱々しかった。もう一度手を掴もうと私が手を伸ばすと、その手を思いきり弾きとばして拒否をする。
子供は手加減がない。撥ね除けられた手がひりひりと少し痛んだ。
「人の好意を無視する君の行為は我が儘ですよ?」
 その『我が儘』の一言にあっさりと子供は「ごめんなさい」と謝罪して、私の指先をまた握ってきた。よほど我が儘扱いは厭らしい。
 暫くはばつが悪いのかそのまま黙って歩いて行ったのだが、子供がふと上目使いで私をのぞき込んでいる事に気が付いた。その薄茶の瞳は好奇心でいっぱいだった。
「お兄ちゃんは探偵さんなんでしょ?すごいね」
 やはり興味を引くのは私の職業だったらしい。
しかし私はLではない普通の探偵がどれ程すごいか分からない。普通の探偵は浮気調査に代表される様なくだらない事をする物だ。
「すごいですか?」
「うん。だってこまった人を助けるんだよ。お父さんとおんなじ!」
「お父さんは何を?」
「けいさつかん!ぼくもお父さんやお兄ちゃんみたいな人を助けるお仕事がしたいんだ」
 嬉しそうに夢を語っているが彼は少し勘違いしている。警察と探偵では仕事は大違いだ。
「探偵はお金をもらって人を助けますから警察の方が人を助けますよ」
「お父さんもお金もらうよ」
「警察官は国からお金をもらっていますが、探偵は困っている人からお金を取るんです」
 子供は考え込むように黙り込んだ。少し話が難しかったのだろうか。
「お兄ちゃん、ぼくからお金を取る?困ってるぼくを助けたから」
「取りませんよ」
 こんな子供から金をとれる訳もない。
「いいの?」
「お話の中の探偵が美しい女性のキスを報酬に難事件を解決してしまうのと同じです。サービスですよ」
 例えて言ってみたのだが、こんな小さな子供はそんな気障ったらしい探偵が出るような本も映画も見たことはないだろう。実際例えが良く分からなかったのか子供は悩むような仕種をしている。
「……じゃあぼくがお兄ちゃんにちゅうすれば良いの?」
 やっと出て来た言葉に私は溜め息を付いた。子供の思考回路とは理解出来ないものだ。
「君のキスを報酬に仕事をしたら私はもれなくペドフィリアの謗りを受けてしまいます」
「ペドフ……なに?それ」
 理解できない言葉に疑問符を浮かべる子供に「とにかくキスはいりません」と念を押す。
子供は分かったような分からないような顔で頷いた。
 そうして話をしながら歩いていたのだが、その間私との歩くスピード差が彼の歩行の邪魔をしている事に気が付いた。子供は何とか付いていこうとしているが体力と歩幅が足りていない。
だからといって私がスピードを緩めるなど嫌な話だ。わざと遅く歩くなど面倒で仕方ない。
 どうせ面倒ならと私はしゃがみ込んだ。
「君、おぶさりなさい」
「っ……いらないっ!」
 強く言われるのは先ほどの我が儘だとかの押し問答と同じ理由かも知れない。
しかしここで彼の言うことを聞いてしまうと、下手をすれば彼を送るだけで一日が終わってしまうだろう。
「君を待つのが面倒なんです。さっさとしなさい!」
 強く言うと子供は驚きにびくりと一度震えたが、やがと意を決したようにおずおずと私の背に乗っかって来た。立ち上がってみても子供の体はそこまで重みを感じることは無かった。
 むしろ穏やかな暖かさが心地よい。そのまま暫く歩いて行くと首に回された子供の腕がだんだんとその緊張を解いて、私に縋るようになってきたのを感じた。私はようやくこの子供のテリトリーに入れたらしい。
 子供は私にしがみつきながらぽつりと言葉をこぼした。
「おんぶしてもらったのひさしぶり」
「まだ小さいのですから親に存分にしてもらえばいいじゃないですか」
 たかがおんぶに嬉しそうにしている子供を不思議に思った。こんなに軽いのだ。
おんぶなんてたいした苦痛にはなり得ないと思った。
「無理だよ。僕お兄ちゃんなんだ」
「下に兄弟がいるのですか?」
「うん。いもうと」
「それとおんぶは関係なくありませんか?」
「お兄ちゃんはわがまま言っちゃいけないんだよ」
 その言葉にこの子供がどうしてあんなにも我が儘というフレーズに過剰に反応するか分かった。おそらく親の言葉が脅迫観念の様に彼の周りを渦巻いているのだ。
 お兄ちゃんは我が儘を言ってはいけない。我が儘を言うのは悪いこと。
親という生き物が言うありきたりな教育の言葉を、この子供は悲しいくらい真面目にとってそれに囚われている。
「たかがおんぶすらしてもらえなくなるなんて、お兄ちゃんは悲しいですね。
嫌じゃないんですか?」
 そんな事を聞いたのは彼がささやかながらも自由を失っていることに、同情のようなものを感じたのからだった。
 もうすぐ私は自由を失う。
いや、そもそも彼に名を名乗れない時点で不自由は始まっている。
「……ほんとは嫌……」
 だからその答えを聞いた時はとても嬉しかった。
仲間を見つけたという奇妙な連帯感に酔いしれる。
「お兄ちゃんになんかなりたくなかった」
 子供は思いを吐き出す。やっとの思いでだしたそれは小さな声だったが、その代わり今まで蓄積されていた故の強さがあった。
 そう。私だってLになんかなりたくなかった。
「どうして自分のしたいことが出来ないんでしょう」
 たかが名前。それすら名乗ることを許されない。
「どうして自分で選べないんでしょう」
 他人が決めたLになるという未来。
「全て放棄してしまいたい」
 ただの愚痴だ。しかし今はそれに頷く相手がいる。
「ぼくもぜんぶやめたい」
 小さな子供は私に同調する。
規模は違うが同じ境遇。年齢も立場も違うのにこんなに自分の事を話したのは初めてだった。
「分かります?」
「うん」
 小さな子供が頷く度に心が軽くなる。
「やなこと全部なくなっちゃえば良いのに」
 それは子供の衝動的とも言えるな願い事だった。
衝動的な言葉に、私も衝動的な言葉で返す。
「逃げてしまいましょうか?」
 言ってしまったその言葉は実際に口に出してみると酷く魅力的な案に聞こえた。
「にげる?」
「はい。嫌なこと全てがない所へ逃げてしまうんです」
 子供はそれを吟味するように暫く口を閉ざした。やがて悪戯めいた可愛らしい笑みを浮かべて私に囁く。
「わがままいっぱい言える?」
「お菓子だって食べ放題です」
 子供が楽しそうに笑った。その無邪気な様子にこの子供を連れて本当に逃げ出してしまおうかという考えが頭を掠める。Lでなくてもそれくらいは出来る。
「あっ……出口」
 子供の言葉に顔をあげるとそこには出口を知らせる看板があり、その向こうには家族団欒に利用される広場があった。すでに夕焼けに赤く染まり始めているそこは人も疎らだ。
 その中に何かを探すように動く人影があった。私はこの子供の親だと直感的に確信した。
「おかあさん」
 私の考えを肯定するように子供が呟き、私の背から軽々と降りて母親に向かって走り出そうとした。私は子供が親の元に向かうのを腕を掴む事で強引に止めた。
 驚き、振り返る子供を私は強く抱き締める。腕の中で子供が緊張に身を固くした。それがほぐれるのを待って私は子供に囁きかける。
「本当に逃げ出しませんか?」
 軽い冗談のような言葉だったのに、今の私はそれに囚われていた。これから失う様々なものを思い本当に切羽詰まっていたのだ。
独りでは逃げ出すのに力がいる。すべてを捨て去る決断力が。
しかしこの子供と一緒ならばLと言う大きな枷からも逃げ切れるような気がした。
 だが子供の方は戸惑う表情をしていて、断るだろうと言う事は火を見るより明らかだった。
どうせなら連れ去ってしまおうか?
いや、それをしたら私は誘拐犯だ。
「ぼく、お家に帰る」
 想像通りの言葉に私は抱く力を強くした。このまま本当に誘拐してしまおうか?
「お兄ちゃんは嫌なのでしょう?」
「いやだけど……すき」
「好き……ですか」
 矛盾した言葉だが、嫌だということと好きだと言う事は相反しないものなのだろうか。
「やなコトいっぱいあるけど楽しいし。さゆ……いもうとのコトもすきだし」
 その言葉に失望めいた物を感じて、私は抱く手を緩めた。だらりと子供の肩に乗せているだけになった私の腕に彼はそっと触れた。慰めるような仕種だった。
「お兄ちゃんは?」
「私ですか?」
「いやなこと、全部きらい?」
 首をかしげて彼は私を覗き込む。
Lであることが全て嫌だろうか?
そう問われれば違うとしか言えない。
私は推理する事が好きなので探偵という職業はまさに天職だった。
 それにワタリ。彼がいる。
私がLをしたくないと言えば彼は決して反対しないと思う。だがきっと少し残念がる。
それにワタリと離れるのは嫌だった。かなしい、と思う。
「全部嫌では……ありません」
 出した結論に子供は笑った。
まるで私がこう言うのを分かっていたような笑い方だった。
「しかし嫌なことも多いでしょう?君も」
 まるく収まったかに見えた話を更に蒸し返す私に、子供が戸惑いの視線をおくった。
私は構わずに彼の肩を再度抱いた。
「私か貴方がまた全部が嫌で仕方なくなったら逃げ出す事にしませんか?一緒に」
 逃げ道だった。
Lに耐えられなかったときの保険の様な約束を私は要求していた。
「お兄ちゃんが逃げたくなったら?」
 子供が私の目を見つめて言った。私も子供の大きなその瞳を見つめて言った。
「君が逃げたくなったら」
「いいよ。やくそく」
 子供は笑って細く小さい指を私に向けた。
それがどう言うことか計りかねている私に子供は「ゆび」と催促する。
 訳が分からないながら私も彼と同じ様にして小指を差し出した。
すると子供が私の指に指を絡めて、歌にあわせながらリズムよくそれを振った。


ゆびきりげんまん
うそついたら、はりせんぼんのーます
ゆびきった


 すっと離れる小さな指。
あまり意味は分からなかったがどうやら日本の子供の約束の仕方らしい。
「やくそくね」
「約束です」
 子供は嬉しそうに笑って私の手をとり今度は母親の方に向かって歩きだした。
もう彼は家に帰ってしまう。そうしたら一生会えないかも知れない。いくら約束をしたってもう一度会えなければ叶えられない。
親に住所を聞いておくか?そんな事を考えて自分の必死さに笑った。
あの約束は気休めのようなものだろう、と。
 それでも良かった。子供の小さな約束でもそれを頼りにLをこなせる。
まったく自分の単純さに笑いがこみ上げてくる。
 遠くに見えていた人影がもうすぐそこにある。向こうも私たちに気が付いてこちらに駆けだしてきた。
「どこに行ってたの!?心配したでしょう!」
 母親はそう言いながら子供を抱き締めた。抱き締める力はそれだけ不安だったと言わんばかりに強く、華奢な子供が痛みに軽く顔をしかめている。
しかしどことなく嬉しそうなのは決して見間違いではないだろう。
「息子がご迷惑をかけました」
 落ち着いて漸く私に気づいたらしい。焦った様子で感謝の言葉を述べられる。
月並みな言葉を言う平均的な母親だった。
お礼をさせて欲しい。一緒に食事でも。そんな事を言われて心底困った。
Lが不用意に誰かと親しくするわけには行かない。なんとか断っても「お礼を持っていくから住所を」と言われる。感謝してくれるのは良いがどれも私には困る要望ばかりだ。
「礼はいりません。これは仕事でした事です」
「仕事……ですか?」
 母親は不思議そうな表情をした。
私はそれを無視して子供の目線に合わせるようしゃがみ込んだ。
「私は君から依頼を受けてここに来ました。サービスですから金銭は要求しませんが、報酬は戴きます」
 子供は私の言葉を理解しようと必死に考えている。
もう少し噛み砕いて言い直そうかと思ったその時、小さな手が私の頬を抱くように触れた。
「ちゅう?」
 真剣な眼差しで小首を傾げる子供に脱力する。あんなに要らないと言ったのに。
「……だからそれは要りません。代わりにこれを下さい」
 それは最初に彼に借りた小さなハンカチだった。返すことなくそのまま持ってしまっていた泥だらけのそれを私は欲しいと思った。
 別にこれじゃなくても良い。この子供と感情の共有をしたという事実を思い出せる様なものならばなんでも。
「それでいいの?」
「はい」
 私が嬉しそうに笑ってみせると子供もはにかんで笑ってみせた。
母親だけが申し訳ないような困惑した表情をしている。私としてはこのハンカチ以上の謝礼はこの子供そのものくらいなので十分満足しているのだが。
 だんだんとあたりが夕闇に染まっていく。結局一人にはなれなかったが、それ以上の成果はあったと思う。もう離すまいと子供と手を繋ぐ母親に、何故かワタリを思い出した。
そういえばどこにいくかも言わずに出て行ってしまった。もしかしたら不安に思っているかも知れない。
「本当にお世話になりました」
 母親が謝辞を述べる。おそらく家へと帰るのだろう。
もうこの子供とは居られない。
「ばいばい」
 子供が私に手を振る。あっさりとしたものだ。もっとも二度と会えないだろうと言う事は私しか知らないのだから当然か。
「では、またいつか」
会えれば。という言葉を心の中だけで呟く。
「うん、またね。今度はお兄ちゃんがお仕事してるところがみたいな」
「その時は見せてあげます。私結構すごいですよ」
 世界の切り札たるLなのだから。
「約束忘れないで下さいね」
「お兄ちゃんもね!」
 母親と連れ立って歩く子供の影を見送る。だんだんと見えなくなって行くそれを空しく感じて俯くと、手に持ったハンカチが見えた。
大丈夫だ。根拠のない自信を感じながら私はLになるという覚悟をその時決めた。
顔をあげると、ワタリの待つホテルが夕陽に照らされて赤く染まっていた。





 時計の秒針が時を刻む音で私は意識を現実世界に戻した。思い出に浸るなんて私の柄ではないが、こればかりは別だ。今は土汚れもなくアイロンがかけられたハンカチを持って、私は捜査員達が居る部屋に戻った。
「遅かったな」
 戻ると夜神が声をかけて来た。そう言えばあの子供は今頃夜神くらいの年齢か。
「さっきまで月くんの小さい頃の話してたんですよ」
「それは興味深いですね」
 よりによって何故私がいない時にこういう話題が出るのか。貴重な夜神の昔話を聞く機会をふいにしてしまったらしい。
「迷子になった時に助けてくれたお兄さんがですね……」
 残念そうにする私に松田が夜神の話をかいつまんで説明しようとする。迷子と言うフレーズに奇遇だな、と手に持ったハンカチを見た。
「竜崎……」
 やけに狼狽えた声で夜神が私に声をかける。私を呼び掛けていたがその目は迷う事なく私の手許のハンカチを見つめていた。
「なんでそのハンカチ持ってるんだ?」
「昔貰ったんですよ」
 夜神の反応にまさか、と思うものがある。本当にそうなのだろうか?
夜神が一つ大きな溜め息を付いた。少し温くなった紅茶を一口飲み、優雅に足を組み直した。
「美しい思い出を穢されたような最悪な気分だよ」
「流石に失礼ですよ、月くん。傷付きます」
 想像通りの事実だったらしい。あの小さい子供が今、目の前で不機嫌にそっぽを向いている。
「どうしたんですか?いきなり」
 突如態度を変えた夜神を不思議に思ったらしい。疑問を投げかける松田に私は手の中のハンカチを弄びながら言った。
「月くんの思い出のお兄さんが私だっただけです」
「ええっ!」
 皆が驚きの声をあげる。松田がどうして私達がそんなに冷静なのかと言っていたが、少なくとも私はこのあり得ないくらいの確立の再会に驚いている。
「竜崎、その……その時は息子がお世話に……」
「いえ、大した事は」
 驚きながらも、いや驚いているからこそか夜神さんは私にそんな事を言ってくる。
そのやり取りに羞恥を感じたのか頬を染めながら夜神が抗議した。
「父さんっ!竜崎もそんな話は止めてくれ!いや、それよりハンカチを返せ」
「何故ですか?」
「お前が持っているのが不愉快だ!」
 そんな事を言われてももう何年も私の手許にある品だ。今更だろう。
「相変わらず我が儘ですね。これは報酬としてもらったんですよ、君から」
「僕は我が儘なんかじゃない。報酬なら違うのを渡す!だから返せ!」
 手を差し出して早く渡すようにせかす。私はハンカチを摘み持って彼の掌の上に掲げた。指を離せば夜神の手の中にハンカチが落ちるだろう。
「返すのなら私は報酬として『ちゅう』を要求しますよ」
 態と幼児語で言ったのがそうとう恥ずかしかったらしい。夜神は頬をこれ以上ないくらい赤くさせた。おそらく幼い頃の自分の発言を思い出して羞恥に悶えているのだろう。
「最悪だ、このペド!」
「もうペドって年齢じゃないでしょう」
 言い合う私達を眺めながら夜神さん達は偶然はすごいとか私の年齢は幾つなのかなど話している。
さんざん私に向かって喚いた夜神はようやく落ち着いたのか再度、紅茶を口に含んだ。
「月くん」
「何?」
 落ち着いた辺りを見計らって声をかけると一度私の目を見たのだが、すぐに悔しそうにしながら私の手の中のハンカチを見た。そんなに私がこれを持っているのが嫌なのだろうか。
だったら一生持っていよう。
「あの約束覚えてますか?」
 別れ際の約束。忘れられていたらショックで夜神をどうにかしてしまうかも知れない。
そんな私の感情を他所に、彼は少しだけ表情を緩めながら言った。
「……覚えてるよ。もちろん」
 その言葉にふっと心が満たされる。既に思い出と言う幻の様にな存在になっていたあの約束が現実に帰って来たのだ。
「記憶力が良くて大変いいです。守って下さいね」
「守るけど……僕は君より先に弱音なんて吐かないよ」
 負けず嫌いの彼らしい言葉だ。私も負けず嫌いだから彼より先に弱音なんて吐きたくないのだが。



もし仮にLから、キラから、すべてから逃げ出したくなったら……
逃げ出すのなら『一緒に』だ。
たとえその時に彼が拒否しても、泣き叫んでも連れ去っていく。



「約束ですよ。嘘付いたら針千本飲ませますから」



 私の言葉にそんな子供の遊びのフレーズをどこで覚えたんだと聞いてくる。貴方からだと答えたら、彼はやはり顰め面をした。
「お前だって、嘘付いたらほんとに針千本飲ますからな」
 売り言葉に買い言葉。
それでも私に約束を守れと言ってきた夜神に幸福を感じながら、私は温くなった紅茶に口をつけた。








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リクエストして下さった方!大変お待たせいたしました。
キリバンリクエスト”もしふたりがもっと幼い頃にあっていたら”です。
素敵なリクエストをありがとうございました。
書いててとても楽しかったです。


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