木曜日、午前九時。呼び出し音が鳴ることきっかり三回。 電話の向こうから聞き慣れた少女の声が飛び込んできた。 『はい、成歩堂法律事務所です』 「真宵ちゃん? ごめん今日も休む……」 『あ、ナルホドくん! やっぱりまだ調子悪いんだ…』 「う〜ん、治ってきてはいると思うんだけど……まだちょっと」 『ほんとにほんとに大丈夫なの?』 「平気……だと思う…」 『うん、無理しない方がいいよ……事務所も閉めちゃった方がいいのかな?』 「いや、開けといて。確か今日届く書類もあるはずだし。それより留守番よろしく頼むよ、真宵ちゃん」 『わかった〜安心してまかせてよ!』 元気いっぱいな声にホッとして電話を切る。子機を充電器に戻すのさえもかったるくて、枕元にそのまま転がした。パイプベッドの側の床に乱雑に散らばっているのは空になったペットボトル、体温計、風邪薬…… (う〜だるぃ……) 季節は八月。 いわゆる『夏風邪』をひいた成歩堂である。 思えば予兆は七月から。 夏の到来と共に、日中の最高気温は真夏日レベルから一歩も引かず、連日のように記録を更新し続けた。当然、それに比例して上がるエアコンの稼働率。 とはいえ、綾里法律事務所時代に設置されたエアコンは、徹底的な節約を心がけている成歩堂法律事務所ではあまりつけられることはない。本当にどうにもならないほど暑くなってしまった午後や、顧客との面会がある日だけ、ようやっと電源が入るくらいである。 その当時の流行だった、マイナスイオン効果を謳ったエアコンもあまりの閑古鳥に機嫌を損ねたのか、最近はいまいち調子がよくなかった。 しかし、真剣に考えなくてはならない事件にとって、思考力を著しく減退させる暑さは天敵だ。 書類の正本を前にしては真宵ちゃんお手製のかき氷で涼をとるわけにもいかず、担当書記官が夏休みに入る前にこなさなければならないスケジュールに追われて切羽詰った成歩堂がとった手は『近所のファミレスで仕事をする』だった。 その結果。 キンキンに冷房の効いた弁護士会館の資料室で調べものをした後、アスファルトの輻射熱で殺人的暑さになっている路上を歩いて地下鉄へ乗る。 それからちょっと空調が効き過ぎの寒い電車で事務所の最寄り駅まで乗っていき、これまたギラギラと日差しの暑い駅前を抜けて近所のファミレスのエアコンの下で書類の下書きをする、という日々。 ――これでは風邪をひかないほうがおかしい。 六日ほど前から体調を崩し気味だった成歩堂だが、とうとう具合の悪さにネを上げて、事務所を休むことにしたのは水曜日のことだった。 (悪寒がするけど暑い…) そろそろ電池切れも間近な体温計で測ったところ、平熱よりも2℃ちょっと高い。 こういうときは身体を冷やすべきなのか、それとも暖かくするべきなのか――熱のせいで頭が働かないのか、判断できない。寒いような暑いような、そもそもそれすらよくわからない。 学生時代からずっと住み続けているアパートにはエアコンなどという気の利いたものはなく、室内ではおんぼろな扇風機がカタカタと音を立てて回っているだけだ。 (頭だけは冷やすべきかな…やっぱり) 数日前から市販の風邪薬は飲んでいるが、いまいち効いた気がしない。とりあえず頭痛だけでも緩和したくてタオルケットを引きずりながら冷蔵庫へ向かう。移動するだけでグラグラと頭に響いた。1DKの狭さを幸いと思ったのは初めてだろう。 (保冷剤……) 以前、千尋さんのところに来たお中元の新巻鮭に入っていた保冷剤を貰って帰ったような気がする。しばらく開けてなかった冷凍庫を漁ると、ブロック氷の後ろに薄っぺらい水色の塊が重ねて積んであった。まだ魚臭さが残っているけど仕方が無い。3個ほどとってその辺に落ちていたタオルで包むと首筋に当てる。 気持ちがいい。 ほっとしたついでにのどの渇きを覚えて冷蔵庫を開けると、普段常備しているスポーツ飲料とお茶のペットボトルは残っていなかった。他に飲み物といえば、缶ビールが数本と牛乳―― (賞味期限四日過ぎてるし……) 三日までなら気にならないのだが、四日となると微妙なライン。体調が悪いことも考慮して、ブロック氷をマグカップに入れるとベッドまで持ち帰る。昨日の夜から何も食べていない。とにかく水分だけは摂取しないとヤバいことになりそうだ。 それにしても。 (風邪なんて久しぶりだよ…) どちらかといえば身体は丈夫な方だ。ちょっとくらい風邪っぽくなっても、寝込む状態までいくことはなかった。今回はハードワークと冷房のダブルパンチで悪化したらしい。 氷を口に含んでベッドにもぐりこんだ。保冷剤の冷たさで頭の痛みがわずかに薄らぐ。 ところで、心配事がひとつ。 「さて、ご飯どうしよう…」 思わず口をついて出た。 あまり空腹は感じないのだが、食わねば治らない。 しかし忙しかった上、夏場は食材が痛むので買い置きしないという習慣も重なって、見事に冷蔵庫は空っぽ。マヨネーズと中濃ソースと味噌しかない。食べ物ではなく調味料である。 さりとてガンガン痛む頭を抱えて外に買いに行くのは無理だし、電話して何か取ろうにも、それすら辛い。 (誰か来てくれないかな…って来てくれないよなぁ) 千尋さんだったら事務所の帰りにお見舞いがてら買い物をして来てくれて、自分もそれに甘えてしまっただろうけど、真宵ちゃん相手だとさすがに遠慮がある。 暇なのか何なのか知らないが来なくていいときにはしょっちゅうやって来る矢張は、こういう時には風邪がうつるからイヤだ、と絶対に何があっても来てくれるはずがない。電話をかけるだけ電話代が無駄だ。 もし恋人でもいればきっとこういう時に看病してくれたり、お粥とか作ってくれるんだろう……一人身の悲しさに、思わずベッドで虚しく丸くなってみる成歩堂だった。 そのとき。 『ピンポーン』 (……あれ? ) 一瞬、寂しさのあまり幻聴でも聞いたのかと思ったが、どうやら現実のものらしい。 何か来ている。 時計を見ると、時間はまだ十一時。経験則上、新聞の集金か勧誘の可能性が高い。 (間の悪いときに来るよな……) 具合が悪いし出たくないし、としばらくベッドの上でぐずっていた成歩堂だが、インターホンを鳴らす手は止まない。律儀に一定間隔で繰り返される電子音にいいかげん業を煮やして、起き上がるとドアに向かった。 「はい……っ?」 ドアを開けたまま硬直する。 そこに無言で立っていたのは御剣だった。 「……何で?」 「朝、事務所で聞いた。風邪をひいたらしいな」 そのまま立ち尽くしている成歩堂の前を素通りしてズカズカと中に入り込むと、御剣はベッド脇のミニテーブルに手にしていたビニール袋を下ろした。 「いや、だから何で?」 慌てて後を追う。 「一人だと困るだろう」 「うん、それはそうだけど……御剣、仕事あるだろ?」 「心配いらない。今日の分はほとんど片付いている」 (……って、まだ午前中だよね?) さすがは御剣。相変わらず仕事が早い――というか。 「も、もしかしてわざわざ…ボクのため…に?」 「いや、そうではない。たまたま担当者が休みを取っているだけだ」 「……あぁ、そう…」 ちょっと嬉しくなりかけていた気分をいきなりぶち壊す鈍さもさすがだ。へたれてベッドに座り込んだ。御剣のほうはそんな成歩堂の様子に気がつくこともなく、買ってきたものをテーブルの上に広げている。 「具合はどうだ?」 「う〜ん、まぁ楽にはなってきた感じ」 「そうか。法廷のほうは大丈夫なのか」 「ちょうど期日の谷間で助かったよ……来週からは地獄だけどね」 「幸いだったな」 「うん」 ビニール袋の中身はペットボトルやレトルト食品だった。それらを抱えてキッチンの方へ向かおうとするのを慌てて止める。 「あ、いいよ、自分でしまうから…」 「たいした手間ではない。私がやる」 「でも、しまう場所とかわかんないだろ」 「場所がわからなくなるほど広くはないだろう、キミの家は。病人はおとなしく寝ていろ」 (なんか引っ掛かるコトいわれた気がする……) それでもともかく、自分のことを心配して来てくれたことには間違いない。持つべきものは友であり、気心の知れた旧友。感動だ。 恋人よりも大切だよね友情って、などと矢張が聞いたら「彼女作ってからじゃねぇと説得力ゼロだなゼロ!」と突っ込まれそうなことを考えていた成歩堂は、御剣がテキパキと買ってきてくれた品を冷蔵庫や収納用のプラスチック箱にしまっているのをしあわせな気分で眺めていた。 (御剣ってイイ奴……) 人間、身体が弱ると心も弱る。普段はまず感じたことのない孤独感にへこんでいたところにやってきてくれた御剣に、好感度は大幅にアップする。 と、買い物をしまい終わったらしい。キッチンから戻ってきた。 「飲み物と簡単に食べられそうなものは冷蔵庫に入れておいた。あとはビタミン剤と栄養補助食品だ……とりあえずこれだけあれば大丈夫だろう」 「ほんとにありがとう、助かったよ御剣」 「……礼には及ばん」 視線をそらした頬が微かに赤い。二人の間に、何やらほのぼのとした空気が流れる――のは、ほんの一瞬。 「それでは帰る」 「う……っええぇ?」 唐突に発せられた一言に、成歩堂は思わず目をむいた。 「何だ」 「か、帰る…の? もう?」 「帰るだろう、そりゃ」 「だって…」 時計は十一時十二分。やって来てから、まだ十分足らずしかたっていない。事務所に用事で来る時だって、こんなに早く帰ることはないというのに…… すでに成歩堂の欲求は『ご飯』から『人恋しさ』にすりかわっていた。元々、どちらかといえば寂しがり屋の気がある上、いくら能天気な性格とはいえ、病気の時にはさすがに心細い。 「まだちょっとしかいないじゃないか」 「用事はすんだ」 「久しぶりに会ったってのに…」 実際のところ一週間ぶり――これを久しぶり、と言うかは微妙なところであるが。 「キミは病人で、私は遊びに来たわけではない」 このままごねられそうな気配を感じ取ってか、キッパリとした口調で言い切られる。 「……」 確かにその通り。返す言葉がない。 しょぼんと黙ったのを見ると、御剣はヤレヤレといった顔でテーブルの上に残されたままになっていたビニール袋を折り畳んで立ち上がる。 「レトルトのお粥を買ってきた。暖めて食べてから薬を飲んで寝たまえ」 「うん……」 項垂れたまま、玄関へ向かう後姿を見送った。 「あと、その格好だと腹が冷える。下は履いた方がいいぞ」 ドアを出て行く間際の言葉で、自分が襟元が伸びてユルユルになったTシャツとトランクス姿のままだったことにようやく気がついた成歩堂である。 (なんかていうか……) 冷たいよね、御剣って。 成歩堂はホカホカと美味しそうに湯気を立てる卵入りお粥を前に愚痴をこぼした。チンして2分。電子レンジは便利だ。 そりゃ、いろいろと買い物してきてくれたのはありがたい。でも、お見舞いに来てくれたのに必要最小限の行動と時間で帰るっていうのはいかがなものだろうか? もうちょっと何か、こう温かみのあることをしてくれてもいいのに。 (例えば…何か作ってくれるとかさ) 貧乏生活が板についている成歩堂は男の手料理だろうとなんだろうと食べられるものに文句はない。だがその前に、御剣が料理を作れるのだろうか? という根本的な疑問はすでに意識のどっかにすっ飛んでいた。身体が弱っているときは、思考力も弱るのだ。 しかしいまさら仕方がない。ため息のあと、スプーンを手にして半日ぶりのご飯と向かい合う。 (…あ、美味しい) レトルトのお粥は、すきっ腹にじんわりと沁みた。 やっぱり来てくれただけでも感謝するべきかと思い直し、腹が落ち着いたところで薬とビタミン剤を飲む。ベッドに転がり込もうとして、御剣に言われたことを思い出した。 (腹冷やすとまずいんだっけ) 部屋の隅のほうに放りっぱなしになっていたジャージを引っ張り出して履いてタオルケットに包まる。 胃が暖かい。すぐに眠りに落ちた。 『ピンポーン』 夢うつつに何か聞こえる。 『ピンポーン』 ドンドンとドアを叩く音。 (…うるさい…) 次第に目が覚めてきた。部屋の前に誰かいるようだ――というか。 『なーるーほーどーく――ん』 「……ま、真宵ちゃん…?」 慌てて起きて時計を見ると、もう夜7時。事務所を閉めてから寄ってくれたのか? と考えている間に、ドアの向こうの呼び声は大きくなってくる。ともかくこれ以上部屋の前で騒がれると近所迷惑だ。あくびをしながら玄関に向かう。 「お――い、生きてますか―…わっ!生きてる! 」 いきなり開いたドアに、目をまん丸にして飛びのいた。 「……あのね、近所迷惑でしょ」 「だって鳴らしても出てこないんだもん。倒れてるかもしれないから…ね?」 「そうッスよ」 「……え…?」 真宵ちゃんの向こうからヌッと出てきたのは糸鋸刑事。 「……何で?」 「風邪ひいたらしいッスね?」 「お見舞いだよ。イトノコ刑事が晩御飯作ってくれるって! 私もご相伴に与らせていただきま〜す」 「…う、うん…」 (なんかいきなりだよな…) 戸惑いつつも、狭い玄関でこのままずっと向かい合っているわけにもいかない。ずるずると後ずさって進路を空ける。そこへ、ピョコンと頭を下げてから真宵ちゃんが入ってきた。そのあとから邪魔するッス、とのっそり糸鋸が続く。見ると両手には大きな袋が二つ。 見た目からすると料理なんてしそうにないのに…と、首をかしげる成歩堂をよそに、糸鋸はウキウキとキッチンを点検しているし、寝室というよりはたった一部屋だけの居住スペースからは、これがナルホドくんちかぁ〜へぇ〜、と興味津々な声が聞こえてくる。 つい六時間ほど前までは一人で持て余していた空間が、急に窮屈になってしまった。 「ねぇ、テレビつけてもいい?」 「いいよ。その辺にリモコンあるから」 「わかった〜」 真宵ちゃんの方は見たい番組でもあったのか、ミニテーブルの脇に置いてあったクッションを引っ張ってきて座を構えるとさっそくテレビに張り付いた。 (やれやれ…) と、背後から聞こえてきた水音に振り返ると、糸鋸はすでに材料の野菜だの鶏肉だのを並べて俎板を洗っている。その上どうやら持参してきたらしいエプロンを着用。胸に子猫のワンポイントのあるずいぶんと可愛らしいデザインだ。 意外と乙女趣味なのかもしれない…… 「イトノコ刑事って料理得意なんですか?」 黙ってみているのもなんなので話を振ってみる。 「そッスね…ずっと一人で自炊ッスから。自然と色々作るようになるッスね」 「…はぁ、そうですか」 (料理すんの好きなんだ、この人) 成歩堂とて大学に入ってからずっと一人暮しだが、ほとんど自炊はしなかった。自炊の方が経済的だが、やっぱり洗い物や何やで色々面倒くさいのだ。そんなわけで作れる料理はスクランブルエッグと目玉焼き、あとはお好み焼きくらい――当然キッチンの使い勝手もそれほど考えた事はなく、糸鋸の大きな身体にはやや手狭な様子である。とても手伝いできるような物理的なスペースがない。 (なんかテレビでも見てよっかな…) 後ろで突っ立ってても仕方がないので、奥の部屋に向かうことにした。 真宵ちゃんは身を乗り出して真剣にテレビに見入っている。いかにもそれっぽい音響と、恐怖と緊張に固まったタレントの顔――画面の右上に『遊園地 夏のお化け屋敷スペシャル』とおどろおどろしいタイトルロゴ。 (お化け屋敷だけで番組一個つくれちゃうんだ…) 子供の頃の記憶からはいかにも毒々しくて安っぽい見世物小屋、というイメージのお化け屋敷だが、最近のものは大人の観賞にも耐えうるだけのクォリティが求められているらしい。 時代も変わるものである。 (そういや、もうお化け屋敷なんてずっと行ってないもんな…) 最後に風邪をひいたのと、どっちが昔のことだろうか? そのままベッドにもたれて座った。 「あれ? 寝てなくていいの? 」 CMになってようやく真宵ちゃんが振り返る。 「もうかなり頭もスッキリしてきたから。明日には大丈夫になってると思うよ、三日も事務所空けるわけにいかないし」 「よかった〜これ以上書類溜まっちゃったらどうしようって思ってたんだから」 「……そんなに…?」 いきなり頭の痛い事態が発生しているらしい。大きくため息をつく。が、今考えても仕方がない。CMが終わり、またテレビに張り付いた後姿に声をかける。 「…それ、面白い?」 「うん! すっごいよ、びっくりするんだよ〜怖いし」 「…怖いって、真宵ちゃんはむしろアッチ側の人間じゃないか」 「それはそれ、これはこれ。あのね、霊媒するのとね、怖いっていうのとね、びっくりするのは全然違うんだよ」 くるりと振り返ってわかってないね〜なるほどくんは、と首を傾けるとまたテレビ観賞に没頭した。 (はいはい…) 女の子の感覚ってのはよくわからない。 キッチンの方からは、まな板を叩く包丁の軽いリズムとともに、糸鋸の鼻歌が聞こえてくる。 人がいっぱいいる空間は、それだけで不思議と暖かかった。 最後に風邪をひいたのは何時のことだったか―― (小学校の四年生のときだ……) 薬も飲んだしご飯も食べて。別に用事はないんだけど母親のことを引きとめていた気がする。一人で寝ている部屋の天井が、熱でぼやける視界のなかで妙に高く見えたものだ。広いところに一人置き去りにされたような心細さ……病気のときの心境、というものは大人になっても変わるものではないらしい。 そしてあの時も御剣がお見舞いに来てくれた。 風邪ひいているのに嬉しくて、そのまま布団から抜け出して遊んでいるところを母親に見つかりあとでこっぴどく叱られた。 (そのあと、御剣が風邪ひいたんだよな…) 懐かしい記憶。 「できたッスよ」 キッチンから糸鋸が顔を覗かせたのは、お化け屋敷特集も三軒目にはいった頃。 どんぶりに盛られて湯気を立てているのは具沢山のうどんだった。 「うわぁ〜おいしそ〜」 「風邪は熱いもの食べたほうが治るッス。うどんは消化にもいいし最高ッスね」 「へぇ……」 「それじゃいただきま〜す」 糸鋸が気を利かせて買ってきてくれた割り箸で、アツアツのうどんをすする。ホウレンソウ、卵、鶏肉にたっぷりのねぎ。薄味だが出汁がしっかりしていて美味しい。 「ふぅ……汗が出る…」 「それがいいんスよ。」 「暑いよね、窓開けてもいい?」 「網戸だけ閉めとけばだいじょぶだよ」 真宵ちゃんが空けた窓からは、日中の生暖かい風とはまるで別物の、ひんやりとした夜の空気が流れ込んできた。 「わ〜…気持ちいい」 (…そういえば) ずっとひっかかっていたこと。 「イトノコ刑事、なんで晩御飯作りに来たんですか? っていうか、ボクが風邪だってこと、どこで…?」 それなりに顔見知りだし一緒に飲んだこともあるけど、わざわざ飯を作りに来てもらうほど親密な仲でもない。疑問に思って聞いてみた。 「検事に聞いたッス」 「御剣に?」 糸鋸の話によれば、午前中に御剣が警察署に裁判書類の件だかで来たらしい。 「で、検事が『風邪のときは何が身体にいいだろうか』って聞くんで『具沢山のうどんとかあったかいもん食べるのがいいッス』って答えたんッスよ」 ほら、自分はいつもそれで治しますから、と口の端を上げて得意そうに笑う。 (確かにこのうどん、効きそうだよな…) 「そしたら検事が『自分には作れないから成歩堂に作ってきてやってくれないか』って」 「御剣が?」 「そッスよ、あんたのこと心配してたッス」 「御剣検事、イイ人だね…」 真宵ちゃんはもう涙ぐんでいる。 検事は心が優しい人ッスからね…としみじみと糸鋸が言う。 (……そっか…) さっさと帰っちゃって冷たい奴だ、なんて思った自分が恥ずかしくなった。御剣にしてみれば、糸鋸に夕飯の手配を頼んだ上で自分が出来ること――必要な品を買うことだけをして、あとは病人に負担をかけないように早く帰っただけのことだ。 鼻の奥がジンと熱い。 うどんに入れた七味のせいだと、思うことにしよう。 「ああ、それから」 話はまだ続いていたらしい。 「『夏風邪はバカがひくもの、と相場が決まっているらしいが、成歩堂はバカなんだろうか? 』と真面目な顔して聞かれたッスよ」 ま、格言にはそれなりに根拠がありますからねって答えたッスけどね、とガハハと糸鋸が笑う。 泣かなくてよかった、と心底思った成歩堂であった。 二人は二時間ほどして帰り、あとに一人残された。 身体が軽い。もう心細さも感じない。 明日御剣にお礼をいわなくちゃ、と思いながらベッドに入る。 満ち足りた気分で、眠った。 金曜日。普段より一時間遅い事務所の朝。 「あ、なるほどくん! おはよ〜もう大丈夫?」 「うん、もう平気。それにこれ以上休めないしさ」 「そうだね〜…はい、コレ休みの間に溜まった分ね」 真宵ちゃんから渡された量にギョッとする。二日間、休んだだけとは思えないような仕事の溜まりっぷり…あちこちの関係者が夏になる前に片付けようとフル回転しているらしい。しかも日付をみると、どうやら今週末に入るまえに出さないとヤバそうである。 (今日中に投函しないと…マズい…) 復帰早々、仕事に追われる週末となった。 「ようやくひと段落ついたね、お疲れさま〜」 午後三時。ようやく出すべきものをまとめ終わって封をした成歩堂の前に、真宵ちゃんがかき氷を運んでくる。 事務所の台所にデンと居座っているペンギン型のかき氷機は綾里法律事務所時代の名残だ。依頼人の子供からプレゼントされたものである。千尋さんは、時々報酬代りに面白いものを受け取っていた。例の『考える人』だって、その類にはいるだろう。 それっきり、今まで一度も使ったことはなかったのだが、せっかくだからと真宵ちゃんがブロック氷をしゃりしゃり削ってコーヒー用のシロップをかけてみたところ、意外といけることがわかった。現在はシロップも四種類に増え、猛暑の中、ペンギン型かき氷機はバリバリの現役として活躍している。 快気祝いなのでいつもの五割増、とガラス製の椀にてんこもりに盛り上げられた白い塊にスプーンを突っ込むとサリッと冷たい音がした。それでも暑い室内のせいか、椀の底の方はすでにジュース状態。本日の最高気温33℃の威力というところか。 「今日はさすがにエアコン入れようか…?」 「そうだね…またナルホドくんが風邪ひいちゃっても困るし」 真宵ちゃんは風邪とかひかないのかな…そういえば千尋さんも病気になったことなかったよな、もしかして霊力が強いと病気にも強いのだろうか、など謎の命題について思いをめぐらせているうちに、エアコンが低い音を立てて稼動し始める。どうやら今日は調子がいいようだ。 「気持いい〜…ね、ね、なるほどくん、こんど風鈴つけてもいい? リンリンなったらきっと涼しいよ?」 「う…ん、こんどね…」 このまままかせておくと事務所が縁日化するのではなかろうか、と微かな危惧を抱いたところに、不意に来客をつげるチャイムの音。 今日は来客予定はなかったよね? との疑問の答えはすぐに出る。 「うっす」 案内も請わずに勝手に入ってきたのは矢張だった。 「おぉ、涼しいな〜」 入ってくるなり、ドッカと成歩堂が腰掛けていたソファの向かいに座る。 「……何の用だ?」 「ん? ひとやすみ」 そう言うなり、真宵ちゃん、かき氷ひとつ追加〜っと手を振った。は〜い、と元気な返事が返ってくる。 「…ここは喫茶店か……」 「だってよ〜今日すっげぇ暑いんだぜ? だけどさ店はいって涼むと金取られるしよ、ほら、オレいまサナエと付き合ってるジャン、サナエいいオンナなんだけどさ、やっぱさぁ〜ちょっとカネかかるんだよね…」 「で、ただで休みにきた、と」 「ま、そう言うなって」 それにしても、どうしてこの男はうまいタイミングでやってくるのだろうか。エアコンをつけてからちょうど八分。室内はほどよく冷えている。 「エアコンだって電気代がかかってんだぞ、ただで涼みにくんなよ」 「まぁまぁ、オレはおまえに感謝してんだからさ…」 そこへ真宵ちゃんがかき氷を運んできた。 「サンキュ。あ、そうそう、これこれ…」 黄色いかき氷を受け取った矢張がポケットからなにやら引っ張り出してきた。 「かき氷代に遊園地の無料ご招待券。三名様までタダ」 「わぁ――っ、ありがとう!」 「十月までは使えるから…まぁ成歩堂が行くかは知らないけど」 「…なんかやけに気前いいな、どうしたんだよ?」 さすがに気味悪くなって尋ねる。 ピョンピョン飛び跳ねて喜んだ真宵ちゃんは、これまたなぜだか事務所に置いてある遊園地ガイドブックに没頭し始めていた。 「ん〜? ほらオレいま夏季集中のバイトしてんだよね…で、まぁ遊園地とかでも働いてるわけでさ」 「つまりタダで貰ったもんを持ってきたわけか」 相変わらずである。 「いいじゃねーか。遊園地いいぜ? こう童心に返って楽しく遊ぶわけよ。弁護士なんてゆー頭の疲れる仕事してんだから、たまにはパ〜っとはしゃいどけって、な?」 「…そんなこと言っても昨日まで休んでたからさ、仕事たまってるんだよね…」 いいよなぁおまえは元気そうで、との成歩堂の言葉に、矢張が何かを思い出したように首を捻った。 「……そういや、アイツ風邪ひいてんのか?」 「あいつ?」 「御剣だよ。昨日の夜、バイトの帰りに見かけたんだけどさ、フラフラしながら病院からでてきてよ、声かけよっかと思ってたらそのままタクシーに乗っちゃったんでさ〜」 うん、でもありゃ風邪だな、顔赤かったし、と一人納得している。 (…御剣が…昨日?) 人のところに見舞いに来ておいて、実は自分も具合がわるかったのだろうか。 「御剣、一人暮しだよな?」 「そりゃそうだろ。同棲も結婚もしてねぇだろうから」 だとしたら。 一人、高い天井を見上げている姿が目に浮かんだ―― なぜだか、すぐに行ってやらなきゃいけないような気分になる。 「あのさ真宵ちゃん、ちょっと書類郵便局に出しに行ってくるから留守番してて…あ、遅くなったら戸締りして帰っちゃっていいから」 「は〜い」 「おい成歩堂、どっか行くのか?」 「いや、郵便局行ってから御剣の様子見に行ってくる」 「は? 何で」 「…風邪かもしれないだろ」 「いや、たぶん風邪」 「だったらお見舞いだよ。あいつ一人暮しなんだからさ」 「お〜い、また風邪うつるぞ?」 呆れたような矢張の声を背に、成歩堂は慌てて事務所から駆け出した。 事務所から御剣の家まで三駅。 駅からちょっと離れた静かな住宅街の中に立っている七階建てのマンションの、五階の角の部屋だ。一度だけ立ち寄った事がある。 その時、正面玄関から先はオートロックで入れないようになっているが、裏手の駐輪場の入り口は、幼稚園の子供を迎えに行く母親が出し入れできるように午後の数時間だけ解放されているのを教えてもらった。 多分寝ているであろう御剣のことを考えて、裏口から入る。エレベーターで五階まで上がり、部屋のインターホンを押した。 「……キミか」 ゆらりと出てきた御剣は、明らかに具合の悪そうな様子。いくぶん頬がやつれている。 「風邪は治ったのか?」 「…『治ったのか?』じゃないよ、そっちこそ風邪ひいたのか?」 「…どうもそうらしい」 「昨日から調子よくなかったんだよな、何で言わないんだよ」 「人に言ってどうなるものでもない。病気は医者に診せるものだ」 「じゃぁ医者に行ったのか? 」 「昨日行った。薬は貰っている…二日ほど寝ていれば治るそうだ」 そう言ってドアを閉めようとする。 「おい、待てよ」 ドアの間に足を突っ込んだ。 「――何だ」 こんどは不機嫌そうに顔を上げる。 「御剣、一人だろ? ボクになんかできることあるか?」 「…あいにくしてもらう事はなにもない。そっちこそ病み上がりだろう? おとなしく帰りたまえ」 「なんだってそういうこと言うんだよ、友達だろ?」 そう返すと、御剣は大袈裟な溜息をつきながら首を振った。 「…本当にキミは学習能力がないな」 「……え?」 「四年生の夏を憶えているか?」 「……四年生の…夏?」 「夏休みの真っ最中だな。風邪をひいただろう」 「あ……」 最後に風邪をひいたのは四年生の夏休み。 プールではしゃいで帰ってきた後、扇風機にあたりながら寝てしまったのが原因だった。そしてお見舞いに来てくれた御剣と一緒に遊んでいたら、御剣に風邪がうつってしまった。 「それを知って、今度はようやく風邪が治ったばかりのキミがうちに来たんだったな」 「……」 「で、ぶり返して一週間寝ているはめになった」 「……そうでした」 「帰りたまえ」 「はい…」 帰り道、妙に背中がぞくぞくする…と思っていた成歩堂は、案の定風邪をぶり返し、三日寝こむ羽目になった。 夏風邪をひくのはやっぱり…… 終 |