チョコレートは甘過ぎる
硬く閉ざされた、豪奢で大きな扉。
聖なる力を溢れさせるその扉の前に跪き、レイシオは静かに頭を垂れる。
この向こうに居るはずの、最愛の父に向けて。
神に謁見することを許されている立場ではあるが、玉座の間に自由に入れるわけではない。
この扉を開ける事を許可されているのは、限られたごく一部の大天使と、主である神自身のみだ。
故に、レイシオは扉の前で祈る。
無心に、いつになく必死に。
謁見を求めたいとか、お言葉を頂きたいなどという大それた願いはない。
ただ、心の安寧の為に、祈らずには居られなかったのだ。
不意に、音もなく扉が開いた。
驚いて顔を上げた先には、玉座に座る男が一人。
金色の絹糸のような髪、こちらを見つめる慈愛と深い英知を詰めたような翡翠色の瞳。
何より、全身から溢れる直視できないほどの聖なる力に、レイシオの心が震え歓喜する。
「おいで」
低く優しい声が、鼓膜を震わせる。
まさか、声を掛けて頂けるなどとは思っておらず、突然の出来事に彼は戸惑う。しかしすぐに心を決め、命じられるままに立ち上がり、一歩を踏み出した。
ゆっくりと、途中部屋の中を見回しながら、玉座の前まで向かう。
部屋には、神以外誰も居なかった。
二人きり。
その事実が、レイシオの緊張を解いてくれる。
頼りなさげに神と同じ翡翠色の瞳を揺らしながら、彼は玉座の前にくると今一度膝を折る。
だが、そっと手を差し伸べられて、動きを止めた。
「おいで、レイシオ」
「……っ、……」
それは、許可というよりも、命令。
レイシオがそっとその手に己の華奢な手を重ねると、掴まれ、その胸に頭を抱かれる。
暖かな手が、頭を撫でる。
柔らかな三角耳の後ろを掻く様に撫でられ、レイシオはそのぬくもりに、うっとりと目を細めた。
とはいえ、その幸福に全身を投じるには、胸を締める切なさが苦しくて。
「…………」
堪らず閉じたレイシオの瞼に浮かぶのは、懐かしい天使の姿。
燃え上がる炎のような赤い髪。
木々を、命をはぐくむ大地と同じ、褐色の肌。
活気に溢れた、ほんの少し面倒くさそうな色を乗せた金色の瞳。
太陽の光を思わせる、薄い金色の一対の翼。
それは、本当に微かな、霞のような残り香が齎した幻覚。
今は居ない、兄と慕った天使と同じ、悪魔の気配。
役目から帰還した部下がつけてきた香りは、レイシオの心を動揺させるのに十分で。
結局、消滅した悪魔は中級でも低い地位の者で、彼ではなかったけれど。
笑って、労うのがやっとで、逃げるように此処にきてしまった。
そんなレイシオの心情など、神にはお見通しだろう。
だが、神は何も言わずに、ただ優しくレイシオを抱きしめてくれる。
どこにも行かないと、ずっと傍らに居てくれると、慰めてくれるように。
神だけが持つ、安らかな慈愛で包み込んでくれるのだ。
「…………」
緊張が解けたようにそっと溜息をもらしたレイシオの口元に、神の指先が触れる。
正確には、神がその指先で摘んだ、茶色い固形物が、触れた。
「チョコレート……ですか?」
人間の食べ物。
実際に口にしたことはないが、何度か見たことがある。
「食べなさい」
言われるままに、レイシオは口をあけてそれを受け入れる。
神の指から、口内に落とされる一粒のチョコレート。
それはすぐに溶けて、口の中にトロリとした甘さを齎してくる。
まるで、幸せの詰まった濃厚な記憶のように。
そして残る、ほんのりと苦い、でもどこか優しい香ばしい風味。
それは、人付き合いが苦手で、不器用で、でもいつだって優しかった彼を髣髴とさせて。
それらが過ぎ去った後、最後に残るのは、飢えにも似た喉の渇き。
「プラリネとも、呼ばれている」
渇きを持てあましながら、喉を鳴らしていると、神がそう教えてくれる。
どうして今、そんな事を教えてくれるのか。
レイシオには分からない。
ただ、知識として頭の片隅に記憶するだけ。
そんな彼に改めて差し出されたのは、赤と金色の装飾がなされた、褐色の粒。
手を伸ばす事も、まして受け取る事もできずに、レイシオはその粒をじっと見つめる。
今にも、泣き出しそうな瞳で。
「食べるか?」
今度は、問いかけ。
レイシオは申し訳ないと思いつつも、静かに首を左右に振った。
そして、視線を伏せ、ポツリと呟きを落とす。
「僕には……チョコレートは、甘過ぎます」
その声は微かに震え、掠れていた。
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