今となっては誰も知らない物語。
なかったことにされた話。
緑の国のアチェンラには、神様がいました。
神様はどんな人間のどんな願いも叶えてくれました。願い事自体が「間違って」いる時は叶えられませんでしたが、それ以外は何でも思いのままです。
美味しいものをどれだけでも食べられましたし、どんな贅沢も許されました。
毎日自宅の祭壇に願い事をするだけで、全てのものが手に入ります。
やがて、願い事が思いつかなくなったほどです。
資源を無駄にしたところで、神様は廃棄物を無駄なくアニムに変換することが可能でしたので、ロストエネルギーというものがありません。
エネルギーは永遠に保存され、循環します。小さな星の種族がどれほど浪費したところで、何の変化も起きませんでした。
人々は満たされました。
人々は争いを忘れました。
人々は繁栄しました。
人間の思い描く楽園が、そこにあったのです。
アチェンラの神殿には、神様が一人で住んでいました。
かつては大勢の人が詰めかけ、参拝していましたが、誰も自宅から出る必要がなくなってしまったので、今はたった一人なのです。
毎日、いつか座らせられた祭壇の上で、神様はぼんやり宙を見上げていました。
世界が理想郷と変じてから、数十年。
とある壮年の男が神殿を訪れました。
「久しぶりだな、ユナ・ルー」
本当に久々でした。
名を呼ばれ、神様はゆっくり男に首を向けます。
「ゼル」
それはかつて、神様が愛した男でした。
神様に愛されその恩恵を一身に受け、栄光の限りを尽くしたその人。
出会った時は若々しい姿でしたが、今はもう体は衰えています。
本当の本当に久々でした。
なんといっても彼は、この神殿に神様が祀られてから、初めてここへ来たのですから。
男は神様の側まで歩み寄ると、悲しげに顔を歪めます。
「人間は向上心を忘れ、働くことも戦うこともやめ、堕落し、自分でものを考えない」
「そう」
神様は興味もなく、相槌を打ちます。
神様は人間の願いを何でも叶えましたが、それが生む結果も、よく分かっていました。
誰でも考えればすぐ分かることなのです。
それでも人間は、願うことをやめられませんでした。
「こんな世界、誰も望んじゃいない。ユナ・ルー、世界を戻せ。お前にはそれが出来るんだろう?」
神様は頷きました。
これは無かったことにされた話。
今となっては誰も知らない物語。
ぱっと目を覚ましてユナ・ルーは飛び起きた。
周囲は虫の音に満ちている。
目の前には尽きかけた焚き火の炎がちろちろと燻ってい、少し肩を動かすと、重たいものが崩れた。ゼルバルトの頭だ。
ユナ・ルーは……ユナ・アニムは心を取り戻して、ゼルバルトと共に旅をしている。
今はその野営中という訳だ。竜馬は、少し先で膝を折り、眠っている。
「ゼル」
ユナ・ルーは無遠慮に、眠るゼルバルトをゆり起こした。
「……なんだよ、もー」
「ゼル、ゼル」
「て、何でお前泣いてんの?」
指摘されて気づいたが、ユナ・ルーの両の目からぽろぽろと涙が零れていた。
寝ぼけ眼のゼルバルトに頬を拭われると、ますます止まらなくなってしまう。
「夢を見た。怖い夢」
「夢ぇ?」
「そう。一番古い夢。最古の記憶」
ゼルバルトは、睡魔と戦いながらユナ・ルーを抱き寄せようとしたが―――
ふと、眉を顰めて引きつり笑った。
「よりによって『お前』が『怖い』夢ぇ? ホラーと猟奇通り越して世紀末じゃねえの」
「ある意味では、そんな感じ」
「いやいやいや。寝起きでそんなショッキングな話きっついからね?」
「ショッキングではない、と思う。少なくとも血が流れない」
ユナ・ルーにとっての怖い話であって、他人にとってみればさほどではないかもしれない。
ぷる、と身を震わせ、被った毛布にくるまる。
「その世界では、ゼルバルトは俺をシエゼ=デに預けきりにして、数十年会えないんだ」
「そこか。そこが怖かったのか」
「すごく怖かった」
「かわいいやつ……って、俺がラハト王にお前を預けっきりだぁ?」
「そう」
今となっては信じられないことなのだろうが……
ゼルバルトはかつて、こんなにもユナ・ルーを気にかけてくれた訳ではなかった。
あんまりほいほい強姦魔に連れてゆかれるので、渋々面倒見ていたようではあるけれど。
〜以下、ラハト王にユナ・ルーを預けろと言われた時の反応〜
「願ってもないことです! 正直なところ、いつでも引っ付いてくるので、薄気味悪くて仕方がなかったのですよ」
〜回想終了〜
ガン
ゼルバルトが後頭部を背後の樹の幹にぶっつけた。
「ゼル、たんこぶ出来るよ?」
「おま……それ、ほんとに俺?」
ずっと昔の世界のことではあるが、確かにゼルバルトの台詞である。
出会って数日で嬉々としてラハト王にユナ・ルーを預け、それから数十年一切会わなかった。
巻き戻しを希望した理由も、世界が堕落してこんがらがったからであり、決してユナ・ルーに会いたかった訳ではない。
「ど…ど、どういうことだ? 俺はもうお前と会った時からほっとけなくて、数日する頃にはかわいくて、側にいてやりたくて仕方なかったんですけど」
「そんなの、俺が聞きたい。どうしてゼルは俺を好きになったんだ?」
「つーか、恩恵受けるだけ受けてたんだろ!? なんでお前の顔の一つも見ようとしないわけ?」
「気持ち悪いって言ってた」
「…………」
ゼルバルトは頭を抱えて悶絶した。
「なあおい! ちょっとソイツに会えないかなあ!? 殴りたいんだけど、めりこむまで殴り飛ばしたいんですけど!!」
「不可能。ユナ・アニムは巻き戻すたびに増えたけど、ゼルは増えてない。あれも間違いなくゼル」
「いやぁああああああそんな自分を自分だと認めたくないぃいいいい!!!」
相変わらず自分に厳しいようだ。
だが、ふと我にかえって、
「ラハト王は人格者だ。そんな最低野郎の俺よりか、手厚く保護してくれたんだよな?」
「シエゼ=デは……」
古い記憶を呼び起こし、ユナ・ルーは星空を見上げる。
シエゼ=デは、確か。
〜以下、ラハト王のユナ・ルーへの態度〜
初めて顔を合わせた時、シエゼ=デは大柄な体を曲げて膝をつき、ユナ・ルーの手を取って指先に口付けた。
「ようこそ、おいでくださった。さあ、おいで。私のユナ・ルー」
〜回想終了〜
「何が『私の』だよ!?」
ゼルバルトがまた発狂した。
竜馬がびっくりして起きたではないか。
「シエゼ=デは色々と良くしてくれた。部屋も用意してくれたし……なぜか一面桃色の少女趣味だったが。衣服は大体、十代の娘が着るようなドレスだったし。
俺はそのとき二十五を越えていたから、流石に恥ずかしかった」
「変態じゃねえか!!! ラハト王あんな顔してド変態か!!」
「ドレスの裾をたくしあげられて、レースのついた薄い紐の下着を脱がされる時は、本当に恥ずかしくて………むしろ何か情けなくてちょっと泣きたかった」
「今からラハトに戻って、あの野郎ぶった斬ってきていいかなあ!!!!」
「ゼル、ずっと前のことだから」
少なくとも、今のシエゼ=デに罪はない。
「ラハトでは、シエゼ=デとアチェンラに弄ばれて過ごしたと思う。別に痛いことはなく、平穏そのものだったが」
「いや平穏じゃねーだろ。ふりふりドレスに紐ぱんつておま」
「頭には花のコサージュだ。黒歴史って、きっとああいうことを言うのだろうな」
思わず遠い目をするユナ・ルー。
「アチェンラは―――今となって思えば、アチェンラとあの時、一番よく語り合ったと思う」
神々のうちではアチェンラと最も親密と言えるラハトの元にいたからだろう。
アチェンラはちょくちょくユナ・ルーの元に現れて、花を愛でるように髪に触れたりした。満足げに。
〜以下、アチェンラのちょっかい〜
「ユナ・ルー。あの男はお前を気味が悪い、いなくなってせいせいしていると言っているぞ」
〜回想終了〜
あれを告げたアチェンラは実に喜色満面だったことを、追記しておく。
「思えばあの時のシクシクした胸の痛みは、どちらかというと胃痛だったような」
「だと思う……てか陰口を当人に教えて喜ぶ陰湿な女子かアチェンラ」
他人の陰口を当人に教えるというのは、己を信じさせる一種の洗脳法ではある。
最後のユナ・ルーにも何かゴチャゴチャ言っていたような記憶があった。あれは、趣味なのか。目的あってか。それとも両方か。
『どうして、俺を神の子に選んだの』
『お前が最も適合する素材だったからさ』
『アチェンラは何がしたい?』
『神を創るんだ。我々のような紛い物ではない。神とはなんだと思う、ユナ・ルー』
『わからない』
『神とは、この世界、自然界そのものさ。
ごく単純な理論でごく単純な運動を繰り返し、膨大な情報を生み出し続ける摂理。
どれほどこの世界を愛し世界の理を知ろうと足掻いても、到底たどりつける境地ではない。
生滅変化しない永遠絶対の真理。
それをお前はその身に宿す。お前こそが、無為となる』
よーするにアチェンラは疲れて思考停止した科学者なのだ。
この世の真理を追求してきたけど、無理だったので自然そのものを降臨させたらあ。というのがアチェンラがやりたかったこと。
ユナ・アニムは全ての願いを叶える。
叶えた結果どうなるかだとか、ユナ・アニムを創った後どうするかなど、アチェンラにとってはどうでもいい、瑣末な問題だった。
彼は単純に、作りたかっただけ。
彼の想う神を証明したかっただけなのだ。
ユナ・アニムはこの世の摂理そのものと言っていい、アチェンラが表現したかった作品そのものだが――――当人からすれば「だからどうした」である。
元来、生命とは神秘性に満ちたものだった。その設計の全てを知るユナ・アニムがそう想う。
当たり前に生まれ落ちた赤子こそ、奇跡の産物だ。
わざわざユナ・アニムのようなものを創るまでもない。
「しかし、全員分の記憶があるのか。ユナ・ルー」
「ある。わざわざ思い出そうとしないだけ」
「じゃ、ゲタのもか」
「俺に用かよ」
呼ばれて反射的に、意地悪くにっと笑うユナ・ルー。
突然表層に現れたゲタ要素に、ゼルバルトが「うげっ」と呻いてのけぞった。
「甘えんボーイは相変わらずゲタ様が恋しいってか? え?」
「わわ、わかった。お前もいるって、わかったから。心臓に悪いよ、お前!」
あんまり慌てるゼルバルトに、ユナ・ルーはくすっと吹き出し、肩で笑う。
この「笑う」という行為は、ゲタ・ルー以外の者はしない。しないというより出来ない。
あのまっとうに育ったユウナルイだけが、人間らしい感情をユナ・ルーの集合体に与えた。
本当は、ゲタ・ルーこそがユウナルイとして正しい姿なのだろう。
だいぶ話して、落ち着いてきた。
ユナ・ルーはゼルバルトの肩に頬を寄せ、目を閉じる。
「ユナ。ユナ・ルー」
優しく甘い声が降る。
「愛してるよ、ユナ。お前が、なんだっていい。俺だけの、ユナ・ルー」
「そう」
いつものように返事をしたら、なんだか自分で自分の声を冷たく感じた。
だから言い直した。
「俺も、すき。ゼル」
そうしたらゼルバルトは吐息だけで笑って、「知ってる」などという。
そうじゃない。
そうじゃないよ、ゼル。
ゼルは知らなかったんだ。俺が、どんなにゼルを好きかっていうこと。
だって俺は、ゼルに伝えなかったんだから。
一番最初の、あの時――――
ユナ・ルーは死んだ貝のように、口を閉じていた。
告げてしまったら全てが終わると言うように。
「そう。分かった。全て戻す。貴方が秘宝を授かったその時まで」
ユナ・アニムは立ち上がり、白髪の目立つ壮年の男を見上げた。
もう感情は残っていないはずなのだけれど、この男を前にすると、不思議と存在が揺らめくような感覚があった。
そんなユナ・アニムを、ゼルバルトは抱きしめた。
「ゼル?」
その抱擁は、愛情表現というよりは、慰めるようで。
「お前は、俺が授かった神の子だった。人類は責任を放棄したが、最初に放棄したのは俺だった。俺は運命と戦わなかった」
もう、ユナ・アニムとゼルバルトの外見年齢は、孫と子ほども離れていた。
子供にするように、彼はユナ・アニムの頭を撫でる。
老いた瞳が優しげに和んだ。
「また、会えるな?」
確認され、ユナ・アニムは頷いた。
いよいよ時を巻き戻すという直前、ユナ・アニムは衝動に駆られるように顔を上げた。
どうしてそうしたのか、自分でもわからない。
「ゼル。ゼル、すき――――だった」
うねる時の壁の向こうで、ゼルバルトの目が大きく見開かれた。
けれどもその世界は、それでおしまい。
最初のユナ・ルーの役目も、それでおしまい。
これは無かった事にされた世界。
誰も知らない物語。
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