淡い薄紅色の柔らかそうな髪。
クリクリとした、愛らしさの中に知的な鋭さの滲む若葉色の瞳。
色づいた褐色の肌と合わせると、まるで桜の化身のような雰囲気さえ受ける少年。
彼は今、賑やかな夜の街を、何をするでもなくフラフラと歩いていた。
短パンとパーカー姿の、何処にでも居そうなその少年が、実は天使で、しかも上級に当たる智天使だとは、誰も思うまい。
まして人に擬態したこの状況では、同階級以上の同族か、よほど彼と親しい間柄でなければ、彼の正体に気づくことはないだろう。
「ホント、昔とは大違いだなぁ」
少年は、夜を忘れたような眩い光にあふれる街に、半ば感心しながら呟いた。
彼が一番最初に地上に降りた時、大地は緑に溢れ、人間は殆ど存在せず、代わりに獣族が世界の最たる種族だった。
それが今では、獣は姿を消し、人間が世界を支配している。
神への信仰は薄れ、人の欲は深まり、その欲に取り付いた悪魔の欠片が魔物を生み出すようになった。
その対処のために、天使が人間に擬態して地上に降りるようになったのも驚きだ。
昔は、よほどのことがない限り、天使は人から身を隠すものと定められていたのに。
どれもこれも、昔からは考えられない変化だ。
そんなことを考えながら歩いて居ると、ふと周りの景色が変わった。
否、気配が、変わった。
ネオンも、建物も、確かにそこに存在して居るのに、あれ程溢れていた人間が、一人もいなくなっている。
明らかな不自然さで。
少年は驚き、目を見開いて周囲を見回す。
結界だ。お世辞にも、出来の良いものとは言えない結界。
下級天使ならばいざ知らず、彼が軽く力を込めれば、容易く壊せる程度の、低級なもの。
だが、少年が驚いたのは、突然閉じ込められたことでも、それが悪魔の仕業である事でもない。
「暇潰しに付き合ってよ。ついでにその美味しそうな魂、僕にくれると嬉しいなぁ」
声は、背後から聞こえた。
振り返ると、そこには一人の悪魔。
ミルクティ色の緩やかな癖毛から生える、歪んだ角。深い藍色の瞳は、まるで底無しの欲望に彩られる夜の闇のようだ。
そしてその悪魔から滲み出る、荒々しい炎のような気配。
その懐かしい気配に、少年は驚きを隠せない。
かつて彼が誰よりも近く、魂を通じて感じていたのだから、間違えるはずもない
。泣きたくなるような切なさを飲み込んで、少年は不敵に笑った。
「随分と手荒な歓迎だね。遊ぶのは構わないけれど、命の保障はしないよ?」
全く動じた様子のないその言葉に、悪魔はひくりと眉を上下させる。
「随分と余裕だね。
虚勢? それとも、世間知らずなのかな?」
「世間知らずなのは、キミの方だ。見た目や気配だけで相手を判断するのは、危険だよ」
そう言うと、少年は擬態を解く。
ぶわりと何処からともなく薄紅色の花びらが舞い、少年を囲うように渦となって舞い上がる。
暫くして、まるで弾けるように吹き抜けた風が、花びらの渦を散らす。そしてその後には、四枚の翼をその背に宿した、一人の智天使の姿が残った。
猫を思わせる三角の耳と、柔らかなフサフサの尾が余裕に溢れた感じでゆったりと動く。
見た目は少年のままだが、その身体から溢れる力は先程とは比べ物にならないほど強い。
「さぁ、遊ぼうか。
僕が勝ったら……君の主人について、教えてもらおうかな」
その力の源になったであろう、悪魔について。
はやる気持ちのままに、一息で勝負をつけようと、智天使は光の矢を悪魔に向けて放つ。
しかし、その矢は目的を果たす事なく、紅蓮の炎に阻まれ霧散した。
本気ではないとはいえ、こうも簡単に、しかも姿を見せることなく術を弾くとは。
相変わらず、戦闘慣れしているというか、力の使い方が上手いというか。
先程より色濃くなった懐かしい気配に、智天使は声を上げる。
「姿を見せてよ! 隠れてないでさっ!」
その声に呼応するように、空間が歪み、更に一匹の悪魔が姿を見せた。
燃えるような赤い髪と、少し気だるげな様子の金色の瞳。
大地のような、野性味溢れる褐色の肌。
一見昔と変わらないように見えるが、その頭には歪んだ角が二本、生えている。
昔とは明らかに違う禍々しい悪魔の気配をまとう彼を、智天使は泣きそうな顔で見つめることしかできなかった。
「面倒な奴に喧嘩を売ったな、ローレル」
赤い悪魔は智天使に視線を合わせず、配下を見て苦い顔で言う。
「だって、美味しそうだと思ったんだ」
反省の色なく、笑顔で言い放つ配下の言葉に、悪魔はあからさまに呆れたため息を零す。
「あいつはやめとけ。お前の敵う相手じゃねぇよ」
「じゃあ、プラリネ、お願い?」
「あぁ?冗談じゃねぇ。面倒くせぇ」
色気の滲むおねだりをあっさりと蹴り、プラリネと呼ばれた赤い悪魔は配下の悪魔を抱き寄せる。
その仕草はとても親しげで、それだけで、この下級悪魔が彼のお気に入りだと分かる。
「ほら、帰るぞ」
その一言で、懐かしい姿に見とれていた智天使は我に帰り、慌てて声を上げた。
「待ってよ!」
ベリス!!叫んだはずの名前は、何かに阻まれて声にならない。
智天使にとっては懐かしいだけの名前だが、悪魔にとっては己の弱点でもある真名だ。
恐らく、彼自身か魔王によって保護されているのだろう。
その現実が、ますますこの悪魔が堕ちてしまった事を認識させて、胸が痛くなる。
そんな智天使の心を知ってか知らずか、赤い悪魔は転移のための空間の歪みを作り出す。
「今は、お前と戦うつもりはねぇよ……レイシオ」
言うや否や、彼は智天使が言葉を発する前に、配下を伴って消えてしまった。
同時に結界も消され、街のざわめきが戻ってくる。
咄嗟に擬態し直した智天使は、しかし、表情までは冷静さを保てず、顔を歪ませる。
そして、歯を食い縛って嗚咽を堪えながら、その大きな翡翠色の瞳に涙を滲ませた。
「ズルい……ズルいよ、お兄ちゃん……」
あんな風に名前を呼ばれたら、咄嗟に攻撃などできるはずがない。
思いも寄らなかった再会が齎した胸の痛み。
それに蝕まれ、少年は暫くの間、そこから動く事ができなかった。
end
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